A voice that has been calling for light..
光  を  呼  ぶ  声
       



2.Trust me? ―― kagome――







『あはれ、いとあさまし。いにしえの覚えより半妖起くめり。誰ぞ吾が結界を破りてむや……』





 「……」
 声が聞こえる。告げる意味は解らない。音の波がぼんやりとたゆたうのは、此処が水の中だからなのだろうか……いや違う。全身をくるむものの感触は、それよりもっと柔らかい。
 なにより、その声。深い、ふかあい処から湧き上がって、心に直接広がる――いつまでも聴いていたい気分になるほど、快い感情が含まれているのだ。
 (誰だ?これは……)
 (かごめの声) 
 「――しゃ、犬夜叉」
 そう意識した刹那に、音の羅列が言葉に整えられる。まぶた越しに伝わる光が遠くで揺れ、彼はひといきに浮上した。
 


 「犬夜叉」
 「……ん、――ああ」
 (かごめ、か)
 真っ先に知覚したのは少女の名。あとはまろみを帯びた光、一面の桜花、緩急自在に疾る風――目から耳から、辺りの様子が飛び込んでくる。
 「どうした?」
 犬夜叉は簡潔に尋ね、こめかみを揉むように押す――頭が、少し痛かった。それに答えて、かごめが歯切れ悪くおずおずと言葉を紡ぎだす。
 「あ、うん――何があるって程の事もないんだけど……ごめんね、珍しく寝入ってたのに。ただ、」
 「ただ?」
 会話がやけにぎこちなく切れた。寝起きだからか、犬夜叉の呂律がいまいち回っていないのもその理由だが、明らかにかごめが一言一言に云いよどむ所為だ。滅多にあることではないが、生憎現時点での彼の思考は其処まで行き着けない。
 「――あんまり顔色がわるいから心配になっちゃって。起こさない方が良かった?」
 「いや。……いいや」
 まだ目覚めたという実感がやたらに薄く、とりあえず直感に任せてみる。すると否の言葉が口を突き、飛び出たそれはとても正しい響きをしていた。なので、もうひとたび付け加える。
 「そ?」
 語尾を僅かに上げて、かごめが安心した風な素振りを見せた。



 ――戦国の世は、あらたまの春を迎えていた。木の芽が萌え、眠りに着いていた生命たちが姿を現す。日光が浮かれるように緩んで、風が温【ぬく】く広がって。
 ただ其れだけなのに、たくさんのものが美しく見えるのはどうしてか……力強いものたちの心は弾み、陽炎【かぎろひ】さえもが自己を叫んでいる気がするのだ。
 総ては瞬間のもの。だから、佐保姫の粋な計らいを感受すべきは今しかない。頑なに沈黙を守っていた蕾がどれだけ誇らしげに煌めいても、春霞の女神はあっという間に往ってしまう。
 桜などはその最たるもので、ひとはなひとはなが儚くも凛々しく、ひたすらに生き急ぐ。並ぶもののない潔さは、いっそ清々しいと評したいほどだ。
 ……ここ数日の一行は山越えのただ中。その筈なのだが、あまりの季候の良さ――野営をするにしても苦にならず、実に趣深いのである――のせいか、皆の足は止まりがちだった。
 そして、犬夜叉とかごめ。のんびりとした旅路に業を煮やした彼は満開の桜木で不貞寝を決め込み、彼女はそれを呼び戻しに来ていた、とそういうことである。  



