とても、正気の沙汰とは思えない。
それは誰かに対してそう思ったわけではなくて、自嘲の意味が込められたものだ。
何と言うか、ここ数日で感覚が完全に麻痺してしまったらしく、後数日の辛抱だとわかっていてもどうにも心の靄が晴れないのだ。
かごめが幼児化して五日、期限の十日のうち、ようやく半分が過ぎた事になるのだが…。
気持ちの好い日和に、かごめに誘われて犬夜叉は川原へ遊びに来ていた。土手には色とりどりの花が咲き乱れ、かごめはそれを摘んで花冠を作っている。
しかし、犬夜叉は先程から明後日の方を向いてむっつりと黙り込んでいた。
それと言うのもつい先刻、面白半分でかごめにおすわりを連発されて、きつく叱りつけたばかりであるが故。
謝りはしたものの、怒られてしゅんとしてしまったかごめは、それからずっと一人で花を摘んでいる。
少し可愛そうな気もするが、あまり甘やかすとまた同じ事を繰り返しかねない。要するに、記憶も何も元に戻ってしまっているかごめには、今までにあった節度や分別といったものまでも逆戻りしてしまっているわけだ。何が悲しくて惚れた女へ物の道理や善悪なんぞ言って聞かせねばならないのか。馬鹿馬鹿しい以前に自分の殊勝ぶりにほとほと呆れ果ててしまう。しかも後五日で元に戻ってしまうのだからどう考えても無意味だ。この子守りに一体何の意味があるというのか。
ただ、仲間の法師や退治屋の娘、子狐達が口を揃えて言うには、『犬夜叉がかごめに説教をするところなど滅多に見られるものではない』と半ば状況を楽しんでいる有り様である。所詮他人事なのだから、いい気なものだ。
犬夜叉にしてみれば堪ったものではない。相手はかごめだ。紛れも無く、自分が惚れた女だ。それなのに、その女は子供なのだ。
彼自身、それほど放埓には出来ていないばかりか、こんなに小さな子供に手を出すなどどう考えても犯罪―――それ以前にそんな趣味は無いのである。
ここ数日の犬夜叉の苦悩っぷりは、哀れを通り越してもはや珍妙と形容できる域にまで達していた。
今のかごめはどう見ても四、五歳くらいの、漸く言葉の意味を理解し始めたばかりの幼子である。
思わず攫って帰りたくなるほど愛らしい少女ではあるのだが、後十年先ならまだしも、犬夜叉が出会って想いを寄せたのは十五歳のかごめであって、同じ人間でもこれはちょっとあんまりだ。
ほんの五日前までは、それなりに変わらぬ日常を過ごしていた。何気なくてもやはりかごめの事は愛しくて、事あるごとに彼女を気遣う自分がいた。柔らかく、温かいその肌に触れたくて、二人きりになると決まって身を寄せ合って座っていた。抱き寄せるのもあまり抵抗がなくなってきたし、艶やかに微笑まれると二の句が告げなくて、その瞳に吊り込まれそうになった。
今犬夜叉が欲しているのは、かごめとのそんな関係である。だが、状況的に言って絶対にありえない。だからこそこんなにも苦労しているわけだが、犬夜叉の心理からすると、やっと半分、まだ半分といったところだろう。
しかも、その悩み過ぎが祟ったのか、昨夜は散々な夢を見た。
いつものかごめが現れ、微笑んでくれて、久し振りに幸せな気分になれたところまではよかったのだが、問題はその後だ。
いきなり抱き付かれて迫られ、こっちが押し倒されてしまった。熱に浮かされたように潤んだ目で口付けをねだられ、おまけに自分で服を脱ぎ始めたのには流石に焦った。
浅い息遣いと、滑らかな感触。囁くように呟かれた言葉。
「……て、犬夜叉」
ぐらりと世界が回った。
現在、目の前で花を摘んでいる幼子からは想像もつかない。あんな色っぽい仕草は、目の前の童女とどうしても結びつかないのだ。
「あ〜ちくしょう!」
