A voice that has been calling for light..
光  を  呼  ぶ  声




1.The last distance ――kikyo――

                                       
                                                             
                    


『彷徨える魂よ、ただの一時、泡沫なりしやすき夢を見む。さすれば――』






 ――ざんっ。
 目が痛い程にあでやかな紅葉【こうよう】を裂いて、「彼」は色鳥【いろどり】が舞う如くに高く跳躍する。その出自を示すような、尋常でない軽やかで敏捷な身のこなしは徒人【ただびと】には到底見つけ得ぬだろう。
 「来た、か」
 されど、秋独特の澄んだ空に浮かぶ緋【あけ】をいとも容易く認めた「彼女」は生白の袖を揺らし、悠然と歩きだした。そこから伸びた紐の先、小奇麗なつゆが手の中の大弓【だいきゅう】に触れてしなう。
 両者の距離は瞬く間に縮まるが、対峙した「彼」と「彼女」は僅かさえも場に留まることをせず、間合いに動いた。…始まるは攻防。
 「女……退【ど】け」
 「彼」が獣が唸るような凄味のある声でそう告げ、腰を落として長々した鉤爪をぎらつかせると、伏せ気味の面から黄金【こがね】の輝きがこぼれた。人ならざる容姿を見据えつつ、「彼女」は肩に負うた壷胡?【つぼやなぐい】から数本の矢を引き抜き、一本をつがえて毅然と返す。
 「愚問だ」
 先へ――村へ行きたいと「彼」が望むならば等しく、「彼女」に打ち勝たねばならぬ。さてもさても目的は果たされた事無く、ゆえに対決は幾度目になるのか、指折ってみる気も湧かぬほど。…自然と神経が張り詰める。
 ひゅ、と微かな呼気を吐くと同時に先の先を取ったのは「彼」であった。「彼女」を飛び越さんばかりに地を蹴る。しっとりと快い流れに撫ぜられて散り落ちかける赤黄の葉が突風に煽られて互いの視界を覆うが、さしたる問題ではない。無論、双方にとって。
 「散魂――鉄爪」
 朱塗りの曲線に映える雪白の握を上へ傾け、「彼女」は整えた呼吸はそのままに無言で筈【はず】を払い流した。破魔の聖光をほのかに宿して突き進む其れを、「彼」の技が迎え撃つ。
 耳に渦巻く空気の轟音に掻き消されがちに声がする頃にはとうに、二つの気は相殺し終えていた。衝撃で塵と散じた木の葉の残骸が彼方へ吹き飛ぶ。…まずは一本。
 上空で器用にとんぼを切った「彼」が銀杏の一枝へ着地する――が、「彼女」の放った矢が飛来するより早く、括られずじまいの青金の髪【くし】は流れて消えた。――二本目。
 何時の間にやら這う程に低い姿勢を取り、「彼」は前へと一息に身を躍らせる。「彼女」へ向けて右の腕が唸るが、袈裟懸けに振られた剣【つるぎ】にも似た爪の鋼は手応え無く虚空を過ぎた。「彼女」の元結が燻【くゆ】る様にぶれ、うばたまの黒髪が意図して紙一重の距離に飛ぶ。 
 「彼」が着地する。同時に、多少の余裕を持った上で「彼女」がしなやかな四肢と共に籐弓【とうのゆみ】をひねった。白魚の如きその甲が押付【おしつけ】を擦りつけようとすると、「彼」の方は間一髪に空を疾る。
 「…甘い」
 凛、と「彼女」の美声が飛んだ。今度は幹の高い辺りへほぼ平行に――地面とは垂直に、だ――身を沈めて「彼」が足裏に力を込めた刹那、白羽が蘇芳の袴を浅く掠り、糸ほどに細められた布地を木肌へ刺し留める。これで、三本。
