「大切なこと云うの、忘れてたわ」
「何だよ」
「あのね――」








初空に冴ゆ
uizora ni sayu







 …寒風に吐息が凍る。昼をまわったばかりの時刻にしては、陽射しが遠すぎるせいだ。樹の根元から続く影さえ霞んだようになって、境界線が曖昧に揺れる。どちらにも怠惰という言葉がやけに似つかわしい。
 (もう、何でこんなに寒いのよ…)
 冬枯れた景色の境内にローファーの靴音が突き刺さり、尻すぼみに消えてゆく。かじかんだ手を擦り合わせた後、日暮かごめは周囲をぐるりと見渡した。
 「あ、準備始まってる。急がなきゃ」 
 社務所のなか、水場の脇。そこかしこに人の姿が見てとれて、さして広くもない神社はどこか浮き足立っていた。いつもの眠りについたような雰囲気を知っているだけに、普段は感じない喧騒がいつになく近い。
 (そりゃそうよね、だって今日は大晦日だもの)
 セーラー服の少女はくすりと笑みを漏らして、通い慣れた石畳を急ぐ――。







 挨拶もそこそこにかごめが暖かい台所へ飛び込むと、しばらくぶりに見る家族に迎えられた。祖父は早々と本殿に出向いていなかったが、そういう気の早さは何ともあの人らしい。
 「――それで、わざわざ手伝いに帰ってきてくれたの?」
 遅めの昼餉を用意しながら母が尋ねると、勿論よと娘が返す。淹れたての日本茶をゆっくりと飲み下しながら、かごめはぬくぬくと体を温めていた。
 「やっぱり人手は多いほうがいいかと思って」
 …大抵のことは祖父一人の手で事足りてしまうような日暮神社だが、大晦日という今日ばかりはそうもいかない。
 ごったがえすという程ではないものの、多くの人々が新年を祝いに足を運ぶ。だから毎年この日に合わせ、既に隠居している祖父の神主仲間や神女【しんにょ】役の年頃の女性を幾人か雇い入れているのだ。
 そういう訳だから、かごめも二年前――中学に上がった頃から彼女たちの先頭に立って雑務をとりしきっている。云うなれば、俄か仕立ての巫女頭だ。
 「そう。毎年悪いわね、かごめ」
 「ううん、慣れれば結構面白いし」
 おっとりと首を傾げる母に、かごめは笑って答えてみせる。本心は本心だが、それとは別にちくりとどこかが痛んだ。
 たわいない話をしながら、三人で食事をとる。腹がくちくなったのを感じながら、かごめは口を開いた。
 「そうだママ、あたしの分の衣装、出してもらえる?そろそろ着替えないとまずいし」
 「じゃあ、ちょっと待っててね」
 云い置いた母が立ち上がると、草太が傍へ寄ってきた。いやな予感がしたかごめは思わず身を引くが、彼は気付いた風もなくこう尋ねる。
 「ねーちゃん、犬のにーちゃんは来ないの?」
 …相変わらず、痛いところを突いてくる弟だ。とはいえ彼を責めてどうなるものでもなく、素知らぬふりで姉は言葉を投げ返した。
 「当ったり前でしょ、あいつが居たら邪魔ばっかりで仕事にならないじゃないの」 
 「まぁた喧嘩したんだ」
 「してないわよ」
 ふうん、と草太の胡乱な調子の生返事が耳に響く。これ以上の追求を避けるように、かごめは慌てて言葉を継いだ。
 「いいから、あんたも早く食べちゃいなさい。片付けられないでしょ」
 空になった食器をひいて、スポンジを握って。水温を熱めに調節すると、少女は無心に手を動かした。手つきが些か乱暴だったか、かちゃんと深皿どうしが触れ合う。
 …もし今涙ぐんでいるとしても、傍目には湯気で判らないだろう。
 (喧嘩なんかじゃないわ)
 そう、思いたかった。


 「――んもう…さっき説明したじゃない、今日はあたしの国の年越しだって。うちは神社だから年末年始色々大変だし、一晩だけあっちに帰りたいの。明日のお昼までに戻ってくるし、そもそも明後日まで楓ばあちゃんの村にいるんでしょ?」

