朧の夜に
oboro no yoru ni







背が疼いた。



 「珊瑚ちゃん、どうかした?」
 「…え?」
 木製の椀を片手に抱えたかごめに尋ねられ、珊瑚は自身の呆けたような声で我にかえる。右手に握った包丁の柄の感覚がすぐに彼女を現へと押し戻し、娘は一つ瞬きをした。やや切れ上がった睛【ひとみ】に映る屋内の景色は何も変わっていない。
 (あたしったら――又だ)
 己の失態に小さく落胆した事などおくびにも出さず、珊瑚は穏やかそうな顔をした。果たしてそれに気付いたのか、かごめはまな板の脇に器を置いて首をかしげる。
 「どうして?別に何もないよ」
 「だって、ここ。皺が寄ってるもの」
 言いながら少女は自身の眉間に指を当て、退治屋の娘はそれを受け流して微笑【わら】った。
 「大したことじゃないよ。酉の刻だってのに皆帰ってこないな、と思ってさ。折格の夕餉が冷めちゃうだろ」
 「あ、うん…そうよねえ。あーあ、七宝ちゃんを連れて帰ってきてなんて、犬夜叉に頼むんじゃなかったわ…全くもう」
 帰ってきたらとっちめてやんなきゃ、そう言うかごめの顔は少しも怒っていない。どこか可愛らしく膨れる少女を見遣って、珊瑚はくすくす笑いを漏らしながら刻んだ葱を鍋の中へ放り込んだ。食欲をそそる匂いがふわりと立ち昇り、鼻腔をくすぐって胃まで落ちてゆく。
嗅ぎ慣れている筈なのに酷く懐かしいと思うのは何故だろうか、考えるまでもない。答えは簡単過ぎた。
 (あたしはまだ里の事が、琥珀の事が)
 背が金切り声をあげて疼く。優しいけれど物悲しい匂いと一緒くたになり、ぐるぐると囘【まわ】って――後は崩れて無くなるような気が、した。
 こく、と無意識に息を呑んでは面を上げる。もう少し冷静になりたい。
 (そんなこと、考えてどうなるもんでも無いさ)
 唐突に太陽の熱をほんの少し残したまま秋の湿度を感じさせる速度で風が小屋に吹き込み、数少なくなった蜩【ひぐらし】達の囁きを運び来る。鮮烈な炎【ほむら】が染め上げたような夕焼けが放つ光は酷く酷く…あつい。
 (夏もそろそろ終わりかな)
 本当にあついものがそれではないと知っていた。だから矛盾している筈の言葉は良く意味が通る。
 「いただきます」
 やがて仲間達が揃い、なごやかに囲炉裏を囲んだ。珊瑚を除いては、いつもと変わらぬ夕餉のひととき。
 …其れに目を向けた人間がいたのか否かは、彼女には知れないが。



 ――退治屋の里一番の手練れ、飛来骨の珊瑚。そう呼ばれていた娘が奈落の仕掛けた罠によって、里の唯一の生き残りとなったのはつい最近の事であった。時を同じくして彼女は件【くだん】の一行に加わり旅を始めた訳だが、彼らは今現在、荷の補充と休息の為に楓の村へと身を寄せている。
 あの忌まわしい一夜から時は巡り、季節は既に晩夏へと差しかかっていた。
 そうして珊瑚の背にあるのは、完治した後も消える事の無き、忘れ得ぬ疵痕。愛しい実弟の遺した最期の生の証。
 (あつい…)
 よく回らない頭で退治屋は意味もなく思う。