 今しがたの「彼女」の一撃に「彼」の下腿の均衡がこころもち崩れた。「彼女」が其れを見過ごす訳も無く、自身の優位を示すかに薄く笑ってその表情を「彼」に表せば、一方で牙を剥いて不敵に口を曲げてみせる「彼」。このままゆけば、「彼女」の矢が届くのと「彼」が瞬間地に足を着けるのと、どちらが早かろうか。
 ――ぴいん、と大気の音が凍る。そうして、四本目…かつんっ。
 一瞬の沈黙、制したのは果たして「彼女」の方であったようで、黒っぽい焦げ茶の枯樹の根元近くに「彼」の手首あたりの片袖が鉄の尻によって縫われた。それでも諦めきれずに利き手を振りかざすも、左手を起点にずり落ちる途中でやはり括【くくり】の傍を固定される。もう――五本。
 そこからは畳み掛ける勢いで、六七八九――両袖両袴に各々一本、といった処か――合わせて六つの楔を穿たれ、「彼」は最早完全に磔の風情だ。
 身動きひとつ取れはしまい事実を早々に察して、「彼」はいかにも忌々しげな舌打ちを「彼女」にくれてやる。続く消滅の儀を予測してみる事は実に簡単で、一応「彼」は腹を決めた。
 ざさ、と辺り一面に敷かれた落葉【らくば】を踏みしめる音がする。見開かれた「彼」の梔子【くちなし】色の双眸の前で「彼女」は緋袴と同色の鼻緒を微かに覗かせ、そして――。
 「何の真似だ――止めを刺せ」
 次に「彼」の口から洩れ出たのは断末摩の絶叫では無く、感じているだろう腹立たしさばかりが目立つ挑発であった。当り前の様に踵を返して村へ戻ろうとしていた「彼女」はどう見ても億劫そうに「彼」に向けた背を翻す。
 「知れたことを」
 ゆるりとした動作の内に嘲りを匂わす口調で、「彼女」は告げる。
 「これ以上お前如きに使【つこ】うてやる矢など無いわ…早々に去れ、二度と此処をうろついてくれるな」
 「巫山戯【ふざけ】るな、くだらん御託を並べやがって」
 明らかに苛ついた声音で「彼」は云い、ふと思いついたのかにや、と一つ笑ってみせた。「彼女」の黒檀の瞳が一際の鋭さを帯びる。
 「その、俺如きに」
 如き、を強めて続ける言葉。何か反応は示されるのだろうか。
 「情けをかけてどうする――止めを刺せ、女」
 ぴく、と肩を揺らす「彼女」。けれどもその所作は動揺からのものではなかったらしい風に「彼」には見えた。その所為か、してやったりとほくそ笑んだ思考はやけに虚しい。
 「云っておこう」
 そのまま「彼女」はくだらないとでも謂いたげにため息を吐いた。加えて、「彼女」が「彼」を見据える眼光にはちらちらと侮蔑の感情【いろ】さえ写っている。
 「痴れ者が……、思い上がるでないぞ?」
 ――或いはゆっくり一言一言、噛み砕いて言い聞かすように。限りなく冷酷に「彼女」は「彼」を揶揄した口をきき、背を向けつつ去れと言い置いた。今度こそ迷い無き歩調で「彼女」は帰ってゆく。    
 「待ちやがれ!!このっ……」
 最大級の侮辱に「彼」は思わず激高していた。ひとしきりあがいて大声を張り上げるが、それも「彼女」の後ろ姿が木々に霞んで消ゆるまで。この程度で草臥【くたび】れた筈などないが、湧き上がった奇妙な脱力感を抱いたまま吐き捨てる。
 「――糞【くそ】」
 とろんとした橙赤【とうせき】の陽光が、まるで何事も無かった風な静けさを取り戻した森へ注がれた。隙間へと滑り込む空気は可視光線と衝突して弾け、その度にうっすらと輝く道筋を作り出す。
 時が「彼」を置き去りにしたにしろ、この瞬間はえも云われぬ程穏やかな一時であった。そう、時は穏やかに……あくまでも穏やかに進んでいるのであった。
 それも良い。異形はすぐにでも、実りの時期ならではの気配に埋もれて潜ってしまうがゆえ――本当に何事も無かった風に。
 「彼」は無言で姿をくらませた。
 


