……かごめが消えた。
その事実に暫し茫然自失となっていた犬夜叉がいくばくかの冷静さを取り戻すと、肌が炙【あぶ】られたように痛んだ。ただそれだけで、空気に何か異質なものが混じっていると判る。
相変わらずたわわに咲き開いた桜が、或いは陽光に濡れそぼって揺らめき、或るいは春色の流れにさらわれる。踏みしめた土はこころもち暖かく乾いていて、なにがしかの山鳥のさえずりが耳朶をくすぐりながら消えていく。
それは、変わらない。変わらないが――。
油断無く辺りを見回していた筈の目玉が、靄がかかったような曇り方をした。一つ瞬【まばた】くと――眼前には作り物めいた景色が横たわっていて、違和感が尚のこと強くなる。たゆたう雰囲気さえ変えてしまったその空間へもう一つの変化が現れるのに、時間はかからなかった。
「なっ」
(――どうしてかごめの匂いがする?)
一度は掻き消えた彼女の気配がゆっくりと広がって、大気に溶けてゆく。出来すぎた展開に小さく舌打ちを落として、犬夜叉はこころもち身構えた。愛刀がちゃ、と微かに鍔鳴る……まだ柄に手を添えてさえいないのに。
反射的に鉄砕牙へ顔を向ける。燐火を連想させる薄青い光りを放ちながら、小さな焔【ほむら】が浮かんでいた。翅紛【しふん】ほどの粒を振り散らし、ぬらりくらりと誤魔化した漂い方をするそれを、彼が追う。
(かごめ、無事でいてくれ)
次第にはっきりした輪郭を描き始めたかごめの匂いに、犬夜叉の表情が険しくなってゆく。道しるべがどこから馨ってきているのか判じられるようになると、妖しげな輝きは花の中に紛れこんだ。
「かごめ――」
ただただ、がむしゃらに土を蹴る。むせかえるような桜樹が続いて、その先にぽかりと光りが映った。
(あそこから匂いが)
華の迷宮を抜けると、そこは何もない開けた草原。捜し求めた愛しい娘の姿は在れど、彼女は独りきりではなかった。意識のないらしいかごめの軆【からだ】を支えているものを認めて、彼は愕然とする。
一抱えもある姿態をした四足獣だが、ただの動物で或る筈も無い。体のそこかしこから生やした触手が纏わりつくようにしてかごめを捕らえているし、何より……。
みすぼらしい灰白色の尨毛が、底波のようにゆるい風に弄られる。垂れた澱みか、犬夜叉の臓腑か――ざわめいたのは、一体どちらだろう。
「お前、は……」
からからの咽喉がやっとの事で誰何【すいか】の声を絞り出すと、けだものが顎下にぶら提げたむさくるしい男の顔で、口を歪めるような笑みを浮かべた。
――獏【ばく】、というもののけがいる。
彼らは遥かな海を越えた先にある大陸の妖【あやかし】だが、その性質はどちらかと云えば聖【ひじり】のそれに近い。悪夢を喰らい、一時ながらその者に精神的な安寧を与える……形容としての誤りはないが、違う意味でなら例外は存在した。堕落した、と称せば良いのだろうか。
戦や何やで世が荒れれば嘆き悲しむ人間は増える。自然、その責め苦を負ってやる獏たちは疲弊し、果ては境界を見誤るのだ。心の産物である夢と、その実体とを。
命持たざる存在【もの】が魂を吸ってしまえば、どうなるかは考えるまでもなく――もはや霊獣ではないそれは、夢喰【むくい】と呼ばれるのだという。
夢を喰うというその様相が、一つ。救いの手を差し伸べてやるべき玉の緒【たまのを】を身に取り込んで、血肉を成したことについての罰【つみ】……つまる処の報【むくい】というのが、二つ。不名誉な呼称の由来だ。
そして厄介なことに、一旦人と同化すると夢喰は味を占めてしまうらしい。簡単に云えば別の者を狙うようになるわけだが、その人間臭い遣り口の念の入ったこと。
他者に邪魔されぬよう強固な結界を張り巡らせた上で、彼らは標的に夢を見せる。それは悪夢でも作り物でもない当人の記憶で、魂が夢現を彷徨っている処を喰らい尽くすのだそうだ。