 「帰るなとは誰も云ってねーだろ。どうして俺があっちに行っちゃまずいのか、それ云ってから行けっつってるだけだろーが。…理由【わけ】は云わねえ、でも来るな?納得いかねえぞ」

 「あのねー、あたしにだって事情ってものがあるの。ちゃんと明日には帰ってくるから、こっちで大人しくしてて?」

 「どうしてお前の事情とやらのせいで、俺がないがしろにされんだよ?いーから云ってけ」

 「だから、こっちにも色々――って、もういいわ。とにかく、あたし帰るから。絶対来ないでよね!いい!?」

 「…あーそうかよ。だったら勝手にしろ!泣いて頼んだって俺は迎えにゃ行かねーからな!」 



 ほんの少し前の――本当に数時間前のやりとりだ。はっきり憶えているのに、ひどく現実味がなかった。







 ぼおん、ぼおん、ぼおん。――居間の壁掛け時計が三時を打つ。
 家の中から外の天気をうかがってみると、帰ってきたときよりも空が明るく見える。この分なら、少しは気温も上がっているかもしれない。
 戻ってきた母から装束を一式受けとって、かごめは台所を出る。その足で部屋へと向かうと、草太が後ろを追うようについてきた。とたとたとた、姉の足音に半拍送れて弟の足音が続く。
 「ねーちゃん、喧嘩してないなんて嘘だろ」
 不意打ちだった。揶揄するような草太の声音に、かごめの反応が一瞬遅れる。
 「…何でそんな事判るのよ」 
 「だってにーちゃんが来ないのって、ねーちゃんと喧嘩してる時だけだもん」
 「――だから、してないってば。今回は来られちゃ困るの」 
 「何でさ。にーちゃん力持ちだから助かるのに」
 階段を上りきったところまで来たというのに、それでも弟はなお食い下がろうとする。いい加減にしてくれと云わんばかりに、姉の苛ついた口調が返った。
 「あのね。あたしが云いたいのはそういう事じゃなくって――!」
 危ういところでまできて、漸くかごめははっとした。訝しげな様子の草太を見ないようにしながら、呼吸【いき】を整える。
 「と…にかく。あたしと犬夜叉は喧嘩なんかしてないし、今日は来ないの。いい?」 
 勢いよくまくし立てて、姉はいつの間にか部屋に入り込んでいた弟を外へ追いやった。変なねーちゃん、と草太がこぼしたのが薄っぺらい扉ごしに聞こえ、続いて階段を下りてゆく音がする。
 気配が完全に途切れたのを確かめて、かごめはドアに凭【もた】れ掛かったままずるずると座り込んだ。そのまま、洗いたての水干に顔を埋【うず】める。
 犬夜叉にも、草太にも――誰にも。
 「どうしてなんて、云える訳ないじゃない…」
 (あたしが巫女装束【こんなの】着てるところ、犬夜叉に見られたくないなんて――)
 下唇を噛んだまますっくと立ち上がる。大きく深呼吸をして、かごめは制服のスカーフを一気に引き抜いた。



 鮮やかな緋袴に、白衣【びゃくえ】。元結を手に鏡の前に座った少女は思わず視線をそらした。
 (似てるって思ったこと、無かったけど。でも…)
 曲がりなりにも自分はかの女性【ひと】の生まれ変わりだそうだから、多少なりとも近しい顔立ちをしているのかもしれない。けれど自らの幼い面差しとあの気高くて静謐【せいひつ】な美貌との間に、似通った部分のある筈はない――かごめ自身はそう思っている。
 しかし身に纏うものが変わったからか、巫女の残像が脳裏にちらついて離れない。胸がひどく苦しいのだ。
 ――この姿に彼は何を思う――
 太陽がまた少し傾いたようだった。茜がかった黄金【きん】色の日差しが天井に広がり、泣きたいような気分にさせる。窓ガラスの上で蛍光灯の光が跳ね、万華鏡のように僅かずつ揺れ動く精彩【いろ】に耀いていた。
 (…大丈夫、犬夜叉は来ないわ)
 おもむろに、真っ直ぐな視線を虚【うつ】ろの中に投げかけてみる。鏡面に指先きを伸ばせばひやりと冷たく、凛としたものが皮の上を走った。
 「あたしは、あたしよ」
 嘘ではない。けれど本当なのかと鏡の中の空蝉が尋ね、そしてたゆたう。ドレッサーから顔を背け、かごめは小さく微笑ってみた。不穏な影と共に過【よ】ぎった問いを打ち消すように、頬を叩【はた】いて部屋を出る。
 「ママー、何か手伝うこと、ある?」
 もし犬夜叉に見られたとして、そのとき自分は何を思うのか…胸に巣食った考えには蓋をして、少女は階下へ声をかけた。
 もう直ぐ年が改まる。しんしんと夜の弥増【いやま】す、特別な宴のその後に。