 「ちょっとちょっと」
 犬夜叉が寝床代りにしていた枝を降りると、かごめの慌てた声が咎める。
 「あんた、足元ふらついてるじゃないの……ちゃんと目が覚めてから、ゆっくりでいいから」
 やや足取りのおぼつかない犬夜叉を、かごめが苦笑しながらやんわりと諌めた。心情を言えば釈然としないらしいが、それでも少年はしぶしぶと今降りたばかりの大木に背を預ける。軽く目をつむったところで、手を伸ばせば届く位のところから声がした。
 「迎えに来たんだから、待ってるわ」
 平気になったら呼ぶよう、告げた少女の気配が少し薄くなる。せわしなく行ったり来たり、あたりをうろついているようだった。桜でも眺めているのだろうか……思った途端、せつない気持ちが彼を襲う。 
 (かごめのことが、好きだ)
 どれほど偽りなく思っても、それだけではいけない。けれど、今の犬夜叉には何も出来ない――かつての想い人を捨て置くことも、愛しい娘を自らの許だけに留めることも、彼には許されていない。
 歯がゆくて情けなくて、心が腐り落ちそうだ。 
 痛みを伴う恋情も、醜いまでの独占欲も……かごめに向ける想いは後から後から、限りを知らず湧き上がる。いつかは溢れて、零れるやもしれなかった。それでもけりを着けるべきは遥か先だ、などと――承知できようものか。されど答えは一つきり。
 (今動いても、解決どころかこじれるだけだろうな)
 ……やるせなかった。彼女の身を護って、傍に居て――その程度がせいぜい。
 わやくちゃな心のままで自嘲する。その後に脳天が引き摺られる感覚がくらりと訪れて、犬夜叉は眼を開かざるを得なかった。ここら一帯に根を下ろすのどやかな風景との落差の激しさには、己への憐憫の情さえ感じる。
 (――止めだ)
 ふる、と軽く頭を振った。ゆっくりと息を吸って、吐いて。落ち着いたのを確かめてかごめを見遣ると、果たして少女は無心に桜を眺めていた。
 細雪そっくりのはなびら、更に向うにつやつやした鴉髪。何かに似ていると思ったら、螺鈿【らでん】だった。
 (かごめ)
 犬夜叉が黙ったまま、慈しむようにかごめの名を呼ぶ。応えなどある筈がなかったのに、彼女が振り返った。喩えるなら、ころあいを計っていたかのごとき正確さ。
 「もう、大丈夫みたいね」
 そう云って歩いてくる彼女に、彼は大慌てで主張した。その声音に、いつもの仏頂面が間に合ったやら。
 「――かごめ、俺は何も言ってねえぞ」
 「なぁに嘘ついてんの。呼んだでしょ、あたしの事」
 「何も言ってねえっての」
 「でも。…呼んだでしょ」
 あくまで否定する犬夜叉、肯定を求めるかごめ。彼女がにじり寄って距離を詰めると、対する少年は仰け反るように後ずさる。結果は知れたものだ。
 「でしょ?」
 さらに、とびきり大きな瞳が覗き込むように付け足すと。犬夜叉の口元からはうう、と唸りが発せられた――王手である。観念の言葉をありありと顔に浮かべ、彼がだるそうに息をついた。
 「……どうしてわかった?俺が呼んだって」
 「わかったから、わかったのよ」
 堂々巡りと以外言いようのない台詞に、犬夜叉はいきり立つ。彼が元々気短な性格なのは否めないが、それにしたってこの発言はどうだろう。しかし彼女にも、ちゃんとした言い分はあるのだ。
 「答えになってねえ、だからなんで」
 「なんでも何も」
 ――溜め息というか、吐息というか。一区切りつけ、かごめは犬夜叉の眼を真っ直ぐに見つめて、はっきりと言った。
 「あんたが呼んだらあたしは絶対わかるの。それだけ。」
 「……え」
 何ともまあ、あっけらかんとした台詞である……今しがた彼女が口にしたのは、間違いなく大きな力を持つ言葉だった筈だが。そんなものをかごめがあんまり平然と言ってのけるがゆえか、犬夜叉は思わず絶句した。
 「あんたね……もちょっとあたしのこと、信じなさいよ?」
 呆けたような彼の様子から、疑いのまなこが見受けられた訳ではない。しかし、どうにも信じきれていないらしい事実に、かごめは少し脱力した風に肩を竦めた。いいけどね、さしたる落胆もなくそう呟いて歩き出す。歩き出すが――数歩進んで立ち止まり、彼女はひょいと身を翻した。
 「かごめ――」
 「帰ろ、犬夜叉」
 かごめは掌を差し出して、この空気のように温かく軽やかな口調で告げる。精緻な造作をした少女がにっこり微笑むと、少年の息は止まりそうになった。
 ――誰よりも可憐で、最上に甘く。彼の心を惹きつけて笑む方法を、彼女は知っているのだ。
 それを独り占めするとは、何と贅沢な瞬間だろう。