余談だが、夢喰が再現の場面に選ぶのはささやかな幸せの光景が多いとか。真実か、それともまことしやかな嘘かはさて置いて――実際に確かめる訳にもゆかないのだから――それが事実なら、彼らもいい加減、凶夢の持つ甘美な毒には飽きているということなのだろうか。
ともかく、この幻獣については細々と伝えられているだけで、存在も怪しいとされている。大和の国では余程の事が無い限り、見る筈もないのだから当り前だ。犬夜叉とて幼い頃の昔語【むかしがたり】として聞き知っているだけで、姿を目にするのは初めてだった。対峙している彼は、獲物を求めてわざわざ海を渡ったのだろう。
禁忌を犯せし愚かなる妖【あやかし】。夢魔の秘めたるは異質の能力【ちから】。だとすれば――。
嘘くさいほどにつややかな若草が穏やかになびく。ざんわりと葉擦れが空に渡って、それきり消えた。
「かごめを放せ……この、幻獣くずれが」
そう言い捨てる犬夜叉の眼光は切れそうに鋭い。愛しい娘の危機に、彼の面相は今や少年のそれをしていなかった。代わりにあるのは、どこまでも精悍な男の顔で。
「幻獣くずれ、とな?――ほう、吾が事を知っておるのか」
ならば話は早い……犬夜叉の雑言に怒るでもなくごちて、夢喰はその四肢を変貌させる。人に近い輪郭を模【かたど】って、その皮膚は毛皮が覆った。顔は人間のそれが残ったが、霊獣の首はどこへいってしまったのだろう。
「判っておろうが、娘は返せぬよ。何せ」
嗄【しわが】れた含み声がねっとりと聞こえる。意味深に言葉を切って、人妖は男に視線を投げた。
油の浮いた肌に、下卑た笑みが張り付いている。それは、今の拠り代となっている獏の荘厳な口調には随分とそぐわないもので、いかにもちぐはぐな印象を与えた。察するに、にやついた表情をした、かつて人間だった彼はこうなる前からもともと、夜盗か何かだったのだろう。悪臭がしそうなほど垢じみた着物の襟が容易に想像できる。
「何せ――何だってんだ」
犬夜叉にしてみれば焦らされるより苛付くことはない。噛み付かんばかりの勢いをもって問い返す男に、それでも夢喰はたっぷりと間を置いて答えてみせた。
「吾が結界を破り、あまつさえ呪まで解くような極上の逸品だ。半妖の魂【たま】を逃したのは、惜しいがな」
(まさか)
「ご名答」
脳をよぎった考えに思わず息を呑む彼を眺める妖は、いかにも面白がっている様子を見せた。
「初めの獲物は汝だったのだが、気が変わっての」
「この、外道……」
「何とでも」
――腹立たしいことに、夢喰の口調は心底愉しんでいると犬夜叉に告げていて。揶揄はますます色を強める。
「それにしても、実に惜しい事をした……汝の夢を選びそこねたよ」
苦々しく眉根を寄せたまま、彼はただ押し黙った。警戒の表情の内に訳が判らないという思いが混じるのに気付き、幻獣はもっともらしく頷いて嘲笑う。
「ああそうか、憶えが無いのだったな――良かろう」
すうい、と濁った光を点す眼を薄め、夢喰はかごめを見遣った。
「吾が汝に見せたのは、宿世【すくせ】の巫女の夢でな」
「この娘の方が、良かったであろ?」
「――喧しい!」
今まで堪えていた感情が噴き出したかのように一声吼えて、男は真正面から切りかかった。が、夢喰に届く前に、結界に刃【やいば】が弾かれる。
ばちん、と鳴神【なるかみ】もかくやというほどの閃光が彼の眼を、全身を灼いた。緋色が吹っ飛ぶと夢喰の周囲が綸子【りんず】のように揺らぎ、静かに霧散する。
「結界が強まっておる、か……。途方も無い力だな」
半妖とはいえ、犬夜叉が放つのは妖気だ。対し、そこいらの妖怪と変わらないとは言え、夢喰は未だ霊獣としての性質を持ち合わせている。そこにかごめの破邪の聖気が加わった所為で、結界は恐ろしく堅固なものへと変化を遂げていた。