 ――夜が忍び寄る。
 とびきり澄んだ天【そら】が夕闇に侵食されて、じわりじわりと崩れはじめていた。樹のまたに寝そべった少年の真珠色の髪【くし】がまばゆく白んで流される。目の前の枯れ井戸さえも荒涼として見えて、どこか淋しかった。
 焔【ほむら】を思わす赫【あか】の衣が周囲と馴染まないようで、少し落ち着かない。宛てども無くさまよっている寒々しい浮き雲になぜだか自らの想いを重ねたくなり、犬夜叉は浅い溜め息を疾風【かぜ】に乗せた。
 「けっ、馬鹿馬鹿しい」
 ――口にする前からそれは嘘でしかない、そんな言葉だ。
 (言葉、か)
 『てすと』に、『もし』。単語の羅列を目の前に並べ立てて、かごめはいつも帰っていく。
 それが彼にはさっぱり判らないものだと気付いているだろうに、彼女は必ず告げるのだ――それが帰ってくると誓っているようだと思ったのは、一体いつだったか。きゅ、と犬夜叉の眉に皺がよる。
 (拘りすぎてんのかもしれねえ)
 来られたくない理由など、考えれば様々にある。気にすることはないのかもしれない。それでも、儀式のように繰り返される言葉たちに、少年は確かに深い安堵を憶えていたのだ。
 (顔が見たい)
 …無性に会いたいと、そう思う。
 ほんの少しだけだ。遠くからひとめ、顔を見て…そうしたら帰ろう。
 「行くか」 
 会えると思った途端、心の澱【おり】が緩んでゆく。我ながら単純だ。口の端を少しあげて、犬夜叉はごつごつした木肌を蹴り上げた。
 残るのは――たぁん、と小気味良い跳躍。