 日の長い時期は、夜の闇が落ちるのが遅い。のろのろと光りを塗り込めてゆく深い藍を横目に見ながら、満月は上へ上へと昇り続けていた。床に付いた皆のあえかな影が細長く伸びる。
 虫達はうわんうわん、と耳鳴りがして来そうな音色で鳴き、まんじりとも出来ない珊瑚に追い討ちをかけていた。横になったのは随分前だが、如何せんこの場には気配に敏【さと】い者が多過ぎるので身じろぎさえも難しい。
 (やっぱり眠れない、か…)
 日暮れ前の予想が正しかった事に妙に感心しながら、珊瑚は眼をしばたかせた。夕刻の風は冷たくなりかけていたから少しは過ごしやすくなるかと踏んでいたが、空気がじいっと蹲【うずくま】ってやけに鬱陶しい。熱帯夜とまでは行かないが、季節が逆戻りしてしまったのかと疑いたくなる程だった。
 (ああ、全く――)
 苛々する。姦しい。
 直接耳に飛び込んでくるのは仲間の安らいだ寝息だけだが、心の蔵が脈打つ音が頭の芯に響いて離れないのだ。己の背後の痛さが共鳴し続けているのも気にくわない。ついでに云えば、それはどうにも熱かった。
 (駄目だ、これじゃあ)
 明日には村を発つことになっている。一晩徹夜したくらいなら身体に影響は無いが、少しでも眠って気分を軽くしておきたかった。
 犬夜叉、かごめ、弥勒、七宝、そして雲母――同じ家の中にいる面子を静かに思い浮かべながら、瞳【め】を開く。家主の楓は、今日は不在だ。
 すぐ隣のかごめに触れない様にそろりと起き上がって室内に一瞥をくれたが、誰の表情にも変化はない。意を決して立ち上がっても、一番遠くの出入口近くであぐらをかいた犬夜叉が耳をぴくりとさせただけに留まった。
 (大丈夫、寝てる)
 雲母の頭を手で一擦【さす】りして、せわしなく寝返りを打つ七宝をよけながら弥勒の前を過ぎる。さらし布を放り入れた手桶を抱え、珊瑚は小屋を抜け出した。
 (とにかく…冷やそう)
 向かうべき場所は一つしかない。娘は迷いもせずに村を抜け、黙って影を生む丸い月を気にしながら傾斜のきつい山道を進みだした。頬をすり抜けてゆく夜風が微かに心地良い。
 何も考えないで済む様に過ぎ去りつつある夏の景色を眺めながら、珊瑚はいつもよりゆっくりと歩く。彼女の通った後には草鞋の立てる音が大地に融けていき、相も変わらず静寂が満ちた。それを幾度と繰り返し、退治屋は目指す場所で立ち尽くす。
 ただただ、なめらかに夜を抱える河の淵――水のにおい。
 仮初めの鏡に、望月が歪んだ。



 とぷんとぷん、とぷん…いきものの唸りと奪った空気の熱を従え、命の滴【しずく】が往く。それはどこまでも淡々と続く営みで、村へ入る時に見た景色と対照なこの姿は珊瑚をひどく安心させた。
 (すごく、落ち着く…) 
 闇を扇いで岸沿いへ近づき、憑かれた様に元結いを解く。躊躇わずに身に纏う全てを剥ぎ取って投げ捨て、片足をひたして――振りかえった。誰かの声を聞いた気がして。
 いついかなる時も女で有る事を忘れてはならぬぞ、とは父の教えだ。水面の月が頷くように揺れ、今更ながら泣きだしたい衝動に駆られた。
 脱いだ小袖を丁寧に畳み、濡れないように手桶に入れる。一刻も早く水に浸かって仕舞いたいのに、幼い頃から父に躾けられてきた癖を守る娘が、そこにはいた。
 (余計に思い出してるなんて馬鹿みたいだ)
 感傷などというものよりも余程性質【たち】が悪い、痛みすら持つ暗い感情。それを振り切りたくて、珊瑚は涼やかな流れに分け入った。
 ざざあ、と大地の息吹が疾る。半端にぬるい突風は艶【あで】やかな髪を巻き上げ、くっきり残った背中の疵を顕わにして消えた。娘は反射的に目を瞑る。
 (今は何も見たくない)
 大きく息を吸い込んで水へと身体を沈め、少し泳いでは顔を出す。心なしか楽になったような気がするのは冷たさが熱と疼きを和らげたからなのか、珊瑚はどこか漠然と溜め息をついた。
 暫らくの後、退治屋は上半身まで流水に差し入れたまま岸辺を向く。元のように着替えて戻るのにかかる時間を考えていた思考が一気に停止した。
 「え……」
 ぽつんと水辺に広がった呟きは、果たして誰へのものであったか。
 