目の細かい砂煙が僅かに立ち上り、そしておさまると、巨刀を握り込んだ犬夜叉が佇んでいた……上手いこと足から着地したらしい。彼の浮かべた不敵な笑みと初見の赫い刃に、人妖は無意識に目を見張った。
(このままではちいと……厄介かもしれんな)
内心で小さくごちた夢喰は変に長く、そして細い五指――枯れ枝のような――でかごめの顎を捕らえてくいと上向かす。透けるように白い喉首がのけぞるのを目にして、犬夜叉は怒りにうち震えた。
わざとらしく見せ付けられた光景に血が滾る。挑発だと判っていても、皮膚を通り越して肝さえもが粟立つ感覚が、彼から冷静さを奪っていた。
「しかし、美しい娘よの――汝が心奪われるも、判るというもの」
云って、夢喰はかごめの顔【かんばせ】を覗き込んだ。長たらしい薄鼠の体毛が黒髪の上を滑って妙に映える。くすみきった白を鬘【かずら】に変え、乙女は静かに眠り続ける……それこそ、無垢の華のよう。
「その薄汚い手で触れるな」
「――かごめを放せ」
先ほどから気味の悪い嗤いを崩すことのない残酷な花盗人を、花守は憤懣やるかたないといった形相でねめつけた。解り易い要求に露の間考えて、人妖はどこかおどけた風に返す。
「聞いてやらんでもないが……とりあえずその剣太刀【つるぎたち】、そこらに棄て置け。なかなかの業物のようだからな」
「そうはいくか」
「俺を嬲り殺してから、ゆっくりかごめを喰おうってんだろうが――魂胆が見え透いてんだよ」
話はそれからだと嘯いてみせる妖の仕草を鼻であしらう。男が負の感情を孕んだ低い声で撥ね付けると、夢喰は否【いいや】の向きにこうべを振るのだった。
「まあ待て。一つ、賭けをせんかと思うての?」
「断る」
鉄砕牙を握る利き腕に力が篭もり、鍔が鬼気迫る音を奏でた。鯉口を切ってからこちら、犬夜叉は正眼の構えを刹那も解いていない。
「そう逸るでない。上手くすれば汝の守人【もりびと】を奪い返せるかもしれんて」
「……どういう事だ」
男が短く云う。中段の構えは崩されたが、無形の位の切っ先の狙いはそのまま。結界の堅牢さは判っているが、いつ刃がそれを破っても不思議はない――密かに思いながら、夢喰は緩く息を付く。
南【みんなみ】を向いていた太陽は僅かながら傾いて、落ちる影を少し伸ばしていた。どこか気だるい昼下がりに、陽炎が萌ゆる。
和やかさと静寂と、紙一重の光景。それでも見た目だけは穏やかな一幕に、生き物はといえば虫の一匹すらも見当たらなかった。
(――やれ、面倒な)
漠然と思って、乙女と半妖とに眼を落とす。人妖は慎重に言葉選びをしながら話を進めた。
「先にも云うたが、半の妖というのもおつな代物での――こちらの姫御前【ひめごぜ】を取ったものの、どうにも惜しくなったのだよ。そして汝は汝で、娘を取り戻したい」
「……」
男は無言のままを貫いたが、夢喰はそれを肯定とみなした。そこでだ、夢魔はそう誘いを口にする。
「吾と汝で、手合わせれば良かろう?汝が勝てば望みが叶う」
「で、お前が勝ちゃあ俺もかごめも、両方手に入れられるって寸法か?俺に得物まで捨てさせるなら正々堂々って訳にゃいかねえし、随分と割に合わねえ賭けだ」
なじるような口調で言い切って、犬夜叉は再び剱【つるぎ】を両の腕で捧げた。慌てず騒がず、人妖は言葉を継ぐ。
「いやいや、これで対等ではないか」
「太刀筋を見る限り、汝に刀がある内は勝ち目など見えぬ……無茶を云うてくれるな。そうさの――気にくわんのなら、条件を変えようか。吾が負けても、娘は見逃してやろう。それでならどうだ?」
(どう転んでもかごめに手は出さねえ、ってか……)
食指が動かなかった、と云えば嘘になるだろうが、しかし。
「信用ならねえな」
「口先だけでなら何とでも云える。――そうだろうが」
些かの隙もない犬夜叉の言。答えて曰く――人型をした、けれど人ではないその体で夢喰は器用に肩を竦めてみせた。
「否定はせんさ。だが別に」