『呪を解きし、えもいはず清らなる娘。かたち、宿りたる魂、恐らくはありつる巫女の後世【ごせ】にこそ。』







 かごめが犬夜叉の元に赴くと、帰りは大抵水辺をすぎる。――探しやすいように、もしくはどこかへ迷いこまぬように。少女が川を辿れば、間違いなく少年の姿を見出せるのだ。彼なりの気遣いといえない事もないが、最近はどちらかというと暗黙の了解に近くなっていた。今もまた、その例に漏れず。
 この山の河は中流辺りで幾本かに枝分かれしていて、ここいらのように大分下流側になると、小川と呼ぶのが相応しい規模になる。当然、水かさも浅い。
 ぴしゃん。川上を目指す若鮎が敏捷なばねを使って高く跳ね、その水滴はきらきらまばゆかった……目の奥に一瞬ちかりと影が映る。その上を流れる風にも輝きがあるのだろうか――そうとも思えるから面白いのだ。風さえ光る……枕詞が示すように、今はそういう時節である。
「ね、あたし思ったんだけど」
 「……何を」
 さり気なく、かごめが話を切り出した。彼は言葉少なだが返答から察するに、とりあえず付き合う気はあるらしい。胸を撫で下ろすような心地で、彼女は先を促す。
 「夢でも見てた?さっき」
 かごめの指摘らしき言葉に続いたのは、何も言わないが、しかし意外そうな犬夜叉の顔。それを受けて彼女は、根拠を述べた。
 「だって実際、いつも近づくまでもなく起きるあんたがあそこまでされて眠ってるんだもの」
 (少なくとも悪い夢を見てるって感じでは、なかったけどね――だから今面と向かって訊けるんだけど)
 それに気になるのって本当はそこじゃないし、かごめはこそりと付け加える。けれど犬夜叉がそんな事に気付く筈も無く、反応を見せたのは単純に上っ面の言葉だけ。
 「かごめ。俺に一体」
 犬夜叉は危惧を恐る恐る言葉にするが、どうしても訊けなかった……何をした、とは。自身でも訳が判らないが、妙に気恥ずかしくなって、少年は少女から目線を外す。
 「聞きたい?」
 かごめは犬夜叉に意味ありげに微笑んだ。彼が妙に身構えている所為か、犬夜叉の意図はた易く汲み取れた。かごめは笑いたいのを噛み殺し、一呼吸おいて焦らす。
 そうしておいて、少女ははふざけ気味にこう口にしてみた。今思い出したと云わんばかりの口調で、視線を遠くに流しながら。 
 「そうね――頬っぺ突っつくとか、耳引っ張るとか。あとは揺さぶってみるとか」
 「この……」
 (…なんてね。ほんとは、ほんとに心配したんだから)
 怒りか、はたまた羞恥かに耳までを朱に染めて震える犬夜叉と、したり顔で聞き流す振りをするかごめ。
 ――そう。彼女はあくまでも振りである。
 犬夜叉を探しに来てみれば、目に映る彼の周囲には言い知れぬ違和感――何となく、秋の涼しさを思わすような――があった。おまけに気配にはおそろしく鋭い彼が、こころもち青い顔で昏々と眠っている。心配しない筈がない。
 (あたしの思い過ごしだったのかな)
 あの時点では半ば冷静さを失っていたが、その目から見てもおかしな処は無かったとかごめは思う。肩に手を掛けて数度名を呼んだところで犬夜叉は意識を取り戻したし、受け答えにしたって普段どおりの彼だった……よろけはしたが。
 しかしその立ちくらみも、犬夜叉が深く眠り込んでいた証明にしかならない訳で。
 (あの変な感じもすぐ消えちゃったし――)
 何気ない仕草で、彼に眼をやる。犬夜叉はどうやら、彼を案じる意味で密かに繰り広げられるかごめの思惑とは裏腹に、今の発言を気にしているらしかった。その位は一見すれば直ぐ判る。
 「二度とすんなよ、そういう真似」
 「あんたのそういうとこ見ない限りはしないわよ。それで、あたしの質問は?」
 「さあな」
 「答えてくれてもいいじゃない」
 「……覚えが無えんだよ、全く」
 必死の問いに返った答【いら】えは、はぐらかしている以外の何者でもなくて。極力軽く、真剣味を抑える事を僅かばかり意識してかごめが言葉を継ぎ足すと、犬夜叉はなんだかばつが悪そうな顔をした。その表情からは何のけれんみも感じられず、困っているようにも見える。
 と、内心悩むかごめの思考を遮ったものがあった。当の犬夜叉が畳み掛けるような勢いで矢継ぎ早に告げる。
 「――まあ、お前が云うんならそうなんだろ」
 ぱっ、と瞬く間にかごめの目元に紅が差した。吃驚したというのもあるのだろう、彼女は無意識に立ち止まる。
 「行くぞ」 
 犬夜叉がかごめの手をひっ攫って、包み込むように握り締めた。彼はそのまま彼女を引っ張って歩き出す。かごめにとっては些か早足で、犬夜叉にとっては遅すぎない速度。先程まではかごめに合わせていたので――何だかんだいっても、犬夜叉は優しい。
 「うん」
 繋いだ指と、すぐ傍の大切な体温と。ふわふわした恋情が桃の唇をほぐして緩ませ、彼女の気持ちまで淡く色づかせてゆく。
 (……気にするほどのことも無い、みたい、……よね)
 考えても詮無い事だと、少女は一人思い直した。
 高く伸びた蒲公英【たんぽぽ】の茎が、振り子のように撓【しな】る。風を見つけた柔【やわ】い綿毛がもろてを上げて彼方へ消えゆくのを眺めるのは、気持ちの良いものだ。
 幾らなんでも単純すぎる気はほんの少し、したけれど……もういい。種はかごめの内に蟠【わだかま】る棘を、連れていったのだ。 








