それにつけても、かように素晴らしき夜など、他にはございますまい。




 紅灯 こうとうさかずき
      ――草子異聞『くちなしの記』より



 わたくしの家は代々、この西国にて並ぶ者のない力をもつ一族にお仕えもうしあげることでようよう生き延びてまいりました。かの御家、こと、その全てを統べるご当主さま――わたくしはお館さまとお呼びもうしあげております――は勇猛果敢なお武家さまであらせられまするが、わたくしどもは荒事より和事を得手とする家風でございますから、あれこれの祭事を取り仕切り、お世継ぎのことに心を砕いては口に糊している次第にございます。
 久遠の昔より、わが祖たちは宗家の長たる方をお育てもうしあげる乳母となり、その乳兄弟となり、陰よりご当主さまをお支えもうしあげてきたそうでございます。現にわたくしの父もお館さまの父兄弟でありますし、妹もご嫡男としてご誕生あそばされた若様の乳母として立ち働いているはず。お館さまのお役に立つことが、わたくしたち一族の何よりの喜びなのでございます。
 ところで、くちなし、というのがわたくしの通り名でございますが、それにはいくらか理由がございます。わたくしは未だ頑是無かった時分――いえ、水無月のはじめ、梔子の花が我先にと花開くころに生れ落ちましてから、一度として口がきけた験がございませんのです。それは同時にわたくしが独り身の寡婦たる所以でもございますが、もの云わぬ娘とあっては、それも致し方のないことと存じ上げまする。
 むろん、娘の盛りを過ぎ、じきに年増と呼ばれるほどになっても、どなたかに妻あわせることもない我が身を嘆かなかったわけではございません。わたくしが唖であること、そしてそれがゆえに殿方に添い遂げることもなく朽ちてゆくことを、どれだけ怨みに思ったか。なれどそのような身の上をお哀れみになられてのことでございましょう、お館さまは乳兄弟の娘であるわたくしを、既に身罷られた北の方さまの後添いである奥方さま付きの女房として拾い上げてくださったのでございました。
 お館さまがご元服あそばされし折、しかるべき後ろ盾がおありの上でなされた北の方さまとの婚儀とは異なり、奥方さまは何のお力もお持ちでいらっしゃいません。いえ、本来は身分あるやんごとない姫君さまであらせられたのですが、両家は決してなさぬ仲の間柄。ゆえに奥方さまは親も兄弟も捨てて嫁いでこられ、今はただお館さまのご寵愛のみを頼りにお過ごしあそばれておいでにございます。
 奥方さまは女であるわたくしでさえ思わず見惚れてしまうほどにお美しく、お心ばえも並々ならず優れておいででございまして、お館さまが一心にお想いになられるのも無理はございません。そしてまた、このような方のお傍でお仕えできることは、わたくしにとっても一通りでない幸せであり、誇りでもございます。
 さて、あれは重陽の節句も過ぎた、望月の晩のことでございましたでしょうか。夜も更けし折、突然お館さまがこちらにお渡りあそばされました。確かそれまでお館さまは東国との戦に出向いておいでで、奥方さまにお会いもうしあげなさいますのは実に三月ぶりのことでございました。
 お館さまは音もなく母屋の几帳の傍ちかくまでおいでになると、まずわたくしに息災であったか、と小さくお尋ねになります。お館さまは本当に、いつお目にかかってもはっと息をのむようなご容貌で、とりわけその対の瞳やお髪の輝きときたら、あたかもしんと澄み切った今宵の月のようでございます。わたくしは殿方といえば、父や兄たちといった極僅かな者しか拝見したことはございませぬが、きっとお館さまのように冴え冴えとしたお姿をされた方などそうはいらっしゃらないに違いございません。
 次にお館さまは、奥方さまのことをお訊きになりました。わたくしはひとつ頷き、失礼ながらお休みになられている奥方さまを起こしもうしあげます。奥方さまはすぐに目をお覚ましになり、わたくしにささの用意を申し付けられました。戦場よりご帰還なされたばかりのお館さまを労おうとなさる奥方さまのお心配りのさまは、やはり際立ってみごとでいらっしゃいます。
 ささの仕度を終えると、わたくしは静かにお傍にお控えもうしあげております。お二人はゆったりとしたご調子で色々とお話をされておいででしたが、やがて奥方さまが静かにあなた、と切り出されました。
 「ややが、できましてございます」
 鈴の転がるような奥方さまのお声は、かすかに震えておいでのように、わたくしには思われました。さらさらと艶やかな黒髪が落ちかかる匂やかな頬も、こころなしか青ざめてお見えになります。月影のせいでございましょうか。
 お館さまはするりとお立ち上がりになると、奥方さまの御前にまでお膝を進められ、
 「まことか」
 淡々とそう、お尋ねになりました。
 「…はい」
 奥方さまがお答えになられます。
 「そうか」
 そう仰られたぎり、ふいにお館さまはむっつりとお黙り込みなさりまして、わたくしがどうにも居た堪れなく感じておりますと、ふっと相好を崩されたようにございました。そのまま、奥方さまのお名をお呼びになられます。
 「でかした」
 力強く仰せになるそのお言葉に、ほう、と奥方さまの口から息がこぼれ、お目もとにはうっすらと朱がさしました。その可憐なご様子に思わずわたくしが笑みをこぼしますと、奥方さまは非道いわ、などと可愛らしい調子でわたくしをお咎めになり、またそれをお館さまがご覧になっては声を挙げてお笑いになります。奥方さまのご非難は更にお館さまへも向かい、その騒がしいことときたら、夜も更け時とはとうてい思えぬほどでございました。
 ひとしきりお笑いになったあと、お館さまはいかにも戯言めいたふうにこう仰います。
 「娘がよいな。そなたに似て見目麗しく心ばえのよい、きかん気の強くておてんばな姫が」
 すると奥方さまはつん、とその細いお首をそびやかし、さも楽しげに
 「あら、わたくしは玉のような男の子がようございますわ。己が妻を放ったまま戦に出かけて涼しい顔をしているどこかのどなたかとは違う、優しい殿方に育てるのです」
 と云ってはくすくすと微笑まれます。
 「随分とあてこするではないか」
 「ま。先に仰ったのはあなたではありませんの」
 お館さまがどこかばつが悪そうに呟かれると、奥方さまは形のよいお口許をお隠しになりながらそうお返しになります。お二人の仲むつまじいそのご様子に、わたくしはこれまでにないほど幸せな心持ちがいたしました。
 「ややのことは、わたくしより先にくちなしが気付きましたのよ」
 奥方さまが柔らかくそう仰せになり、わたくしはまた頷きます。奥方さまにお仕えしている女房は、奥方さまがただひとりお連れになった、奥方さまの乳兄弟だという藤崎どのをはじめとして数多くおりますが、わたくしは特に奥方さまへ篤くお仕えして、そのお傍を離れることはございません。ですから、お体の具合が今ひとつすぐれぬこと、ひいてはそのご懐妊について知ることは造作ないことでございました。
 「それは、くちなしも手柄であったな」
 お館さまは空の杯をお手にとられ、わたくしにお預けなさいます。訳が判らずわたくしがお館さま、奥方さまを順に見もうしあげますと、お二人はにこりとなさって、
 「そなたへの褒美だ」
 とお館さまが酒のひさげを持たれ、奥方さまも、
 「いつも本当によくしてくれて、あなたにはとても感謝しています」
 とわたくしの手が塞がっていなければ、今にもその白魚のようなお手で握ってくださいそうになさいました。わたくしの目からは幾筋もの涙があふれ、次々に袖をぬらしてゆきます。
 心よりお慕いもうしあげる方々が、こうしてわたくしのことを気にかけてくださる。これほどに在り難きことが、ほかにあるでしょうか。嗚呼、わたくしはこの夜のことをつゆとも忘れはしないでしょう。
 お館さまが注いでくださったささの水面には、晧々とした光を投げかける月が降りかかり、さらに鮮やかな紅に染まった葉がひとひら、はらりと舞い降りました。まるで赤いともし火のような杯を、わたくしは今、そっと掲げるのでございます。





