 絶え間なく落ちる足音に、さんざめく人の声。すらりとした弓張月【ゆみはりづき】と、誘い惑わす宵宮の匂い…。輪郭もおぼろげに、あるがなきかの郷愁が胸を衝く。
 「凄まじいな、こりゃあ」
 井戸の抜けた犬夜叉が最初に見たのは、常からは想像もつかない人いきれの塊だった。その騒々しさに、思わずくらりと酩酊したような感覚を憶える。それともう一つ、ごごうと吹き抜ける木枯らしのなか、何が楽しいのかひっきりなしに笑いあう気配が伝わってきて――欲するものを、心が痛切に訴えた。
 「…たく」
 (どこに居やがるんだ、あいつは)
 いつものように彼女の匂いを辿ってみるのだが、どこにも行き着かない。根気良く探してみるも、ものの数分で眩暈【めまい】に襲われて閉口していた。耳も鼻も良い彼にごみごみした空気は些か辛すぎ、まあ愚痴の一つもこぼしたくなるものだ。
 とりあえず手近な古木【こぼく】に避難をきめこみ、そこから少女の俤【おもかげ】が見つからないか目を凝らしてみる。すると、薄墨のかかったような夜色【よいろ】の中を真白い影が横切ってゆくのに、犬夜叉の視線が止まった。よくよく見ると、若い女だ…それなら。
 (ありゃあ…巫女の上衣【うわえ】だな)
 ――ああそうだ、かごめもあれを纏っているのじゃなかろうか――
 脈絡もなくふと思ったのだが、意外に的を射た考えかもしれない。ここは彼女の実家で、彼女は手伝いをするといって帰っていったのだから、あながち在りえない話でもなかろう。
 「やってみるか」
 一種の賭けではあったが、すっかり馬鹿になってしまったこの鼻を頼るよりよほど正確だ。現に、今までそれで探していても見つからなかったのだし。
 見つけた影を見失わぬよう、上空から追う。裸の木から樹へと飛び移る度、風【かざ】斬りのように袖が揺れる。…賭けには、勝ったようだった。
 「かごめ…」
 本殿の脇に台がしつらえてあり、周りに巫【かんなぎ】すがたの娘たちが幾人も見て取れる。皆がせわしなく働いている中で、かごめの容姿は一際に匂い立っていた。
 色白のかんばせと黒目がちの眸【ひとみ】に、袴の小紅【こべに】が美しい。ふわりと優しげに微笑んだかと思えば、荘厳ささえ漂わせて唇を引き結ぶ。全く、どれだけの表情を【かお】を隠しているのやら、見当も付かない――。
 鈍色【にびいろ】の靄がかかったように暗く沈んで、宵がその濃度をだんだんと深めていた。幻路に迷いこんだような錯覚に色めき立つ人々の心中を察してか、辺り一帯に明かりが点される。云いようのない光景に、わあとほうぼうから感嘆があがった。
 ほの暗い夜闇の始まりを提灯の橙がぼうと染め上げて、螺旋の形を取って流れる。社【やしろ】を照らす松明が音もなく爆【は】ぜ、青白い燐光がなまめかしく揺れた。
 暖と、寒。相対する色みの炎【ほのお】にあぶられて、かごめの全身が鮮やかに浮かび上がる。結われた髪がつるりと煌めき、ながい睫毛が繊細に影を造るさまを、犬夜叉は確かに見た。
 (…目が、離せねえ)
 こんなにも自分は惹かれて、そして焦がれてやまないのだ――移りゆく少女の横顔を、樹上の少年は飽きることなく見つめつづけていた。
  






 「犬のにーちゃ―ん!」 
 「んわ”っ!!」
 足元から呼びかけられて、犬夜叉は一気に我に返った。ここがどこかという事も忘れて身じろぎしかけ――その体躯がぐらりと傾【かし】ぐ。うわっ、と遥か下方で悲鳴が聞こえた。
 (草太か、おどかしやがって)
 うろたえたのは初めだけ。少年は器用に安定を取り戻し、改めてぐるりと一瞥をくれた。とうに暗【やみ】と沈んだ景色にようやっと、何故自分がこうしているかに思い当たる。何のことはない、要するに今までかごめの姿に見惚れてぼんやりしていたわけだ。
 己の女々しさに呆れかえりつつ、犬夜叉は軽く身を躍らせた。内心を悟られぬよう、草太の前に降り立ちざまに短く問う。
 「何か用か」
 「いや、ねーちゃんから来ないって訊いてたのに、こんなとこで何してんのかと思って――あっ、ひょっとして手伝いにきてくれたんだ!?じーちゃーんっ、犬のにーちゃん来てくれたよー!!」
 「え”。」
 …どうしてそうも話が飛躍するのか。そうは思うのだが、弁解しようにも口を挟む隙がない。あっけにとられた彼には、気の抜けた呟きを落とすのがせいぜいだ。
 「それは在り難い。ええと、まずはこっちじゃ。草太も一緒に来い」
 「はーい。じゃ行くよ、にーちゃん」
 孫息子の声に、およそ老人らしくない足の速さで彼の祖父がとんで来る。有無を言わせず、二人は犬夜叉を社務所の裏に引きずりこんだ。
 「ちょ、ちょっと待てっ…!」
 精一杯の少年の抗議はどうやら、誰の耳にも届かなかったようだった――。