『なれど半妖が頼りとするもの、巫女にはあるまじ。かの者、娘のうちに巫女の名残を眺むこともなきなり。いさ、いかがせむ。』







 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし――過ぎ去りし時の雅び男【みやびを】は、そう詠い遺している。
 春になれば桜の綻ぶ瞬間に焦がれ、花が開いたら開いたで風雨に散り消えないかと気を揉み……儚い幻のごとき華に執着する心情には、一種の狂と通ずるものがないだろうか。でなければ、迷宮。そう言い換えても当てはまるかしれない。
 心の臓を痺れさせるは、烈しいまでの愛着。永き間に培われしものだ。それがこの季節には空とひそやかに交わるが、誰も気付きはしない。媚薬を撒かれているようなものだけれども、余りにも人の心に染み込みすぎているのであろう。
 そして――桜花を降らす泡沫の回廊をそぞろ歩く彼らも大和人【やまとびと】であるからして、例外ではない。
 気付けば二人はほのかに薫りを漂わす清廉な淡い紅に惑わされる形で、先ほどの川沿いから道筋を違【たが】えていた。まあ、よくある事と謂っていいが、しかし……何かがおかしい。
 まず、彼と彼女は息遣いを感じる近さまで寄り添っているのに、その手は繋がれていなかった。加えて、しばらくは会話もない。不思議な光景だった――見えない糸がぎりぎりの均衡を支えているのが、見えるような。
 それから、どれくらい歩いたろう。花弁に紛れてしまいそうな小ささの蝶が、ひらひらと少女を誘った。視線で追ううち、かごめの目がふと犬夜叉の頭に止まる。が、そのまま動かないとは、一体どうしたことか。
 彼女がその動作に特別な意図を込めているわけではない――そんなことは重々承知しているというのに、すわ目にするとどうしても、その瞳には頬を赤らめて仕舞う。
 「何じろじろ見てんだよ」
 自分だけが無為に動揺しているのが無性に悔しくて、犬夜叉は出来るだけ平然を装い目をそばめた。普段通りの尊大な調子の声は相手側、つまり聞き慣れた筈の少女には少し無愛想が色濃く思えたかもしれないが、だからといって怯むような彼女ではない。変わらず開けっ広げな物言いだ。 
 「あんたの髪に何かひっかかってんの。取るから屈んで?」
 「構うか、面倒臭え」 
 ……そこまで物臭【ものぐさ】でもないだろうに。そう考えて嘆息するかごめは、不機嫌極まりない風な態度は見せかけだと気付く割に、犬夜叉の真意はわからなかったようである。そういう処は何ともらしいが、とにかくかごめは宥めるように繰り返す。
 「そんなこと云わないの。ほら、屈んで」
 「……たく」
 一瞬の沈黙の後にぽつりともらして、彼は屈むというより、礼をくれてやるように頭を下げた。多分、彼女の背に合わせて腰を落とすのは難しかったからだろう。その所作にかごめがそっと目を細めたが、それは犬夜叉の知る処ではない。