いい加減不貞腐れたくもなるというものだ。その原因たるかごめは、我知らぬ顔で花冠作りに精を出している。
何となく、この後どうなるのか想像がついた犬夜叉が腰を上げようとすると、かごめが慌てた様子で駆けてきた。
「ちょっと待って犬夜叉」
「あぁ?」
普通の人間なら、犬夜叉に眉を寄せて煩そうに問い返されたら退いてしまうものなのだが、ことかごめに至っては、形【なり】が子供だろうと慣れてしまえば全く問題ないらしく、少し困ったように首を竦めるのみである。
「あのね、さっきは、ごめんなさい」
そう言って、手の中の花冠を差し出す。
犬夜叉は内心で舌打つ。やっぱりだ。自分はこういう素直な行為に対応する術を持たないのだ。だからそうされるに逃げようと思っていたのに、一足遅かった。
しかし逃げそびれた理由は、単にタイミングを誤っただけではないと自分でも気付いているから余計始末が悪い。
「いらねーよ、んなもん」
結局漏れたのは、そんな労わりの欠片も無いセリフだ。つくづく、己の真の敵とは実は言葉なのではないかと思えてくる。
「でも、だって犬夜叉、ずっと怒ってるし…」
今のかごめは、我侭を言うことはあっても犬夜叉の言う事には殆ど反抗しない。いや、そもそも自分がかごめに反抗していたのが二人の始まりであるからか、それほど強く出られないのも事実ではあるのだが。
だからこそ、この幼いかごめに愛着が湧かないはずが無い。何の力も無く、完全に自分の庇護下にある小さな娘は、犬夜叉の保護欲を満足させるには充分過ぎる存在だった。
けれども。
「別に怒ってねえ」
「ホントに?」
こうしてかごめと話していてもやっぱり物足りない。というよりも、張り合いが無いのだ。
「怒ってねえつってんだろ」
犬夜叉は無造作に花冠を掴み上げると、ばさりとかごめの頭に載せる。
少々不機嫌そうに口を尖らせたかごめは、それでも踵を返した犬夜叉の後にちゃっかりついて行く。
「ねぇ、どこ行くの?」
「どこでもいいだろ」
「よくないもん。楓お婆ちゃんと弥勒様が、暗くなる前に戻りなさいって言ってたもん」
「そりゃお前だけだろ、俺は言われてねえ」
かごめはぷうっと頬を膨らませた。
今更犬夜叉の心配など誰もするわけがない。そんなふうに言われるのは自分が子供だからなのだと自覚しているだけに、かごめは不機嫌の矛先の行き場を無くしてしまう。
「じゃあかごめも行く。犬夜叉と一緒なら平気でしょ」
半ば意固地になっているのは犬夜叉から見ても明らかだったが、気が強く、相手と対等でいようとする姿勢はどうも彼女の本質らしい。
要するに犬夜叉は、どうあっても勝てないのだ。
しばらくすたすたと付かず離れず歩いていたが、犬夜叉自身、こんないたいけな幼子を無碍に扱えるほど悪党ではない。先程から罪悪感と言う名の針にちくちくと苛まれていては、犬夜叉の方が根負けするのは時間の問題だった。
「相当参っているようですな、犬夜叉」
「つーか何とかしやがれ。これ以上は我慢ならねえ」
とは言え何だかんだとしっかり面倒を見ているところはまんざらでもないのかもしれない。
そんな事を思いつつも、やはり男として同情する気持ちの方が強い弥勒である。
夕餉を終えて、かごめや七宝を寝かしつけて漸く人心地ついた犬夜叉に、朗報を持ってきたのだ。
「うむ、あれから我々も色々と調べてみたが、あの粉はもともと妖怪の一部であるわけだからな、肉体を乗っ取られたわけでもないし、何とかなるかもしれん」
「本当か?」
「明日、かごめ様に了解を取って試してみましょう」
願ってもない。この生殺し状態から開放されるなら、もう何でも来いだ。
