夕に佇む







 まあるい太陽の輪郭が、とろとろと空に溶ける。枠を失った色彩【いろ】は、目を灼くように眩い朱と、それからあくまでも淡やかな橙と、それから…。
 まだ昼間の輝きを残した黄金【きん】の陽射しが、うす雲を鳶色へと染め上げていた。光の遮られた湖面には静かに影が落ち、水底に微かな暗【やみ】が沈む。眼前に見渡せる山の木々も早々と鮮やかさをなくしていて、却って天の薄様を際立たせていた。


 昼の残滓が漂う刹那――人はそれを、黄昏時と呼ぶ。この刻限を過ぎればやがて、湿り気のない凪宵【なぎよい】の気配は、そっと闇を引き寄せる。夜が訪【おとな】うまでの猶予は、存外に短い。 
 …それは、彼も重々承知しているはずなのだけれど。
 (もー、探しに来て正解だったわよ。…そりゃ、色々予想外だけど)
 かごめの云う予想外とは、云うまでもなく彼ら二人の体勢のことだ。犬夜叉におぶられるのはさして珍しいことでもないが、真正面から向かいあうように抱き上げられるなど、憶えている範囲でなら初めてのことだ。
 (新月、かあ――)
 犬夜叉には、妖【あやかし】の血を失う夜がある。朔の晩――すなわち今宵のことだが、単独行動は慎めと皆にさんざんせっつかれたのにも関わらず、彼は聞く耳を持たなかった。要するに、ぎりぎりの時間になってもぶらぶらとあたりをそぞろ歩いて、仲間の元に戻らなかったわけで。
 心配になったかごめは犬夜叉の捜索に乗り出し、彼の姿を無事見つけ出したまではよかったのだが――慌てる余りか、些か焦りが過ぎていたらしい。彼の立つ地点より幾分か小高い場所にいた少女は木の根か何かに足を縺れさせ、あわや地面に叩きつけられるところだったのだから。
 犬夜叉が間一髪のところで抱きとめてくれたから事なきを得たようなものの、少年は今のかごめを自ら歩かせるのは危ないと判断したようだった。ゆえに、彼女は先ほどから彼の腕【かいな】に捕らえられたまま、こうして一時すごしている。
 (犬夜叉。今は、何を考えてるの?)
 いつもと異なる、彼の態度。当人に尋ねるわけにはいかないそれは、俯きかげんの面【おもて】からはつゆとも読み取れなかった――。





 ざあ、と赤く色づいた果実のような空を、舞い来る葉擦れが通り過ぎる。気紛れに巻き取られたかごめの黒髪の一房は、持ち主の気配を振り撒きながらふうわりと弧に揺れた。それを受け、微かに犬夜叉の表情が暗く凝【こご】る。
 (鼻が、利きにくくなってやがる)
 華奢な肢体を前抱きにして、少年は思う。朔が来るのだ――今更ながらに実感が湧いて、ひどく心許ない気分になった。知らず、少女を支える手にも力がこもる。
 「どうしたのよ、突然」
 自分の目線より幾分か高い位置に、かごめの顔がある。普段ならばはっきりと見て取れる表情は今は判らなくて、云いようもなくもどかしい。
 誰そ彼れ――黄昏という言葉はそもそもここから来たのだと、腕の中の少女から以前聞いたことがあった。夜目が効くばかりか、気配を読むくらいは造作もない己は、何を莫迦げたことをと笑ったが、今ならば判る。
 (どうせ今だけの事だってのに、随分と不安になるもんなんだな)
 すぐ目の前にあるはずだのに、ひどく遠い。空はまだ明るいくせに影ばかりが生まれて、大事なものを覆い隠してしまうからだ。…なんにも、見えなくなってしまう。
 だから、問わずにはいられない。誰何の声をあげずにはいられないのだろう。見えないということは、判らないということ――気付きもしなかったけれど、それはこんなにも、落ち着かないことだから。
 「…何でもねえよ」
 そっけなく呟いて、犬夜叉はかごめの胸元に鼻先を摺り寄せた。その所作に少女は些かうろたえたようにも見えたが、結局は何も云わずに己を受け入れてくれる。
 (かごめが、此処にいる)
 近寄った分だけ優しい香りは濃くなる。ようやくいつものように、その甘さに酔い――僅かながらも得心がいって、少年はほう、と小さく安堵の吐息をこぼした。
 …そうでないと、気でも狂ってしまいそうだった。
 