 「彼」とは半妖、其の名を犬夜叉。
 「彼女」とは巫女、其の名を桔梗。
 二人は対極にして同一の存在――どこかしら、神の化生を思わせて。
 






 ちち、ちちちとじゃれ合いながら小枝を跳ね回る数羽の鶫【つぐみ】がそばを通る気配に気づき、翼を広げて空に舞う。小気味良くて可愛らしい羽音がした…ぱたぱた、はたはた。
 原因を作った気配の主、即ち「彼女」は――いや、そう呼ぶのはここいらで終わりにしようか――桔梗は色彩豊かな雑木林に横たわる細っこい獣道を独り歩みゆく。きびきびとした足取りからは山道に慣れている様子が伺えた。静かに林を抜ける。
 その境界には古びた祠がこじんまりと一つ。更に隣りには簡素な小袖の、桔梗にとっては見慣れた女子【じょし】が一人。
 妖退治に赴いた彼女を待っていたのは妹の楓だった。何をするでも無く空を眺める表情はやけに幼い印象を姉に与えたが、その視線に気付いて駆けて来る時には途端に大人びて見える。不思議なものだなどと取り留めもなしに考えながら、桔梗は妹の名を呼んで歩み寄った。
 「楓」
 「桔梗おねえさま、お疲れになったでしょう?ここは私に任せてお休みください」
 心からの労いと共に、楓は童女とも少女ともつかない表情でにっこりした。つられるように巫女もまた優しく笑む。
 「いつもすまぬな」
 「おねえさまのお役に立てるなら、このくらい。…どうぞ」
 弓矢を受け取るべく、未だに稚児の頃を思い出させるぽちゃっとした紅葉手【もみじで】が桔梗の眼前に差し出された。別段負担になる訳でもないが、断る理由はない。せめて楓の肩に安定が良いように、と矢筒の紐を乗せかけてやっていると、桔梗はふと或ることを思い出した。
 「――ああ、悪いが矢を十本ばかり頼む」
 はい、と楓が答える。元々、武具の手入れを行っていたのは桔梗本人だったのだが、いつだったか楓がやりたいと申し出て以来、こうやって頼むことにしていた。そつのない彼女の手際は信頼に値する。
 楓は小さなからだには不釣合いな弓矢を器用に抱えて弓の張りを確かめながら桔梗の真横に並び、同時に尋ねた。
 「ところで、犬夜叉の他に物の怪は?」
 「いや、貴奴一匹きりだ。他意は無いが、何故そんな事を訊く?」
 巫女装束の姉がすぐに答えを寄越して問い返すと、対する村娘姿の妹はきょとんとし、だってと言葉を継ぐ。愛らしいさまだ、桔梗は掛け値なしにそう思った。
 楓は齢【よわい】十を僅かばかり過ぎただけにしては随分と落ち着いた物腰をしている。それが元の性格なのか、はたまた巫女という立場にある己の影響なのか…どちらかは図りかねるが、だとしてもこういうほんの一瞬の仕草は、まだまだ子供の其れだった。
 「十本なんて、初めてのことだから。おねえさまがそんなに梃子摺るなんて珍しいな」
 尤もな言葉である。ただ、余りに尤も過ぎて――何せ矢も用いず、気や祓えだけで浄化を成す事は珍しくない――桔梗は一瞬返事に詰まった。それでも平然としていられるのは、楓が彼女の隙に気付かなかったからか。
 ともかく、弓の女名手は苦笑を混ぜ、冗談めかして言う。
 「なかなかすばしこくてな…いや、私の腕の方が落ちたか」
 楓は極力さりげなく、けれど誇らしげに笑った……自身の言を嘘だと自覚しつつある桔梗の内心はさて置き。
 「おねえさま以上の腕の持ち主なんて、何処を探したっていないのに。」
 ごく小さな声で呟かれた台詞が賛美された方の耳に通じたかは判らないが、姉妹の会話らしい会話はそれきり。ただ二人、村を目指して足を運べば、その入り口が見えた処で弓矢をささげ持つ楓が口を開いた。
 「私は矢の補充をすませてから帰りますから」
 先に帰って体を休めていろ、とつまりそういう事なのだろう。謂われてみれば確かに、さわさわと首筋や頬を滑りほどけてゆく秋風が妙に心地よくて気が抜ける――それなりに疲れているのだ。好意に甘え、頼むねと声をかける。
 鍛冶屋へ出向く妹を優美な仕草で見送りながら、巫女は散発的に流れ飛ぶ蜻蛉の薄羽に映る空を酷く遠くに見ていた。ふわ、と匂い立つような微笑を少うし、哀しげに湛えて。







