あたしのおきにいり
マイ フェイバリット






























 タルト型に敷いた生地に空気穴をあけ、一時間ほど冷蔵庫でねかせる。土台に流し込むカスタードの準備は昨日のうちに済んでいるので、しばらくは暇だ。一晩の間にクリームが変質していないかをチェックしいしい、あたしは手元の本のページをめくる。しばらくぶりの作品だから筋をちっとも覚えていないが、それはそれで楽しめるだろう。
 ――中表紙にひどく無造作に貼られた、水色のポストイット。癖の強い自筆の文字に軽く目を走らせると、元々黙りこくっていたあたしは更に絶句した。





 『五月六日、読始。さらりとした文体のわりに、中身の理解に時間がかかる。読みづらい印象が強い。』





 今日はゴールデンウィークの初日で、メモは六日。刊行年からしても、ちょうど去年の今ごろの記録であることは確かだ。ふうん、あたしもまだまだ青いのねえ…こんなミスはしていないつもりだったのに。
 ――あたしはどちらかというと、本が好きで好きでならないたちだ。ついでにいえば乱読家の部類にも入るし、ものの考え方にハイティーンの少女らしからぬところがある、と評されたこともある。それが賛辞なのか、はたまた批難なのかは知らないが。
 本屋へ行くと、あたしは必ず立ち読みをしてしまう。けれど手に取った本は決してその場では買わない。今しがた斜め読みした本の筆者名とタイトルを頭に叩きこみ、後ろ髪をひかれながらもその場を後にする。数日してもその本のことが頭にこびりついて離れなければ、ようやくその本を引っつかんでレジへと向かう。
 読み終わったら、簡単なメモをつけて本の中へ滑り込ませておく。人に勧めたり、何がしかの意見論述の際の参考にしたり、用途は実にさまざま。独自の感想というほど忘れにくいものはないので、たったこれだけで検索や整理の役にもたつ。
 それはあたしの中でのルールというか、大げさにいうならライフワークにしたいと思っている。本当に吟味したものだけに囲まれた老後なんて、想像しただけで素敵。とびっきりメルヘンチックだ。
 ――ああ、それが本じゃあ色気もそっけもない、というご意見はひとまず脇に置いておく。そもそも話の趣旨ではないし。
 ともかくあたしの場合、選んだ本を一旦懐に仕舞い込んでしまえば、手放すことは絶対にない。理由はどこまでもシンプルだ。あたしが、その本を愛しているから。或いは、愛していると確信した上で所有物にするから。
 嘘くさい、気色悪いと蔑むなら存分にどうぞ。一切の迷いを排除した、これが本音なのだから、どう謗られようとあたしは一向に構わない。
 あたしは、あたしだけのものとなった総ての文字たち、作品たちを心から愛している。ついでに云うなら、あたしのすぐ傍にいてくれるもの達はどれも、そうでないものよりはかなり大切だ。
 けれど彼氏――この呼称は非常にナンセンスだとは思うけれど、一般的にはこう称するしかない――はあたしのことを、『釣った魚に餌はやらないタイプだ』などとのたまうのだから腹がたつ。
 自分がどういう人間かは、少なくとも最もあたしと付き合いの長いあたしの方が判っているんじゃなかろうか。そう思うけれど、そこで論議をおっぱじめる気にはなれない。面倒臭い…というより、子供の喧嘩にしかならないと判っているからだ。甚だ厄介な話だけれど。
 あたしたちがお互いに抱いている感情は、毎日下らない悪戯ばかりして笑い転げているがきんちょの友情とまるきり変わらない。ただ、二人とも随分と大きくなっていて、おまけにうっかり性別が違うもんだから他にややこしい手続きが必要になっただけ。
 判りにくいというのなら…まあ、彼らが帰り際に両手を振り回してじゃあなと叫ぶ代わり、あたし達は体を絡めてキスをするんだと考えてもらえばよろしい。やることは変わったけれど、それが何を意味するのかという部分はそのまんまなのだから。またね、明日も一緒に遊ぼうね。
 話がそれたが、とにかくあたしはそう踏んでいる。ヤツがどう考えているかは聞いていないが、似たような認識をしているのは見ていて判る。
 ルックスとか表面的な性格とか、あとは社会的な地位とか何とか。そういうものだけで落ちてやるほど、あたしは人が良くない。審美眼…と呼ぶにはちゃちなものだろうけれど、そこそこの分別と客観的な観察力はあるつもりだし。






