 (降ろしてくれる気、ないのかしら)
 見下ろされている常とは違う不思議な感覚で犬夜叉を見下ろしながら、心の中でかごめはごちる。しかし、あたかも縋ってくるように自分を抱いている彼にそのつもりがない事はとうに判っていた。
 まあ、他の手段――些か手荒だが、言霊というとっときの秘奥義だ――がないこともないのだが、今は正直使いたくなどない。こちらも、理由はとうに判っていた。
 (だって、何が起こるか判らない朔の日だし。やっぱり見てられないのよね、今日の犬夜叉って)
 意地っ張りというか、矜持【きんじ】が高いというか。余程でない限り、犬夜叉は周囲に頼るような行動は取らない。そしてそれゆえの反動なのか、新月の夜の彼はひどく不安定だ。
 日頃とは大違いの、脆弱に過ぎる身体。目も耳も、鼻までもが塞がれているような、鈍い五感。おまけに、父が残した牙の業物【わざもの】も、この時ばかりはただの錆び刀でしかない。
 どれだけ心細いのか、正直なところ想像もつかなかった。一瞬たりとも気が抜けず、蓄積する疲労は途方もない筈だ。
 これほどに追い詰められた状況でなら、甘えたな気分にならない方がおかしいだろうし――加えてかごめの本音を言えば、甘えてくれることなど滅多にないので不謹慎とは知りつつも、嬉しい。
 (あれ?)
 ぼんやり考えていると、不意に犬夜叉が瞳をくもらせた。怪訝に思って身じろごうとすると、その手の力は少し強さを増している。
 どうしたのと問えば、何でもないと返してきたけれど――そう答えた次の瞬間に、彼は自分の胸元に顔を寄せていた。
 (うそ……)
 恥ずかしい、これはとんでもなく恥ずかしい。戸惑いながらも自覚すると、みるみるうちにかごめの鼓動は早くなる。ごたまぜの感情の波が一斉に押し寄せてきて、とても頭が付いていかない。
 (あ――髪が)
 今の今まで何とも思わなかったのに、彼の肩に乗せたままの指の腹がひどくくすぐったい。絹の滑らかさを持つ真珠色の髪【くし】――今はうっすらと鴇【とき】色がかっているけれど――それが掌に絡みつく感触は尚のことかごめを混乱させていて、眩暈【めまい】で倒れてしまいそうだ。
 (あたし…どうしよう、苦しい)
 犬夜叉の吐く呼吸【いき】が制服の布越しながらも肌に触れる。それがどうしようもなく苦しくて――掛け値なしに息が詰まって、肺が痛い。きゅう、と自らの心臓が縮む音を、少女は確かに聞いた気がした。
 (ああもう、何にも判らない――)
 騒がしい心のざわめきは、いまだに消える様子を見せない。そればかりか迫り来る想いの強さに、いっそ現実味が欠けているような気さえする。それでも、全身は熱を孕んだように甘く疼いて、苦しくてしょうがなかった。 
 ゆうらりゆらりと、茜色が少女の精緻な造詣を描き出す。甘いような、切ないような――恋に恥じらう乙女の横顔は、やはりあややかに美しかった。





 ひそやかに翳ってゆく、憂うような夕暮れの空。さやさやさやと、柔らかく風が鳴り…少年と少女の影法師は一つに混じりあったまま、その密度を深めていた。互いに顔は見えずとも、その存在は痛いほどに伝わってきている。
 誰そ彼れか――夕に佇む二人の若者に、かような問いかけは、要らず。