「っ、いたっ」
「んあ?どうした」
「やだ、木の枝に髪の毛挟まっちゃってる…犬夜叉、ちょっとお願い」
「おう。これでいいだろ」
「あ、ありがと――って何これ!?」
「…何だよ」
「あんたねー、あたしは絡まった部分をほどいてって頼んだのよ?それを、こんなっ…切っちゃうなんてひどいじゃない!!」
「え”、いや、その――うるせえ、たかだか髪の一本や二本でごちゃごちゃ云うんじゃねえ!」
「…へえ、そういう事云うわけ。なら、女の子の髪を許可なく切った罪、とくと思い知りなさい!おすわりっ!」
「ぐえ”え”っ!」
「出会ってすぐの頃は、あーんなに無神経だったのにね〜」
「やかましい。大体なあ、てめえのことだってのに、何でそんなに呑気そうなんだよ。――お前ひょっとして、今の状況完全に人事だと思ってねえか?」
「実はすっごく思ってる。でもしょうがないじゃない、あたしにはどうしようもないんだもの」
「そりゃ…そうだけどよ」
「でしょ。ところでまだ?」
「まだだな。勾玉の間に、ものの見事に喰い込んでやがる」
「――さっきも同じこと云ってたじゃないの…つくづく不器用よね、犬夜叉って」
「たく…判ってんなら大人しくしてろよ、かごめ。余計に取れなくなるぞ」
のほほん、とあくまでも穏やかな空気を醸しだす少女と、そう気温も高くないのに汗をかきかき、難しい顔で手元を凝視する少年。
互いの息遣いを感じられるほど至近距離だが、かごめは犬夜叉に背を向けたまま微動だにもしない。まあ、身動きが取れないと云うほうがよほど正しいのだが、それはさておき。
犬夜叉の無骨な――というには些か線の細い感があるが――掌【てのひら】が、彼の首に掛けられた念珠の一部をしきりに弄りまわしている。その手の中にあるのは黒曜石のように艶やかで一本一本が細い、かごめの後髪【うしろがみ】。節くれだった長い指の先、鋭く冷えた鉤爪【かぎづめ】で引き裂いてしまうことのないようにと彼が心を砕いているのはそのためだろう。
要するに、ちょっとした拍子に彼の念珠が彼女の毛先を絡めとってしまい、それを解くのに犬夜叉が四苦八苦している、という訳だ。そして迂闊に動けば己の黒髪がぷつぷつと無残な姿に変じてしまうことを判っているから、かごめはかごめで大人しく――多少語弊があるようにも思えるが――していて。
そうこうするうち、少年はどうにか、己を封じる首飾りから少女の髪の末端を抜き取り終える。
――問題なのは、多分それから。
するり。
ふわり。
つるり。
さらり。
(やっぱ――綺麗、だよな)
今しがたほぐしきったばかりの翠【みどり】の髪に、しきりと指の腹を滑らせながら犬夜叉は思う。
かごめの持つ黒は、吃驚するほど柔らかくて触り心地が良い。そのくせ、くるくると指に巻きつけてやるとぷるんと弾力を示して掌を落ちる。彼の手を逃げ出した夜絹の糸は、不意にやわ、と甘く匂って彼女の背を覆った。
(あ…)
たったそれだけの微かな変化に、ぴくりと少女の肩が揺れる。まずい、と瞬間少年は息を飲んだが、かごめはその後何も云わなかった。
(髪は女の命、たぁ云うが――本当に神経が通ってる、身体の一部みたいなもんか)
そう考えると、ただの物体だった緩やかな流れがひどく好ましい。思いを巡らせ、少年は再び少女の鴉の濡れ羽色の一房をつまみ上げる。
――ただ、愛しい。
くる。
ゆら。
すう。
ぱさ。
(もうほどけちゃってる…んじゃ、ないのかな)
ひどく緊張した様子だった犬夜叉の雰囲気が打って変わり、僅かに感じた空気にかごめは内心首を傾げる。いま、髪が肩口から落ちかかったように感じたのだが――果たして気のせいだったのだろうか。
(あ、やっぱりそうだ)
彼の指先きが、それと判らないほどに背なをこする。引っ張られると云うには不十分な感触が、持ち上げられた髪を通して伝わってきた。
(何だろ…すごく、気持ち良い)
たかが髪とは云えど、やはりこれは自分の一部だ。いつも彼が触れてくる、無造作でぞんざいな動作とも違う、慈しむような感触がとてつもなく快かった。
――ただ、触れてもらう。
「ね、まだ?」
「まだ、だ」
「そっか」
「…ああ」
髪の先まで愛しくてならないから、というのが彼の言い分。
髪の先まで触れて欲しいから、というのが彼女の言い分。
だから、もう少し。
――もうすこしだけ、このままで。