 同時進行でそんなことを考えていたせいか、ページの進みはあまり速くない。一年も御無沙汰していた本との再会は、やけにぎこちない感じがした。メモにある通り、文字が頭に入ってこない。
 いやはや、ひとたび文章が勝手に脳を満たしてゆく感覚に慣れ切ってしまうと、そうでない時は非常にやりづらくなるものらしい。苛立つ気持ちをどうにか押し込めながら、あたしは極力平静にページを繰っては読み進める。
 …自分で書いておいて何だが、あのコメントがどうしても気にかかってしまって。
 短い人生で出会える本などたかが知れている以上、傍におくのは気に入ったものだけに。それがモットー。
 だのに、どうしてこの時のあたしはこんな否定的なことを書いたのだろう。いや、そういう事を書かずにいられないような本を買ったのか。中身はある程度、買う前に把握しているはずなのに。
 あたしの認識なんて、所詮はこの程度だったのだろうか。厳選に厳選を重ねているつもりでも、それは曖昧で適当なものでしかない――そう仮定すると、途端に寒気がする。さっきの主張は、本に限った話ではないからだ。
 あたしの基本というか、色々な意味で根っこの部分。それがそっくり覆されてしまうかもしれないという危惧は、底なしの谷を覗き込んでいるような錯覚を起こさせる。深くて何にも見えなくて、ついでに手を滑らせれば二度と戻ってこれやしない。
 あたしは間違っている。それはつまり、あたしが反論する彼の言が正しいということになってしまう。手の平の中に握り締めているものに対して慈しみの心をもたない人間だなんて、そんな莫迦な。
 ところで、厭だ、認めたくないと騒ぎ立てる声を脳の片隅に追いやりつつの読書には、妙な安堵感があった。無意識にテンポアップして駆け抜けた後半が、思いのほか身に馴染むのだ。相性は悪くない…もとい、かなりいい。
 ――はてさてそうすると、この覚え書きは一体どういう意図があったのやら。
 爽快な気分で読み終えて首を傾げるが、答えはすぐに出た。最後のページとカバーの隙間、わざわざ隠すように挟まれたルーズリーフのきれっぱしが淡々と告げる事実に、今度こそあたしは絶句する。さきほどの沈黙など、ものの比ではない。





 『同じく五月六日、読了。確かに読みはじめは多少の違和感らしきものを覚えるが、ラストがこれ以上にないほどいとおしい。ラストを踏まえて読み返す冒頭は、初読とは全く違うものになった。本当に、言葉というのは恐ろしい。
 ところであたしは、意図的に読始のメモだけが目につくようにして残しておく。一体、何を思って読むだろう。…まあ、そのへんはおおまかなところの予測はとうについているのだけれど、果たして自らを振り返るための良い薬になっただろうか。ただのドッキリに終わっていないことを、切に望む。』





 後半の文章そのものと、前半とのアンバランスさ。あたしはこのギャップに惹かれていたのだ。そしてその結論に至るまでの行程には、ある種ミステリーの要素が含まれている。今回の読書の目的は、この本を所有しようと思った動機を探り出すこと。言い換えれば目の前の謎を解き明かすことだったから、首肯できる範囲だ。
 そして過去のあたしは奇怪なことに、どうしてもその感覚を再度味わいたかったらしい。その為にわざわざ気をもまずにはいられないようなことを書き残し、未来の自分を不安に煽るのだ。なかなかどうして、我ながらいい性格をしている。
 全くご苦労なことで――ふ、とかすかに顔が綻んだのが、鏡を見るまでもなくわかった。
 ちょっとやそっと揺さぶったところで崩れることのない、確立された凛呼たる意志。目指すものには遥かに届かないけれど、とりあえず手遅れではないらしい。あたしはぎりぎりの、本当に辛うじてのラインだけれどあたしを信じていられる。 
 しかしなんと云うか…自分のアイデンティティーを疑懼してみるなんて、滅多にないことだ。楽しいものではないが、貴重といえば貴重な体験。在りしの彼女よ、愛しい本よ、スリリングなひとときを有難う。
 感謝の意味であたしは、唇を背表紙の真中にそうっと押し付ける。何だかぺたぺたするような気が、しないでもないけれど――しまった、ついさっきカスタードを味見したんだっけ。
 慌ててティッシュの箱と、湿らせた布巾を持ってくる。ページがしけったり、あるいは変な痕が付いたりすることのないよう、細心の注意を払いつつ、あたしは二種の道具で本の表面を撫でる。
 幸いにして汚れは残らなかった。ほっと一息、あたしは溜飲を下げる。愛していると公言してはばからないようなものをぞんざいに扱えるほど、あたしはまだアバウトな人間ではないらしい。
 良かった…ああもう本当に。 






