「……良いのだぞ?今この場で娘を喰ろうても、吾には同じことなのでな」
(選択の余地はねえな)
「……」
先ほどとは違う沈黙を落とし、犬夜叉は鉄砕牙を鞘に収めて軽く放った。見る間に触手が寄って来て巻きつき、太刀はそのまま結界の内へ。険しさと猜疑とを一層濃くした琥珀の双眸に、人妖は念の為だ、と呟くように口の端を上げた。
「では……始めようか」
それが、号砲となる。
ずしゃあ、と犬夜叉の体躯が大地を抉った……もう何度同じように倒れ伏しただろう。鮮やかに燃ゆる衣の朱【あけ】のそこかしこにどす黒い血塊が凝【こご】って、真珠の髪【くし】までが血に塗れる。彼の身体がいっとき、動きを止めた。
「そろそろ、落ちたかのう――おや」
「馬鹿云うな、っ……」
さしたる感慨もなく放たれた言葉にやっとの思いで半身を起こし、夢喰を見据えて犬夜叉は爪を鳴らす。いつものように舌打ちをしたつもりが、生ぬるい鉄が唇をつたっていた。立ち上がった足が微かに軋む。
勝負は未だついていない――膝を折り、血を吐きながら云う男に、夢魔は一つ冷笑を送った。
夕凪が豊旗雲【とよはたぐも】を彼方に押しやって、天空があややかに舂【うす】づく。気付けばなまめかしい宵の帳が風を舐めていて、十六夜の月読みが曖昧に揺れていた。
意味もなく胸を騒がす日暮れの刻だけは清明の気配も希薄で、そのくせどこか凛として……優婉として佇む桜花の欠片がちらりちらりとまろび舞うのもまた、たぐいなく美しい。花明かりが静かにさざめいて、まどろむように彼らを照らしていた。
「汝に勝ち目なぞ残されてはおらぬぞ?とかく、大人しゅうしておれ」
隙だらけの四肢に触手が絡んでうつ伏せに引き倒す。針のような鋭利さに勢いを乗せて、無数のそれが音も無く背後に回り込んだ。
――戦いは熾烈を極めた。
夢喰はもともと獏のひずみから造られたもので、そういった能力は無いに等しい。しかし霊獣と同化した、もと人間の彼は違っていた。夜盗ではないかという直感は、良くない意味で当たっていたらしい。
奔流となって襲い来る白いうねりを捌こうにも、気持ちが悪くなるほどの邪気――夢喰が今までに殺してきた人間たちの怨念に相違ない――が犬夜叉の手の鋼【はがね】を阻む。そこばかりに気を取られていれば、死角から別の触手が彼の身体に疵を負わせ。
それらを力任せに破った処で、男が人妖の懐近くに飛び込む頃には完全な結界が張られている。必殺の筈の一撃が届かない。
相手と同じようにごく薄くなっている結界の死角を突けば、あるいは夢喰も避けられないだろう。事実、そうやって好機を得られそうなことは幾度かあった。けれども妖に巣くう人の部分は、どうするべきかを知っている。最後の切り札を……かごめを盾とされれば、犬夜叉に手が出せるわけがないのだ。
つまりは、尨毛のようなもう一つの手――武器の使い方も、有効な結界の巡らせ方も、人質にした娘の扱い方も。強大な妖力も、技も持っていない代わり、人妖は何もかもに手馴れている。鉄砕牙があればまた違ったのか知れないが、云っても詮無いことだ。
凄まじいまでの邪気に蝕まれ、周囲をずっぷりとした濡れ色の赤で染め。――犬夜叉の疵は浅くない。
「ぐあ、がっ――」
やけに大きく響いたのは、肉を裂く生々しい感触。苦悶を噛み締めた低い声音が地を這って広がった。鈍い白の毛束が犬夜叉の背深く食い込み、みるみるうちに色を変えて耀く。
上等の織物を敷き詰めたように大地に広がる、一点の曇りもない鮮血の赤は却って気味が悪いもので……鉄の臭いを吸い込み、ぬらぬら。
残虐の際立つ光景とは裏腹に、天はさらさらと透明な紫混じりの水色をしていた。芍薬のあでやかさを思わす薄の紅風はとうに成りを潜め、日の明りが弱く滲んだだけの空気は幾分か冷たい。目のくらむような、それは夕と宵の逢瀬。
(血を、流しすぎた……動けねえ)