  珊瑚が細心の注意を配りつつ楓の家を後にして、しばし。人の気配に恐ろしく敏感な退治屋の足音がふっつりと消え失せるのを待って、弥勒はすういと両の眼に暗闇を映す。
 気付けば娘の片腕の妖猫が抹香の漂う法衣の裾元へ忍び寄って来ていた。彼女――まあ、彼でないという保証も無いけれど――は鳴きもせず、熟れた果実を思わす赤き視線をじっと法師に注いでは二又の尾を揺らす。我知らず、苦笑が漏れた。
 (やはり、おまえも判っていたか)
 弥勒が指先で白い毛に覆われた喉をくすぐると、雲母は黙ってその膝に飛び乗る。返事代りのようなものだ。
 どちらかと言えば快活という形容詞の似合う娘にいつもの覇気が感じられなくなったのは、おおよそ日暮れ前くらいからだったと思う。一見すると仲間達との談笑を楽しんでいるのだが、何かが違うのだ。まるで何かに耐えているような――必死に、こらえているような。
 幸か不幸か珊瑚の異変を感じ取ったのは一人と一匹、もとい二人だけなのだが、まさか夜半に独りで出歩くのを放っておける訳が無かった。彼女の性癖を熟知している猫又はいざ知らず……こと、法師に関しては。
 「済まんがな、雲母」
 戦闘時の外見からは想像もつかない程ちんまりした、温かくて丸っこい胴体は弥勒の両掌【りょうて】に容易く収まってしまう。小さな赤ん坊をあやす風に雲母を床に座らせ、彼は初めて錫杖を肩からずらした。僅かに金輪がぶつかって、妖猫のくるんと見開いた虹彩が大きさを変える。
 「ここで待って居てくれ。…おまえの大事な相棒は」
 一旦言葉を切った。莚戸【むしろど】をめくりながら雲母の方へ振りかえり、付け加える。
 「俺がちゃんと連れ戻して来るさ」
 「…ぃ」
 猫又は自身さえも聞き取れぬ声量でたった一声鳴いて、その場へちょこんと腰をおろした。



 昼間の温度を含んだまま夜を迎えた空気が、色濃い闇へと溶けてゆく。生あたたかさの中でちらちらと光る星が少し霞んで見えた――輪郭のぼやけた満月は、余りに眩しすぎた。法師の錫杖が時折奏でる音からも鋭さが抜け落ちていて、すぐにぼんやりと消えてしまう。
 何もかもが曖昧で夢とも幻ともつかない、静まりかえった村。そこを藍紫色【らんししょく】の法衣が裾をはためかせながら滑るように横切った。弥勒の足取りに迷いは無い。
 (水辺に、足を浸しにでも行ったか)
 珊瑚は手拭いを持って出かけたようだった。次の季節は目前だというのに、未だにねっとりと纏わりつく熱気に誰もが閉口させられているので無理もない。そして彼女の場合は、じとじと湧き上がる汗を洗い流す他に、恐らくもう一つ。
 水は、見る者聴く者触れる者…それを感じようとする者の気持ちを落ち着かせる。癒すと言い換えても良いくらいだ。大切なものを失い、心を抉られたばかりの娘はそこに惹かれたのだろう。
 (放っておくべきかもしれねえが、な)
 珊瑚は、皆と道行きを共にする様になってまだ日が浅い。そうなるに到った事の経緯は随分と複雑だし、彼女なりに色々と思う処も在るだろうと敢えて静観するだけに行動を留めていたが、気掛かりは気掛かりだ。心配、とも云う――あくまでも仲間として。生憎、それ以上の感情を彼は持ち合わせていない。 
 (あってたまるか)
 正直、掛け値無しに美しい娘だとは思うが、本当にそれだけだ。寧ろ、一行に定着しつつある女好きの体面を保つのにからかう相手に調度良い、その程度にしか思えない。…思わないようにしている。己の立場は自覚しているつもりだ。
 ――風穴。
 (それだけと謂やそれだけだが、それが俺の全てだ)
 一見ゆったりとした歩調を保ちながらも、弥勒は足が速い。今しがた外へ出たかと思えば、もう川へと繋がる山道へと差し掛かっている。じき、河辺へ着くだろう。
 万が一ここに居なければ次は何処を探したものか、取り留めも無く考えながら最後の坂を登りきる。珊瑚は――居た。
 曲【くせ】一つないみどりの髪が風に弄【なぶ】られ、弥勒は後姿のま新しい疵に息を呑む。引き攣れたまま白い素肌に浮かび上がる痕から、目が離せなくなった。
 彼の前に晒された其れは余りにも痛々しいのに、それでもかの娘はしゃんと背筋を伸ばして前を見据えて居る。強烈なまでの、存在感。
 弥勒が焦がれて惹かれて、止まないもの。なれど決して手には入らぬ…否【いいや】、入れようとはしなかったもの。まずい、と感ずる余裕があったかは知れないが、彼はひたすらに呆然と、木偶のように突っ立つしか出来なかった。
 少しして水から上がろうと思ったのだろう、珊瑚が肩越しにふりかえる。明らかに困惑が覗える声が落ちて、一瞬の間が開いた。
 「――済まない」
 心ここに在らず、いかにも取って付けた不自然な口調で法師が詫びる。
 夜が、人知れず動き始めた。