ふとかごめの方を見遣る。安らかな寝息を立てて熟睡しているかごめだが、しどけなく散った髪や着崩れた襦袢の隙間から覗く滑らかな肌に、何故かこんな時ばかり女の陰が見え隠れする。
子供は苦手だが、決してかごめを鬱陶しいなどと思っているわけではないのだ。
ただ、自分がかごめに求めているものは、平穏なだけに終わる関係ではないから。
もっと貪欲で、身勝手で、他人などが簡単に入り込めない、そんな関係でなければ駄目だ。
そう考えると、自分がどれだけかごめに甘えていたか、依存していたかを厭と言うほど知ってしまう。
歳を重ねた分の表情には、控えめなものや痛切なものに加え、理解して受け入れる強い輝きがあった。まるで、その眼差しで守られているような、慈愛に満ちた微笑み。会った時から譲歩させてばかりで、こちらの我侭で何度泣かせる思いをさせたか判らないのに、それでもかごめは笑ってくれる。そして何でもないことのように言ってくれる。
『仕方ないわよ、好きなんだから』
そんな時は決まって少し切なげに、けれどとても幸せそうな顔をするのだ。
そして自分はいつも、掛ける言葉が見つからなくて黙り込む。
否、きっとそれは、言葉を捜す為の沈黙ではない。本当はその表情に見惚れて、何も言えなくなってしまって、抱き締めたい衝動を押さえる為になけなしの理性を総動員している状態なのだ。
恋ふる想いの、行き場が欲しい。
本当に取り戻したいのはかごめの身体ではなく、その想いだから。
「では、始めましょうか」
かごめに纏わり付いた妖鳥の妖気を取り除けば、もとの年齢に戻せるはずだ。
弥勒は板間に座り、大きめの白単衣を着せたかごめに目を閉じさせ、その両肩に塩を振りかける。そして彼女に人形【ひとがた】を持たせ、ゆっくりと呪を唱え始めた。
やがて、かごめの輪郭が淡く光り出し、人形へ集まり始める。
弥勒の両手が複雑な印を結び、一気に妖気を人形へと移し変える。
ただ妖気を祓うよりも、形代に依り憑かせた方が確実との考えからだろう。
同時にかごめの身体は、急速に成長を始めていた。
纏っていたぶかぶかの単衣に、身体の線がぴったりと沿う。
何かが、戻ってきた。
それは束の間の浮遊感と共に、しっくりとかごめの中に落ち着いた。
まるで永の眠りから覚めたような、懐かしい感覚。
かごめは法師が促すのも待たず、ぱっちりと目を開けた。
「あ、あれ?弥勒様、あたし…」
「どうやら、無事に戻られたようですな」
法師の穏やかな微笑とともに迎えられたかごめは、己の身に起こった出来事をさっぱり理解できないでいた。
「ちょ、ちょっと待って。えぇとあの、あたしさっきまで記憶すっぱり抜けてたような気がするんだけど・・・」
それを聞いて、弥勒は目を見開いた。
かごめは自身の記憶が抜けていた事を自覚している。
という事は。
「もしや、幼子になっていた時の記憶があるのですか?」
「や、やっぱり?」
子供になっていたのか。とかごめは弥勒に事実を確認する。
かごめの説明によると、子供に戻っている間は、確かに今までに経験した事の記憶は無かったらしい。だが、元の年齢に戻った今は子供になっていた間の事はしっかり覚えているという。
つまり、そんなわけでかごめは、犬夜叉が子供の自分を相手に今までどれだけ悪戦苦闘してきたかを思い出し、そして理解できてしまった。
「あたし、犬夜叉のとこに行って来る」
「それがいいでしょう、あいつもそろそろ我慢の限界でしょうから」
かごめは何時になくいそいそと小屋を出て行く。
犬夜叉の苦悩を思えばこそ、何もしてあげられなかった五日間が途方もなく勿体無い気がした。
―――ねえ、今日も笑顔で会いに行くから。
ちゃんと受け止めて…あなたの腕の中に。