時折状景が霞んで見えにくくなる。途方もない脱力感を憎らしく思いながらも顔をあげれば、愉楽と喜色を満面に湛えた人妖と視線がぶつかり合った。
「まあ、こんな処かの……さて」
ねじ伏せられた犬夜叉をひとしきり、矯【た】めつ眇【すが】めつ。意識を保つのがやっとのようだと見当を付けたのか、夢喰はにやりと笑みを深くした。
「よう見ておれよ?汝の守人を蓮の台【はちすのうてな】へ送ってやるでな」
「な、んだと……」
(しまった――)
犬夜叉は心中でごちて、後悔の念に歯噛みする。
元より、夢喰がかごめを見逃す筈がないことくらいは承知の上。しかし人妖の狙いはこちらに向き変わり、獲物である自分が生きている間は彼女に手をかけるような真似はしない、犬夜叉はそう考えていた。
読みが甘かった――まさか彼の絶望で味付けをするなどと、考えてもみなくて。
男の双眸が色を変える。烈しい殺気を受け流し、夢喰は淡々と言い放った。
「汝も後で同じ処へ案内【あない】してやろうぞ。そのままでは、さぞ辛かろうて」
立ち上がろうともがく犬夜叉を一層強く押さえつけ、自らの餌と向かいあう。穏やかな表情で寝息をこぼす娘を触手から抱き取り、人妖は童女をあやすかの口調で告げた。
「では、麗しの巫女君よ――泡沫の夢、存分に楽しまれたか?久遠【くおん】に、吾が腕で眠れ」
音も無く、しいんと静まりかえった結界の内に清らかな光りが溢れる。満足げな笑みを刻んだ視線が、瞬間犬夜叉に落とされた。僅かずつ、かごめの気配が薄れてゆく。……喰われている。
「……ごめ、かごめ」
疵口からあふれ出る鮮血にも構わず、犬夜叉は大声を張り上げた。
(逝くな)
渾身の力を込め、彼がかごめ、と一声叫ぶ。応えるように彼女の背が大きくしなるのを、犬夜叉は確かに見た。同時に人妖は怪訝そうに顔を歪める。
「……なんだ?」
(この娘、魂が――)
「ぎゃあああああっっ!!」
鼓膜をじかに震わす絶叫に、かごめを捕らえ、夢喰を守っていた結界が途切れた。両者の間で弾けた閃光は妖の腕を焼き、少女は反動で押し飛ばされる。
(かごめが、夢喰の術を撥ね退けた?)
――思うより早く、躯【からだ】が動いていた。鉄砕牙を拾い上げ、頽【くずお】れかけたかごめの華奢な背にすんでのところで手を回す。咥え鞘から抜刀して、犬夜叉は夢喰の頭【こうべ】だけを斬り飛ばした。
残された胴体は数歩よたよたと前進したのち、自らの首にけつまずく。それを下敷きにしたまま、濁り色をした毛むくじゃらの塊はしばらく痙攣を続けていたが、男は構いもしない。
「かごめ、目を覚ませ!」
懇願にも似た必死の問いかけへ、答えは返らず。柔らかい線で覆われた彼女の頬はぞっとするほど冷たく白く――色を失っている。引き結ばれた唇も紫に凍って、細く空気が漏れる度寒そうにわなないた。体温が下がっている。
(くそ、こんなことで)
――また、自分は亡くしてしまうのだろうか。己の命と引き換えてでも、護りたいものを。
「かごめ、かご」
「随、分と」
「良い……眺めよ、の」
慟哭まじりの悲鳴に、虫の息の嘲りが被さる。出来れば首が繋がったままで見たかったが、そう棄【こぼ】した夢喰の顔は人とけだもの、二つのそれが半端に溶け合って見るに耐えなかったが、会話は出来るらしかった。
喋る一言一言ごとに肉が削げおち、崩れゆくのにも構わず、夢魔は乾いた――なのに底冷えのする声で嗤うことを止めない。その周りで発光するかごめの気配が薄れ、持ち主の傍へ還りつつあった。
「くたばりぞこなったか――丁度良い」
「方法は」
何の、とは犬夜叉も告げなかったし、夢喰も訊かなかった。狂気じみた深い愉悦を滲ませ、人妖のされこうべは語る。半開きの眼は濁り、くすんでいた……もう、見えなくなっているのだろう。
「夢の欠、片をひと齧り、喰ろうただけだからの、魂、はただ、眠って……おるだけであろ――みずか、らの幻から、目覚めれば、そ――れ、で」