 近くから遠くから、昼にはそれこそ明瞭に輝いていた木々の生気が闇を吸い、褪せて彩度の低い利休色――りきゅういろ、と読んで緑色を帯びた灰色を指す――にくすみ、ざわりと撓【たわ】む。
 丸い月を透けるような翡翠が囲って、更に周りには鮮やかな碧瑠璃、【あお】、群青、紺葵【こんあおい】…、外へと互いに交じり合いながら形の無い螺旋を描いていた。
 上空からうす明るく照らされる穏やかな水の傍に、弥勒と珊瑚、別々の孤影が並ぶ。二人とも蒸し暑さの所為か心なしか頭の中がくらんで、手指の感覚だけが妙に冴えていた。無論、あの遭遇よりものちの事である。
 「背中を、どうした」
さほど高くはない頂きから腹へと吹きおろす山風が軽やかに通るのを合図に、普段よりも幾分低い声で短く、法師は尋いた。それは少しばかりためらっているが故の口調なのだろうかと珊瑚は理由もなく考え、間を置いて言葉を舌に乗せる。
 「…ああ。この傷を付けたのは、あたしの弟だよ。琥珀って、言うんだけどさ」
 弥勒は何も言わず、本当に黙りこくった――話の先を促そうとさえ。彼の態度は却って気に障らないので、退治屋は最後まで話して仕舞おうと思った。
 夜鶯【よるうぐいす】…小夜鳴き鳥、と呼ぶ方が分かり易いだろうが、とにかく何羽かが丁寧に囁いて、と同時に森が歌う。静まるのを待つと、こわっていた娘の肩から力が抜ける。
 「あたしたち退治屋が城に呼び出されたのは――知ってるよね。あの子は奈落に操られて、まず父上と皆を殺した」
 珊瑚は言葉の意味を上滑りさせ、事実のみを述べた。法師がこちらを見ているのが判っていたので、視線は合わせない。
 「……」
 今度は口を開こうとして、男は何故だか踏み留まった。しかし果たして何を言おうとして止めたのか、それは彼にも解らなくてやたらと苛立つ。法師の動揺は表情から読み取れぬ程にしか顔に出ていないのだが、娘もまた見かけだけは、あくまでも平然と話を続けた。
 「その後、勿論あたしにも向かって来た。その時のものだよ」
 多少のぎこちなさは自覚しながらも、珊瑚はそこまで云い終えて形だけは溜飲を下げ、水濡れた髪を掻き上げる。そこで初めて弥勒と視線が鉢合わせて、たっぷり三秒は見詰め合い――目を逸らしたのは彼女だけだった。彼はそのまま、眼光に危惧を接【つ】ぐ。
 「跡が、残らなければ良いが」
 いまいち抑揚が拭いきれていない声音から、法師が本心から云ってくれていると解る。それなのに、心底心配げな声はどうしてか吃驚する程心地よく耳朶に馴染んで、珊瑚は全くの無意識にこう呟いた。
 「あたしは……消えない方が良いな」
 「何?」
 すかさず反応した弥勒の声。怪訝そうに……正確には少し怒っていた。とんでもない事を口走って仕舞ったと珊瑚は今更の様に後悔するが、最早後の祭りである。仕方無しに唇で笑みを作って、使い古された陳腐な文句など述べてみる。
 「ほら、傷跡ってのは戦う者にとっちゃ勲章みたいなもんだ、って言うだろ?あたしには」
 「――珊瑚」