 「時に十六夜よ――」
 「いかがなされました?闘牙王さま」
 「ややには、どのような名を付けようか」
 「あなたがお考えになってくださいまし」
 「俺はおなごにつけるような、気のきいた名は知らんぞ」
 「あら、女名は必要ございませんわ、この子は男の子ですもの」
 「何をもってそう云い切る?」
 「ややはこの腹の中にいるのです。わたくしが云うのだからそうに違いありませんわ」
 「十六夜、しかし」
 「万が一姫であったなら、名はわたくしが考えますもの」
 「…かなわんな、そなたには」
 「――恐れいりまする」
 「さてと、ややが男であったなら、か――そうさな、犬夜叉、という名はどうだろう」
 「犬、夜叉…」
 「気に入らぬか?」
 「そうは申しませんけれど、何も我が子を鬼と呼ばずともよいのではございませんの?」
 「――ふ」
 「闘牙王さま?」
 「っくくく…」
 「何が可笑しゅうございますの」
 「ああ、いやな…今のこの名は、一族を継ぐ際に己で付けたものでな。生まれた折には、俺は犬鬼丸【いぬきまる】と云うたのだ」
 「なればつまり、犬夜叉とは」
 「俺の幼名と、そなたの名の両方からとった。さしあたっては、それしか思いつかぬ」 
 「まあ…」
 「そうそう悪くもない、と思うておるのだが」
 「――まったく、あなたというお方は」
 「うん?」
 「そのように素晴らしき意味がおありなら、先に教えてくださればよろしいのに!」