 「もう良いぞ、ご苦労じゃったな」 
 夜も半ばを回り年もじき変わろうという時刻を迎え、その一言で漸く少年は解放される。
 彼は人に酔い易い性質【たち】だ。力仕事は屁でもないが、こういう人ごみの中にいるのは最早苦行に近かった。
 頭の中がやけに気怠くて重たい。ものを考える気力すらも残っていないので、とりあえずふらふらと辺りをうろついてみる。とそこへ――。
 「い、犬夜叉!?何でこんな処に――」
 果たして頃合が良いのか悪いのか。犬夜叉の行く手に、吃驚【びっくり】したふうにかごめが立ち竦んでいる。心底疲れたようなうんざりした様子で、彼は無造作に歩を進めた。
 「おめーんとこのじじいに手伝わされてたんだよ…っと、ちょっと来い、かごめ」
 「厭【いや】よ、まだ仕事あるもの」
 きっぱり云い切り、少女はつんと頚【くび】を廻す。あからさまに渋るかごめの態度は妙に頑【かたく】なで、どうにも気にかかった。
 「どうして?そんなこと云わずに行ってらっしゃいな」
 彼にとっての助け舟は、意外な処から出た。彼女の母が盆に食物を山ほど載せて通りかかったのだ。 
 …多分これで決まりだろう。何せ自分もかごめもこの女性【ひと】には、逆立ちしたってかなわないのだから。
 「かごめ、あなたずっと働きどおしでしょう?こっちはいいから、少し休憩も兼ねて、ね」 
 「なっ、ママ!!」
 「じゃ、借りてくぜ」
 後押しするような言に力を得て、犬夜叉がひょいとかごめを持ち上げた。荷物のようなぞんざいな担ぎ方は正直、不安定なことおびただしい。危なっかしい体勢にきゃあと娘の悲鳴が沸くが、一部始終を眺めていた婦人はにこにこと咎めるでもなかった。
 「風邪ひかないようにね」
 巫女姿の少女を肩に乗せて狩衣を翻した少年を、彼女の母は穏やかに笑って見送った。