 ぴったりだ、そう云おうとしたのに思い切り遮られた。誤魔化した答【いら】えはきっちり見透かされているらしく、法師が押し殺したようにして呼んだ名はそれを咎めているのだろうか。
 『だろう』――これは愚問。どう考えても、間違いなく……だ。
 「っ…」
 吐息が薄く洩れる。保たない。観念した方が良さそうだ。
 「法師さま」
 すう、とゆっくり深呼吸をしてから心の声を音に変える。伝わるかどうか。
 「今夜の月、とても綺麗だと思わない?」
 珊瑚が顔【かんばせ】を上げた。瞳の縁が僅かに歪んでいてひどく心苦しげだと思ったが、弥勒は彼女の言葉への同意だけを返す。
 「ああ、見事な朧月――」
 「すごく綺麗な…、琥珀色だけどさ」
 娘の意図する処を完璧には掴みきれていない男は、先をどう謂うべきか迷う必要は無かった。代りに琥珀、という単語にどきりとさせられ、そして次の台詞には――胸倉あたりを鷲掴みに締め付けられる。
 「あんまり、綺麗過ぎて…なんだか幻みたいだよ」
 例えば、もう別の世へ行ってしまった人間の魂だとか輝きだとか。在る筈など無いもの達が寄り集まり、無造作に球を成す……儚すぎる、幻の月。
 (だから――逆なのか)
 弥勒は直感した。弟の名の色彩【いろ】をしたものが虚像であるなどと云う、その内心がどのようなものか彼には欠片さえも理解できなかろうが、それでも。
 珊瑚の言は決して、悲観的なものではないのだ。娘は唯一無二だった存在達の喪失を受け入れ、自らの足で前へ進もうと……明るさを希望を、言うなれば光りを冀【こいねが】い、手にするために此処にいる。そうでなければ、あんな曇りの無い瞳【め】が出来るものか。背筋を伸ばしていられるものか。
 弥勒がそこまで考えた頃に珊瑚はまた前に向き直りつつ、満月に手を伸ばしかけては口を開いた。
 「だからあたしは――」
 傷が消えない方がいいんだと言いかけて言葉に詰まる。男が立ち上がったからだ。娘は何も言わず、ぼんやりと彼の後ろ姿を眺めるが、法師は岸辺まで動いて立ち止まった。
 彼の足元、流水の上に黄味の薄れた蓮花色【はすはないろ】の月影が留まっている。法師はそれを、真上から突いた。錫杖は微塵もぶれはしない。
 ――しゃああん。
 しゃあん、しゃぁん、しゃん、しゃ、と法具の調べが次第に広がり、大気に溶けて消えた。さらやかな河がまろびながら波立ち、そして静まる。
 「珊瑚…良く、見なさい」
 いつしか玲瓏な水硝子に映り込む像は貫かれたままに揺らめきを正し、弥勒は力を込めて告げた。
 「あの月は、決して幻などではない」
 珊瑚はほんの少し、目を覚ましたばかりの時にするように息をつめる。そのうちに彼女は口の中だけでうん、と漏らしてゆっくりと返事を、感謝の意を続けた。
 「――ありがとう、法師さま」
 男は何も言わなかった。二人はただ、静かに月を見ている。







 法師は思う。日の出はいつだろうかと。
 一体いつ外へ出てきたのか、どれだけの間此処に居るのか、何一つ憶えて居ない――解らないのだ。だからこそ余計に。

 弥勒は思う。日の出は、いつだろうかと。