「それでかごめは助かるんだな」
否定も肯定もせず――けらけら、夢喰は力の限りに声を上げる。不鮮明の際立つ物言いに、死は近いと判った。
「あか、暁か……もって、曙が、せいぜ、かの。な、れど」
「吾、が呪をやぶりし、は、この、むすめ、のみ。なんじに、とけよ、はずも――」
「黙れ」
夢喰を一瞥することも無く、犬夜叉は血塗れの腕を振り抜いた……飛刃血爪。ひ、とひくついた呟きを垂らし、それはなんにも云わなくなった。毛先の方からじわりと末枯【うらが】れてゆき、人妖の身体だったものはざらざら散って、跡形もない。
「かごめ――」
(おまえを死なせるようなことはしねえ、絶対に)
縮こまって震える四肢を火鼠の衣で抱きしめるようにくるみこむ。吐息が詰まることのないように首筋から頭までをしっかり支え、犬夜叉はかごめの手に鉄砕牙を握らせた。そのなめらかな甲に掌を重ねて――これは護り刀でもあるのだからと、馬鹿げた思いつきにだって頼ってしまいたかった――彼は愛おしい言の葉を紡ぐ。
「かごめ」
髪を撫で、頬に触れ、犬夜叉は幾度も名を呼んだ。けれど、彼女の瞳は開いてくれなくて。
陽はとうに沈み、冷気を通り越した寒気が淡い闇を繋ぐ。枝々の隙間から垣間見ゆる八分の月が桜をしらじらと照らして、今にもしずれてきそうだった。
力まかせに肌を叩く夜嵐は妙におどろおどろしく、容赦がない。か細くなった娘の熱をすりへらして平然としている。良くも悪くも、四季は全ての者に平等で……時も、また。
(急がなけりゃ、かごめの身体が保たない)
あれからさほども経った気がしないが、それでも犬夜叉とかごめの周りの景色は流れ。どれだけも猶予がないことに、彼の臓腑が厭な音で鳴った。
「畜生……畜生!」
(どうすりゃ良いってんだ)
焦りで膨らんでゆく心がひたすらに、かごめの無事を徴【はた】る。ぎりり、尖った牙をひたすらに噛み締める犬夜叉の前がふいに明るくなった。
「――!」
詮索を巡らす暇【いとま】もあらばこそ。夢魔に喰われた意識、かごめのひとかけの帰還……それに巻き込まれる形で、彼は光の渦へと吸い込まれて――。
強烈な明りがどこからともなく湧き上がってきて、きつく閉じられた犬夜叉の瞼に文色【あいろ】を描き出す。めまぐるしく光線は移ろい、果てというものが見出せない。だからだろうか、刹那ほどに短い時間はどれだけにも長く思われた。
少しすると視界を覆う薄い皮膚を貫く痛みは弱まり、彼は眼を押し開ける。意識せず、広がった光景に息を呑んだ。
日が低いところからして、未だ空気の冷えを残した早朝だろうか。満開の桜花をふぶかせる春の野を仲間達は歩いている。見覚えのある景色から、これが三日ほど前のことだと知れた。
鉄砕牙も持たず、上半身【うえはんみ】は真白い襦袢一重きりで――蘇芳の狩衣はかごめに着せ掛けて、愛刀はその手に持たせてしまっているので――立ちすくむ男の姿は半分透けていて、幻の中の普段通りの彼は少女の横で仏頂面をしている。
「騙されるな、これは現世【うつしょ】なんかじゃねえんだ!戻って来い!」
感情の高ぶりにまかせて激昂する。彼女のそばへと降り立つべく、犬夜叉は足裏に力を込めて地を蹴るが――あと二間ほどという処で、薄氷【うすらい】のようなものの阻まれた。
これが普通の障壁であったなら、或いは剱【つるぎ】を手にしていたなら……彼は躊躇わず、行く手を塞ぐそれを斬り棄てていたろう。
(そんなことしようもんなら、かごめはどうなるか――)
犬夜叉のいるこの場は、紛うことのない少女の心のうちだ。幾ら目を覚まさせる為とは言えど、それへ疵を付ける訳になどいこうものか。加えて、たぐいまれな精神力を持つかごめの結界を取り除くなど、刀のない今の彼には到底成し得ぬ芸当だ。
(どうする?どうすりゃいい?)