 境内の裏手、幾分か静かに思える母家を少年はまっすぐに目指す。大股で住居のまた裏――かごめの部屋の方角で景色もすこぶる良く、犬夜叉の数少ない気に入りの場所なのだが――へと向かう彼の上でじたばたと暴れながら、ほとんど喧嘩腰にかごめが叫んだ。
 「ちょっと。降ろしなさいよ、犬夜叉の莫迦【ばか】っ!」
 「降ろしたら逃げるだろうが、お前」
 …その危惧は図星だったようで、もがき続けていた少女の四肢がぴたりと大人しくなる。ばつの悪さを誤魔化すためか、かごめは話をはぐらかした。
 「じ、じゃあ!どうしてこっちに来てるのよ?」
 「…かごめの顔が見たくなったんだよ。文句あっか」
 照れくさそうに、殊更【ことさら】ぶっきらぼうな口調で彼が云う。彼女は一瞬きょとんとまあるい瞳【め】を見開いて、次に嬉しそうに表情を綻ばせた。さっきまで振り回していた両手を彼の首と背中に回し、そうして柔らかい声で囁くように告げてみる。
 「――ね。逃げたりしないから、降ろしてくれない」
 「その言葉、覚えとけよ」
 声がしたと思ったときにはもう、かごめの足は地に着いていた。余りに軽くて、降ろされた時の感触が残っていない。不思議な感覚にぼんやりとしていると、くしゅんと鼻が鳴る。
 「着てろ」
 ばさりと犬夜叉の衣が降ってくるのと、彼がそう呟くのと。一体どちらが先だったのだろう――やはり不思議だ。
 「…ありがと」
 云って上着にかごめがもそもそと袖を通すのを見届け、犬夜叉はその場に座り込んだ。それに倣い、少女も少年の隣にちょこなんと腰を下ろす。
 昼間の薄曇りが嘘のような天気の、視界いっぱいに星の瞬きが広がる。いつもは煤に汚れたはずの空がどうしてか今日は透き通り、純絹【きぬ】のように滑らかに横たわっていた。
 身震いさえも億劫な鋭い寒さが、不思議に快い。吐息がほわりほわりと闇夜に優しく映えて、昂ぶった気分を鎮めながら霧散する。
 「どうして、今日は来るなっつったんだ」
 抑揚のない犬夜叉の物言いが、かごめの心をやけに刺した。どう足掻【あが】いた処で、ひたと据えられた琥珀色の眼に嘘などつけない自分を、彼女は知っている。知られたくないだとか、もうそういう事ではなくて。
 「…怖かったのよ」
 ぽつりと漏らされた台詞に、少年は聞きかえしそうになるのを踏みとどまる。語尾が微かに震えていたようで、それをする気にはなれなかったので。 
 「もしあんたがあたしを見て、桔梗だって思ったら…どうしようって」
 「俺のことを気遣ってくれたのか?」 
 思いがけない言葉に些か戸惑いながら訊くと、かごめは小さく俯【うつむ】いた。犬夜叉が華奢な肩を引き寄せてやると、少女は存外抵抗もせずそれを受け入れる。
 「――判らないの。あたしの所為で犬夜叉が桔梗を思い出して疵【きず】付くのは厭よ、本当にいや。でも多分…あたしも厭だったのよ。一瞬だって、桔梗と間違われたくなかったんだと思う」
 …力ない独白だった。勝手なこと云ってごねんね、と続けてかごめが呟く。最後の台詞が、却って痛々しく犬夜叉の耳朶【じだ】に響いて翳【かす】んだ。
 (俺の…所為だ)
 快活で、前向きで。少女の芯の強さに、密かに少年は憧れていた。だから気付けなかった。きっと気付こうともしなかったのだ。かごめの弱さ――こんなにも脆い感情を秘めていたことに。
 (ったく、情けねえ)
 いとおしいと思う気持ちなら誰にも負けない、けれど愚かしい程に不甲斐無い――自分はどこかちぐはぐで、だから彼女を苦しめてしまうのだ。このままではいけない。
 「…あのな、かごめ。さっきも云ったが、俺はお前に会いたくてこっちに来たんだ。格好がいつもと違ってようが、見間違うわきゃねえさ。…お前はお前だろ」
 こく、とかごめが頷く。身じろぎもせず聞き入っている彼女の眼に、いつものしなやかさがゆるゆると立ちのぼっているのに、彼は気付いた。偽りのない想いは、どこまで伝わるだろう…いや、伝えられるだろうか。
 「だから、かごめはかごめらしくしてりゃいいんだ。――下らねえことを気に病むな」
 「…うん」
 「それとな、ついでだから云っとくが」
 「――え?」
 珍しく矢継ぎ早に繰り出された言に、かごめの視線が注がれた。対する犬夜叉は聞こえよがしな咳払いを、一つ。
 「俺は、どっちかっつーと――どうしてお前が黙って帰っちまったのかが気になってた。帰る理由とか、そういう事は必ず話して帰るだろ」
 「そう…かも」
 過去の記憶を辿って考え込み、やや上の空な調子でかごめが呟く。
 「だから正直――あれだ、その」
 しどろもどろな口調から少年が黙り込む。掠れて途切れた声の代りか、唇がゆっくりと開いて犬夜叉の想いを紡ぎだす。
 …寂しかった。声無き声がそう語るのをかごめは見逃さなかった。
 「そ、か。話してくれてありがとね、犬夜叉」
 「…おう」
 「あたしも、聞いてもらってすっきりしたわ。――あ、顔真っ赤になってる」
 「るせ」
 ふふ、と毒気の抜けきった面【おもて】で少女が声を上げる。そっぽを向いた少年はいかにもむず痒そうに、豊かな銀髪を思い切り掻きまわした。







 ややあって、何かと人の声が絶えなかった境内に静寂が訪れたようだ。しんと音の失せた気配と、その中のさわさわとした期待の波が伝わってくる。新たな年との節目は、もうそこに迫っていた。
 眼下に映る街の明かりが幾分前から数を減らしていることに気付き、かごめが小さく声を上げる。
 「そろそろカウントダウンかな…今ちょうど一分前よ」
 「どうして判るんだ?」
 屈託のない疑問に、くすりとかごめが微笑みを見せた。何の憂いもない口調で、問いに答える。
 「ほらあっち、小さく光ってるの、見える?あれ時計になってて、ゼロ…こういう丸みたいなのになったら年明けよ」
 「へえ」 
 一箇所だけつつましく光をかざす電光板を眺めやり、犬夜叉は無感動に相槌を打つ。普段ならばその頓着のなさにかごめが激怒するところだ。はしゃぐ余りに、少女はそれすら聞き漏らしているのかもしれない。
 「今ちょっと暗くなってるでしょ?だから、年明けの瞬間のイルミネーションがすごく綺麗なの…滅多に見られないんだから。よく見てなさいよ!」
 云うとおり、今は光源らしい光源もない。それでも、息せき切って喋るかごめの口唇がなまめかしく艶を帯びたさまがはっきりと見て取れて、犬夜叉の胸をざわつかせた。やたらに夜目が効くというのもどうなのやら…思いながらそろそろと目を逸らす。
 けれど気付けば、少年のくいいるような視線は再び少女の方を向いていた。一方のかごめは夜闇のほうにばかり注意が向いているようで、彼に見詰められているなどと考えもしないだろう。
 (まったく、人の気も知らねえで)
 口にださずにこぼして、ふっと目を細める。気付かれないことのもどかしさと、それを密かに有難がっている己が奇妙に交錯する。――さて。
 不意に、すっかり冷たくなってしまった指先を少女が触れ合わせてきた。無骨な拳【こぶし】をきゅっと握り締めて囁くその響きが、せつなくていとしい。
 「5,4,3,2、1、ゼ…」
 吐息のような最後の声は唇に飲み込まれ、彼の中へと永遠に消える。