 日暮れが近い……清々しい青空が茜になる準備をひっそりと始めているからだ。
 その後にはさみしげな菫色が現れ、上空の端々には夢幻から抜け出てきたような宵の桃紅が差されるのだろう。暗黒は暗黒で美しいが、昼が闇に呑まれるまでの変化は見ていて飽きないものだ。喩えるなら、泡沫の呪術のごとくに。
 (だから何だと言いたいのだろうな、私は)
 社の真下につつましく建つ自らの家への小径【こみち】を辿りながら、桔梗はつれづれの物思いに耽る。



「おお、お戻りになられたか桔梗さま――妖退治、ご苦労様ですじゃ」
「桔梗さま。あとで採れたてのあけびを持っていこうと思うのですけれど、お好きですか?」
 「明日もみんなと遊んでくれるよね。あたし、桔梗さまにもっともっと薬草のこと、教えてほしいの!!」 
 


 かちかちに罅【ひび】割れ、皺だらけの両手を幾度も合わせて拝む風な動作をする老人。土にまみれた木綿布で汗を拭う、巫女と年近い若い娘。ふくふくと柔らかい頬っぺたを赤酸漿【あかかがち】のように染めて彼女を見上げる童女。
 ……皆、愛すべき守るべき者達だ、けれど。
 よもやま話を交わす中、皆は一様に満面の笑顔を向けて――桔梗は顔には出さないながら、それをずっとせつなく思っていた。老若男女、この村の誰しもが巫女に向ける視線に含まれるのは、実直な迄の畏敬の念。けれど彼女の力への依存を当然の事としているこの状況こそ、どこまでも桔梗を苦しめる。
 皆が必要としているのは桔梗ではない。稀代の力を持つ巫女――それさえ満たしていれば誰でも。
 このような事、彼女以外の者は思ってもみないのだ。
 (本当に私を必要としているものなど居らぬ)
 それでも。その事実に気付いても、桔梗は役目を果たして生きてきた。巫女に相応しい生き方で懸命に生きてきた。 そして今彼女は、己の内に鮮麗な回顧を抱えて生きている。明らかに戸惑いながら……春が過ぎ、夏が来て、秋となってもつぶさに思い出せる記憶を胸に。
 (あのような失態は、初めてだった筈)
 ――物の怪を相手取る時は脳天か心臓に一撃で。桔梗の定法であるが、先程一戦まじえた半妖の時だけは仕損じた。矢を放ちはしたのだが、完全に狙いが逸れたそれが打ち抜いたのは彼の右腕だったのだ。
 (油断したのでは無かった)
 油断でないなら何か……今は判る、目を奪われたのだと。
 彼と出会ったのは春のこと。桜吹雪の中で最初に遭遇した犬夜叉の淦【あか】と銀【しろがね】は恐ろしく強烈な印象で、そして視線をくぎ付けにしてなお鮮明すぎた。其れは不思議と泣きたくなる豪奢さを隠しているだけでなく、初々しさと儚なさを合わせ持つ淡桃でさえ単なる褪紅色【たいこうしょく】と称したくなるくらいで。
 (あれだけの事が、目に焼き付いているとはな)
 けれど……激しき色彩、金武【きん】の双鉾、全ては艶【つや】やかできららか。そうそう忘れられるものでは無い。
 (だが、認め得るのは此処まで)
 それが臓腑まで深く染み入って隙間を埋めた瞬間の感覚、あれは果たして錯覚だったのだろうかと桔梗は思い、なれど紛れも無い真実として受け入れられぬ己を知っていた。当り前の事だ。
 ――半妖に惹かれたなどと、ましてやそれが巫女だったなどと。問う先より判っている答、口に出したとて誰が理解を示そうか。事実を最も許せぬのは自身で、己でなくとも嘲るだろうこれはひどく愚かな考えでしかない。
 けれどとても、本当にどうしようもなく遣る瀬無いのもまた事実……答えはもう、彼女の内にあるというのに。
 (何時の間に、これほど私はうつけになったのだろうか)
 群れて飛翔する雁が啼いていた。塒【ねぐら】を求めて彷徨う声に、桔梗は彼らの感情をさぐってみる。
 彼女はもう自らの家の辺りまで来ていて、何一つ判じられなかった。ふふ、とさみしげな吐息が微笑した後に見ゆるは、完璧なる巫女の顔【かんばせ】――。