 ひっきりなしに吹く風に煽られる長髪を丁寧に押さえながら、彼女は白銀の滝をまさぐってゆく。彼は暫し、覚えの無いこそばゆい感覚に閉口していたが、突如魔がさした――悪戯心、と呼んでも差し支えない程度の。
 「あ、取れ」
 みなまで言わせず、肩の各々を両手で掴む。すっぽりと収まってなお余るような身体のつくりを確かめながら、首元から覗く鎖骨の軌跡を、舌で辿る。
 しばらくは甘ったるく口唇を落とし、終点で淡い刻印をひとひら浮かべた。始めはほんのおふざけだったのに、自制が効かない。霞たなびく春の空気に、犬夜叉の箍【たが】は随分と外れやすくなっていた。それは昂ぶった熱を受け入れる彼女も同様で、いつになく妖艶な表情でまつげを伏せる。かごめの指が滑って、彼の頭【かしら】を自らに寄せた。 
 「まだ寝ぼけてんじゃないでしょうね」
 「――そういう事にしといてやらあ」
 「何それ」
 犬夜叉は白磁の肌から顔を上げず、桜色の痕にどこか気だるげな動作で口付けたままだ。それなのに核心に触れない、表面を撫でるような会話が続いて、彼はどうしたものか考えあぐねる。するとかごめが犬夜叉の耳にだけ伝わるような小声で、つまんないのと囁きかけた。
 互いの想いが一致する。――今だけ、今だけでいいから離れたくない。
 かごめの腰あたりに掌をかけ、犬夜叉はかなり強引に抱え上げた。そのまま手近な桜樹の幹に少女の四肢を凭せ掛ける風に押し付け、まだ少年らしさを匂わす骨っぽい腕を伸ばす。かごめがゆったりと表情を綻ばせた。勿論、拒む様子はかけらも無い。
 鉤爪の付いた十指が少女の耳の後ろに触れ、芯の細いさらやかな黒髪を持ち上げた。時折後れ毛を生みながら、両手が艶っぽく一つに結わえる。くすぐったいと云う代り、かごめはただくすくすと声を漂わせていた――犬夜叉が形作る篭のなか、閉じ込められたままだというのに。
 あでやかな闇色が宙に浮かび、そして落ちた頃。少女は少年の念珠を爪で弾き、これ見よがしに指を絡めて微笑した。やわやわと言霊とちらつかせる華奢な手首を捕らえて、犬夜叉は人差し指を口に含み、すべっこい腹を舐める。調子に乗って産毛のふわつく耳朶を軽く食んだ途端、何か握り締めたもう片方の指がぴしん、と彼の額で容赦なく鳴った。
 ……ぷ。
 絶え間なく聞こえていたくすくす笑いがいきなり止んで、かごめが小さく吹きだした。そのさまを移して輝く澄んだ琥珀の双眸もまた、ひどく楽しげ。その繊細な色彩を湛える彼もいつにない安らいだ感情を顕わに、口の端で笑っていた。
 見開いたように大きく、きれいな漆黒の瞳が半ば閉じられる。犬夜叉はすかさず瞼に唇を寄せ、漸くふっくりした花弁へ向かう……かと思えば、牙のある口から除かせた舌が下半分を撫ぜただけだった。先ほど消えた声が、今度は一層大きくなる。ふうわり梳かれるように優しい風が吹くが、犬夜叉とかごめの間を通る事はなかった。
 自然に、とても幸せそうに。いつの間にか二人は抱き合っていて。
 ――共犯者。場違いな筈のこの言葉こそ、じゃれあうように戯れる彼らには、きっと似合う。 
 うららかな春の午後である。