 瞼ごしの光りの洪水と沸き起こる歓声が驚くほど遠い――犬夜叉の顔に視界を塞がれ、その腕【かいな】の傍でぼんやりとかごめは思う。彼に口付けられている所為だと頭を巡らせるのに、何故だかずいぶんかかってしまった。
 繋いだ手がゆるゆると解【ほど】かれて腰に回る。體【からだ】ごと引き寄せられ、今更のように顎をとられた。しがみ付くように彼女が彼の胸襟に指をかけると、途端にぬるりとなま温かい感触がする。
 「…ん」
 くちゅ、と甘ったるく離れた歯列【しれつ】の隙間を割って、かごめの嬌声が夜のしじまに吸い込まれた。うっすらと目を開くと憑かれたような黄玉【おうぎょく】の眼とまともにぶつかって、更に深く絡めとられる。
 「――っ」
 どちらのものともつかない吐息が交じり合いながら頬を撫でてゆく。漂うような陶酔感に、いつしか息苦しさは忘れていた――。







 興奮冷め遣らぬ様子で境内が賑わい、きらきらしたと明るさが辺り一面に広がる。誰もが喜びの表情を顕わにする中、一人憮然として少女が呟いた。
 「――あんた、人の話聞いてた?向こう見てって云ったのよ、あたしは」
 「ああ?んなもん、俺の勝手だろ」
 そんな風に言い捨てられると、どう返していいものやら。呆れかえってかごめは小さく溜め息をついた。本当は彼の犬の型をした耳は熱を持っていたのだけれど、彼女は知らない。
 「もう…ほんとにデリカシーってもんが無いんだから」
 「けっ」
 互いに聞き慣れた台詞が口を突く。却ってほっとする温【ぬく】さがもたらされ、手触りの良い予感が静かに胸を貫いた。…こうしてずっと、笑いあっていられるような。 
 少し離れたところから、騒音に混じって自分達を呼ぶ声が微かに聞こえた。子供の影が跳ねるように駆けてくる。その後ろには別の二つの人影が薄っすらと見えた。
 「…草太達だわ。戻ろっか、犬夜叉」
 「だな」
 すっかり重くなった腰を上げ、二人は並んで歩き出す。数歩進んで、思い出したかのようにかごめが足を止めた。つられて立ち止まる犬夜叉の顔を見上げると、彼女は一つ瞬【まばた】きをする。
 「まだ云ってなかったわね、大事なこと」
 「大事な事、って…まだ何かあんのか?」
 「そうじゃなくって」

 「――あけましておめでとう。今年もよろしくね」
 それは、とても大切な。







 いつだって遠回りしてしまう、つたない言葉。浅はかでどこか醜い、たくさんの想い。いつだって止めきれず溢れる、独り善がりな恋情も…幼い自分自身すべてをひっくるめると、その先には何が視【み】えるだろう。
 答えは心の裡【うち】にしかなく、儚くて見失いやすい。…だからきっと祝うのだ。何もかもがまっさらに溶ける、その刹那を。
 どうか今一度、ありのままの自分に還れるよう――初空【ういぞら】に、冴ゆ。