 ――ぃりりり……り、り、りいぃ――。
 屋外で歌う鈴虫だか何だかの唄がくるくると舞い込む。さりさりさりさり、規則正く乳鉢が鳴り、時折混じるは葉擦れに似た音……三重奏だ。
 あれから数日が経った夕刻、姉妹は小屋で黙々と作業に向かっていた。集めてきた薬草を仕分ける楓と乾燥させた葉を粉にする桔梗の手元はさほど暗くない。灯りを点すのはもう半時か一刻半先でいいだろう。
 菜種油はまだあったろうか――ぼんやり考えながらも手を動かしつづける妹の横で、不意にすりこぎの音が止まった。
 「…おねえさま?いかが――」
 されました、と楓が皆まで言い終わるより早く、桔梗が立ち上がる。
 「また、懲りずに来おったな……愚か者めが」
 殆んど独り言のように台詞が落ちた。え、と楓もまたごちるように聞き返して目を丸くする。…驚いたのだ。
 巫女は妹の様子には構わず弓矢を手に取るが、そのままじっと動かない。何かを待っている様子だ。  と、ものの数秒で周りが急にやかましくなった。微かに野太い声が聴こえ、ばたばたと若衆数人が駆けてくる。
 「きっ、桔梗さま!!あ奴が、半妖がっ…!!」
 そこそこ腕っ節に自信のありそうな彼らが、血相を変えて飛び込んでくるなりそう告げた。突然の知らせにいっかな動じぬ姉を見、これを予見していたのだと楓はどこか遠くで感歎する。
 「ああ、直ぐに往くよ…楓」
 崩れることの無い毅然とした巫女の口調に、ぼうとしていた楓は漸く我に返った。彼女をもう前を向きながら云う。
 「知らせてくれた皆を休ませてやっておくれ。案ずるな、恐るるに足らぬ」
 「は、はいっ!!」
 些かうわずった返事に頷いて一瞥をくれ、男達にご苦労であったと述べながら出て行く姉の姿が消えた。申し付け通り若衆をもてなさなければと思うも、楓の思考は別の方向へ飛んでしまう。
 「おねえさま…」
 意識せぬ内に零れた言葉に、はっとして口を慎しんだ。彼らの一人が不思議そうに見遣るが、楓は何事も無かったように誤魔化す。
 (桔梗おねえさま、ほんの少し微笑ってらした様に見えたけれど……気の所為、よね)
 まくれた戸口の莚から気持ちの良い秋風が、明かり採りの小窓からは夕日がそれぞれに惑い来る。
 宵の匂いはまだ、しない。