 ふと時計を見ると、既に一時間と十七分が経過。あらかじめ余熱しておくところをすっかり忘れていたあたしは、わたわたとオーブンに火を入れた。ついでだから、と使った道具や食器の後始末も始める。
 百八十度に達したところで、生地を投入。三十分もすれば、綺麗に焼きあがるはずだ。そうする間に一渡り片付けも済んで――残り八分。あとの作業は焼きあがりを待ってからでも遅くないだろう。
 どれ、今のうちに着替えくらいは済ませておくとしますか。
 汗ばむような正午の陽射しに、金色をした五月の風。芽吹いたばかりの新緑もそうだけれど、初夏の匂いというのはびっくりするほど爽やかだ。いわゆる季節の変わり目、思いっきり中途半端な時期なのに、いっそ透徹なまでにすがすがしい。
 本を片手に携えたあたしはつらつらと考えながら、服を替えに自室へ足を向ける。いくつか候補を決めておいたから、あとはインスピレーションがすべてを導いてくれるだろう。
 クロゼットを全開にして選んだのは、ベビーピンクのノースリーブワンピと細身の白い革ベルト。そこに、誕生日にと買ってもらったばかりのルイヴィトンのミニルーピングをあわせる。あとは靴だけれど…今日は華奢めなヒールにしようか。
 ふと思いついて、肩から七分袖の黒いカーディガンを羽織ってみる。どうしようか少し迷ったが、ヌーディーベージュのストッキングにも足を通した。今日ほどの陽気なら、映画館の中が冷えていないとも限らない。
 何を観るかは決めていないが、それが終わったらアイツの部屋でああだこうだと批評をするのだろう。夕食が入らなくなるのを恐れたあたしがロイヤルミルクティーのカップを傾ける横で、糖分補給と大義名分を掲げたヤツがあたしの差し入れたフルーツタルトを頬ばっているのが容易に想像できる。
 そして毎回のごとく彼は云うのだ、本当はどこかで買ってきたんだろうと。一度でいいから本気でぶん殴ってやりたい、あたしが密かに考えるそれはしごく真っ当な意見に違いない。






























 読む暇があるとは到底思えないが、本は鞄のポケットに忍ばせておくことにする。流石は自称ブックジャンキー、完全に癖になっている――苦笑交じりにキッチンへ戻ると、とたんに香ばしい匂いがあたしを包んだ。
 ほれぼれするような狐色をした生地を型から取り出し、しばらく冷ます。トッピングするフルーツが傷んでいないか確認がてら、苺を粒一粒つまみ食い。甘酸っぱい果汁を舌で転がしながら、あたしは用意していたホールケーキ用の紙箱を取り出した。
 とろりとしたカスタードクリームを型に流し込み、フルーツを飾り付ける。配色や重さのバランスを考慮しなければならないので、これが案外むつかしい。
 もしあたしがジュエリーショップの店員で、ビロード貼りのボックスに宝石をディスプレイしていくとしても、こんなに悩まないだろう。喩えにしては些か陳腐だけど。
 フルーツに刷毛でシロップを塗って箱に詰め、それを紙袋に入れる。これで、完璧なフルーツタルトの完成。あとはあたしの身支度がいくばくかだ。
 あたしはもう一度部屋へ行き、コスメボックスとは名ばかりの、各種化粧品をごたまぜに突っ込んだケースを引っ張り出す。鼻歌まじりに自分の顔にメイクを施してゆくが、普段はカラーレスにするところをパールピンクのグロスで仕上げた。
 よし、とばかりにあたしは笑みを深くする。助手席に乗り込んだらまっさきにあの本にしたのと同じことを、そう企んでいるというのはここだけの話だ。






























 あたしは、本を心の底から愛している。そして、彼に対する感情がそうかと問われると、正直な処自信はない。
 けれどあたしが本当にどうでもいいと思っているのなら、手間が掛かる上にあたしの嗜好にはいまいち合わず、ついでにフルーツ代はやたらと高いヤツの大好物なんか作っていったりはしない。
 ――小脇にタルトを抱えたあたしは、彼が車を降りて迎えに来てくれるのを、本に視線を落として静かに待っている。