 『……むべ、半妖が魂も有り難きけれども、娘を愛づ心の何と目ざましきこと。』







 春の天【そら】は裏表のない素直な空色を基調として、薄っすらと長くぼやけた雲が広がりながら青だってゆく。何となく安らぐ色みをしているから、きっと大空はとびきり暖かいのだろう。
 じきに季節外れになる鶯の唄が、微かに聞こえた――とは云っても姿は見えない。さえずっている処を見るのは難しい鳥で、頻繁に目にするのは生まれたばかりの雀の子だ。  
 「で、結局」
 「何だったんだ?お前の見つけたのは」
 逢瀬の名残が見えぬようにとしきりに肩元に手をやるかごめを見遣りながら、犬夜叉が訊く。
 「ん。これ」
 取れたものは干からびた紅葉だった。そういって指先きで葉を摘み、ひらりと彼女が振ってみせると、彼は少し怪訝な表情を浮かべる。 
 「紅葉の葉……だな。この時季にそんなもん、滅多に無いぜ」
 「うん――なんで、だろうね」 
 「俺が知るかよ」 
 不思議がるかごめに対し、犬夜叉の興味はそこで尽きたらしい。彼のにべもない態度のせいか、一段落すると他愛の無い雑談らしきものが始まった。だが、普段の道すがらとは少しばかり差異があるようだ。
 とりたてて何かあったという訳でもないけれど、こういう時のかごめの口数は減り、代りに犬夜叉がやや饒舌になる。普段とは些か逆転したこの状況は、彼らにとって全く不快ではない――好きだとさえ、云えた。 
 並木のように続いていた桜の数がだんだんと減って来ている。かなり歩いたから、今宵の野営地と定めた野原のような平地まではそう距離が残っていないだろう。
 ……二人歩きももう終わり。残念そうに唇をすぼめたかごめの横を、疾風が鮮やかに駆け抜ける。
 「あっ」
 気紛れな春風が、少女がずっと玩【もてあそ】んでいた秋の遺物を抜き取って舞った。かごめは何故か手放【たばな】す気になれず、小走りに進んでそれに手を伸ばす。
 (何やってんだ、あいつ)
 小さくごちて、少年はしかめ面で腕をぞんざいに組んでみる。といっても、その行動にさしたる意味はないのだが。
 不意に犬夜叉は彼女の背にごく僅かにだが、とてつもない不安を覚えた――この陽気にあって、うすら寒くて仕方がない。意味のない感情を打ち消そうと、存在を確かめるように名を呼んだ。或いは縋り付くように聞こえたかもしれない、彼はふとそう思う。
 「かごめ」



 ――なあに?
 小首をかしげて、云う。腰巻の襞をそよがせ、かごめは柔らかい微笑みを伴って振り返ってくれる――そのはず、だったのに。



 あまりに突然だった。何の前触れも、そして痕跡すらも無く、一瞬で……犬夜叉の目の前でかごめが消えた。彼女がわざわざ追いかけてまで掴まえた秋枯れ葉が、所在なげに突風に巻き込まれて見えなくなる。そこにかごめの手があったことなど、幻だったかのよう。
 犬夜叉の頭の中は吐き気がするほど白くなり、やがては足場が失せたような感覚に陥った。ぐわんぐわんと脳天で妙な共鳴をさせながらも、彼が思い浮かべたのはかごめの言葉。寝惚けているのじゃなかろうかと茶化すような、あの。
 だったらどんなに良いだろう。このくだらない白昼夢が良くないものを呼び起こすにしろ、彼女はきっと大丈夫だと囁いてくれると思うから。けれど、そうではない。
 (違う)
 犬夜叉が聴きたいのは、留めておきたいのは、もっと別の――
 


 「あんたね……もちょっとあたしのこと、信じなさいよ?」
 かごめの姿をしていた甘やかで愛おしい香が霞のようにもろもろと崩れて、あえかに散った。







 惜しげもなく注がれる太陽の暖かい恵み、うっとりと撫で滑る爽やかな春風、今を限りと咲き笑う満開の桜吹雪――完璧な風景の中、一つ足りない。
 ゆらゆらゆらゆらゆら……ぐらり、滲んでぶれるは蜃気楼。
 うららかな春の午後である。








『なれば――ちぎりを断つもまた、一興かな。』