 それから一刻の後、前回と似たような場所で似たような格好で、やはり木目へ貼り付けられた状態の犬夜叉は桔梗と対峙する。夕焼けでもなくだからと謂って夜色でもない空の上で、形のはっきりしない月が二人を黙って見ていた。先に桔梗が口を開く。
 「全く」
 「生き長らえさせてやったというに、貴様はそのことすら解らぬのか…哀れな」
 生き長らえさせた、の部分に犬夜叉が敏感に反応した。その言葉を待っていた、といわんばかりに。
 「一つ問う、理由は――何だ」
 彼女は四魂の玉を護る巫女――宝珠を狙う敵を払うのがその役の筈だ。にも関わらず、幾度となく現れる彼を、桔梗は滅しようとはしない。其れが解せぬと、つまりはそういう事だった。
 「半妖……忌み魂【いみだま】相手に語り聞かせる義理も必要も、私には一切無い」
 巫女の柳眉が僅かに歪んだ。蔑称を持ち出す辺り、桔梗は間違いなく犬夜叉を挑発している。彼には其れが、何か隠しているように思われてならない――もっと謂うならば気になっていた。犬夜叉は根気良く問答を続ける。
 「知ったことか。訳があるならば、云」
 「単なる気紛れだ」
 え、と最後まで言い切る前に桔梗が一足飛びに動き、突如として冷たい痛みが犬夜叉の首をなぞる。眼の玉だけを胸元あたりに這わすと、桔梗が弓の先端、弦【つる】で顎と喉の間に真一文字を引くのが視える風に思えた。中仕掛【なかじかけ】が彼の血管を圧迫する。
 「其れ以上でも以下でも無い、思い上がるなと教えた筈だが?」
 「……何だと」
 「さて」
 すっ、と静かに退【すさ】る桔梗。犬夜叉の怒気を孕んだ一言など無かったかの様子だ。
 「最早お前が訪【おとな】う意味は失せた。おっと――玉のことがあったか」
 巫女はくつくつと笑う。半妖へ、お前が玉を奪うのは不可能だと言外に含ませて。
 「納得した憶えは無え」
 会話が微妙にずれている。犬夜叉は玉のことでなく理由の事を問い詰めようとしているのだろう、と桔梗は思った。ここで彼が逆上でもすれば、総てに片が付く。
 「だとしても関係ない。とにかく、武蔵を去れ……永遠にな」
 「待て、待ちやがれ!!」
 云うだけ云って桔梗が背を向けると、予想通りに犬夜叉が声を荒げた。それでいいと思った瞬間、抑えた声音を耳にする。
 「……待てと、云っている」
 「桔梗」
  生絹【きぎぬ】よりもなめらかな鴉の濡れ羽色が、なよやかに震えた。
 名を呼ばれた、それだけと云えばそれだけのことだ。しかし、それだけであって何よりも大切なことで。
 とくとくと心臓がざわめいて、何か言葉にしようとする唇がわなないて……振り返りたくなる。けれどそうすれば二度と引き返せない。――巫女としては、これ以上にない背信の行いだから。
 (そのようなことは百も承知だ……でも)
 この気持ちを受け入れる、これがもし愚かなことだとする。なら今感じている、総ての呪縛を断ち切ったような、泣きたい程せつない高揚感は一体なんだろう。これこそ、今を逃せば死ぬまで…死んだとしても永遠に手に入れられぬと判るというのに。理屈では無く本能がそう、女としての直感が桔梗に告げているのだ。
 神託を授かる為の人ならぬ感覚など、自分にはいらない――望んで巫女として生まれたのではないのだ。
 (己自身を、私は信じたい。後悔はしないだろう?)
 する筈もない……自分と向き合って素直になるというに、どうして。
 今までの想い、実は葛藤ですら無かったと、漸く知った。迷っていたのではなく、ただ躊躇って居ただけだから――振り返ることを。
 ゆっくりと振り返る。琥珀色の眼がこんなにも美しいなんて知らなかった。
 (あの眼が私を見ていたのだ、ずうっと)
 瞳を、心を奪われ、甘美な思いが広がってゆく。今は未だ二人を遮って横たわる、このもどかしい距離さえも堪らなく愛おしかった。縮まることはあろうとも、離るることは二度と無い……最後の距離。
 「犬夜叉」
 初めて彼の名を口にする。其れを受けて犬夜叉がやや面食らった風に桔梗を見つめた。彼女は嬉しげに、二つとない程美しく微笑する。
 (ああ、私は――)
 囚われて仕舞ったのだと、そう思った。
 さらりふわりくらり…空が流れ、秋雲が下る。



 きぃぃ、からから。き…い、からん。
 静寂の軋みを立て、運命の輪が廻り始めた。歯車は巡り巡り巡り――やがては狂う。
 どこまでも悲しき破滅のさだめ。







『……さすれば、汝を永久【とこしえ】の眠りへ誘わん。』