「かごめ……」
こんなにも近くにいるのに、何の手立ても無いだなんて――いいや。
犬夜叉が彼女の名を口にしてすぐ、かごめは彼の方に振り返った。声もなく見開かれた彼の双眸と濡れたような黒に艶めく瞳がほんの一瞬、確かに混じりあう。しかし少女はそのことに気付いた様子もなく、また前を向いて小走りに行ってしまった。
「声が……聞こえたわけじゃ、ないのかもしれねえ」
それでも、かごめはきっと気配を感じたのだ――犬夜叉の。
(手はある――まだ助け出せる!)
硝子のように見通しの良い壁面に拳を打ち付ける。一方で大声を張り上げ、彼女の名を連呼する。
「かごめ!かごめ、かごめ!」
あちら側とこちら側では、時間の流れる感覚にずれがあるらしい。さほど経ったとは思えないのに、数日前の場面が恐ろしい速さで眼前を流れてゆく。
それはどうしてか夜へと向かうにつれて一層に加速し、境界の壁が靄がかったようにだんだんと濁り曇ってきていた。完全に向うが見えなくなってしまっては、手遅れなのではなかろうか。
根拠こそないものの、犬夜叉にはそれが偽りのない事としか感じられなくて、ありったけ名を呼んだ。出来るだろう精一杯だった。そうして、最後に願う。
――どうか。
「ん――」
曖昧にごちて、かごめは寝返りをうつように身じろいだ。閉じていた瞼が震えて、闇色を映し出す。昼間とは比べようもなく冷たい夜風が前髪を梳かして、額の熱を奪いゆくのがわかった。
まごうことなき射干玉【ぬばたま】の夜、それも更け時だ。それなのに。
(眠れない……)
野山を一日歩き詰め、疲れているのに眠れない。本当に少しも――うとうととも出来ずにいるので、こうしているのにもいい加減飽きていた。心当たりと言えるものは……ないでもない。
(も、いいや)
眠ることは諦めたかごめは、そっと寝袋から這い出した。その足で獣除けに焚いている炎の傍に腰を降ろす。消えかかった小さな火は弱々しいが、寝床を抜け出したばかりの肌には十分な温さをもたらした。
耳に色よい、焔【ほむら】のはぜる音。こうしていればそのうち眠れるかもしれない――漫然と思ったが、どうやらそうなりそうもない。
(なあんか、変な感じがするのよね)
快い休息に身を委ねることができないのは、多分そのせい。自分ひとりだけが場違いのような気分で、もぞもぞと落ち着かないのだ。目をつむると周りが見えないからか、全身を取り巻く違和感は尚のことひどい。
いつも通りの道行き、いつも通りの遣り取り。おかしな処など一つとして、ないというのに――。
(でも……何か違うわ、絶対)
仲間達のように、殺気を読むだとか、気配をさぐるだとか。そういう戦いにおけるようなことは、かごめにはできない。でもその分彼女は直感的なものにおいては誰よりも長けていて、今、その感覚はひしひしと少女に警鐘を打っている。
「あーもう、すっきりしないなあ」
口の中で云って、夜の空を一つ仰ぐ。これ以上は望むべくもない星々の煌めきに心を凪がせて、かごめはまた焚き火に視線を落とした。
凛とした赫が瞳の黒檀に写り込み、どこか潤んだような陰影を創る。小さく溜め息を飛ばしたかごめは、憂いているようにも見えて。
(大切なことのような気がするのよね)
物思いをしながら、唇をつついたり擦ったり……意味も無く口元を玩ぶ。手持ち無沙汰な所作に微かな感傷を覚えつつ、かごめは何とはなしに指の腹を肩元にあてがった。骨のでっぱりの真上がどうしてか――ひどく熱い。
「――、――!」
「な、に……」
声が聞こえた気がする。空耳では多分なかったが、誰が何と言っているのか、それは全く判らなかった。記憶が新しい内に反芻してみるも――やはりはっきりしない。ただ、聞こえた声は自分の口から漏れた呟きよりも随分と近くに思えて、少女は不思議な気分になる。
「待って……待って」
(もう一度聞かせて)
誰に告げるでもなく請うて、かごめはもう一度耳をすませた。黙っていると自らの鼓動が聞こえ始め、それは再びの声の来訪にせつなく鳴る。
「――、――、――」
間を置かずに流れてくる声の出所はどこだろう――そうやって注意を向けてもやっぱり釈然としなくて、そのうちに頭が締め付けられたように鈍く痛み出した。
「いっ――つう」
考えることを放棄したくなるほどの痛覚の底、声の波が寄せてはかえす。今逃せば泡【あぶく】のように消えてしまう気がして、かごめはやっきになって心の中を探った。
「……っく」
もう、まともに座っていることもできない。頭を腹部に擦りつけんばかりにうずくまった彼女の首筋は、うっすらと脂汗をかいていた。気の遠くなるような痛みは強くなるばかり、少しづつ力を無くしてゆく声に焦りはつのるばかり。
「―…―、……――……」
(早くしなきゃ)
朦朧とする意識を叱咤して繋ぎとめ、声の主の面影を追った。けれど途切れだしたその声は頼りなげにも取れて、妙に不安を覚える。そうすると無性に怖くなって、かごめはほとんど無意識に愛人【いとしびと】の手を求めていた。
(犬夜叉、犬夜叉ぁっ……)
――犬夜叉?
「あ、っ…」
(どうして)
――思いつかなかったのだろう。答えは一番解り易い形をしていたのに。
(あたしを呼んでたのは)
「犬夜叉」
かごめが答えを紡ぎだす。途端……光りが溢れた。
闇の帳が暁の空に隠されてゆく。霞を吸ってしっとりとした光風【こうふう】が、そう先ではない日の出を示していた。
山あいをすり抜けた朝日の破片が犬夜叉の銀の髪を鴇【とき】色に梳かしあげ、かごめの頬に紅を添える。琥珀の眼が見守るなかで、長い睫毛に彩られた瞳が真っ直ぐに前を見据えた。
「また、助けてもらっちゃったね。ありがとう、犬夜叉」
「何云ってやがる、お前が先に俺を助けたんだろ」
さも当然といった口調で返答した彼に、彼女は小さくかぶりを振って眉根を寄せる。
「だって、あたしの所為でこんなひどい怪我……」
「この程度ならどうってこたぁねえよ」
それより、口の中でぽつんと呟いた犬夜叉が俯いた。唐突な所作をいぶかしんだかごめが彼の顔を覗き込むと、熱い温度を持った雫がひとつ、ふたつ。――無事で良かったと、その表情が叫んでいた。
「心配、させちゃってごめんね」
「……礼と詫びはもう聞き飽きた」
細い声で言葉を紡いだかごめから半分視線を外して、犬夜叉もまた辛うじて目のきわに引っ掛かった涙を擦る。
「じゃあ、云うけど」
戸惑いの色彩【いろ】を濃く滲ませたまま、泣き出しそうなのを噛み殺して少女は微笑した。泣き笑いの中にささやかな皮肉と溢れるほどの恋心を秘めた、その顔はどうしてか切ない。
「あんたってもう……ほんっとに莫迦なんだから」
「な"」
予想の範疇を遥かに飛び越えた辛辣な一言に、犬夜叉は虚を突かれて絶句する。やがて己を取り戻した彼が彼女に喰ってかかると、かごめは進んで手を伸ばしてきた。
「――!」
「さっき、言ったばっかでしょ」
彼女が彼へ掠めるように口付けて、そのまま首筋にかじり付く。犬夜叉の肩口に顎までうずまって、安心しきった吐息を落とした。ふう、と幼子のように安堵して、一つ囁く。
「あんたが呼んだら、あたしは絶対わかるんだって」
光を呼ぶ声は、必ず届く。
光はずっと、声を待っているのだから。