…望みがある。
 始まりも終わりも、すべての想いはそこへと還る。
 だから、約束を――。







約束
yakusoku








 草木も眠る丑三つどき、濃密な紺の中で星屑が瞬く。限界まで高く昇り詰めた宵闇月が、きんと冷えた風をそこらじゅうに張り巡らせて居た。
しかしながらその糸も、意外にあえかな月明かりも、とかく外界の全てを拒絶する一角が存在する。
どろどろとした物が蠢【うごめ】く様な鈍く錆びた輝きに包まれた其処は、恨・憎・怒・哀…全ての負の感情を混ぜ合わせて造り出されて居た。瘴気、と呼ばれる代物である。
 それなりの力を持った妖ならいざ知らず、人間にはほんの一瞬耐える事さえ不可能な物質の染み込んだ暗黒の城は、なかなか如何して立派な造りをして居る。
一国の領主が住まうに相応しい程の物であるのに、居るのは無数の骸骨ばかりでそれはいかにも不釣り合いであった。物言わぬ骸骨の纏いし着物の仕立ての良さも又同様で、それらが嘗て此処の家臣だった過去を如実に示して居る。
一切の光は届かず、それが故に慰【なぐさ】み程度のちっぽけな燭【ともしび】の置かれた内部の気味悪さと言ったらなかった。全く、この様な場所を産み出した者の顔が見てみたいものである。
 果たして其の人物は、瘴気なぞ無いかの如き涼しげな…と言うには些か顰【しか】めしいが、それにしても別にどうという事も無さそうな表情で城の最奥にて暝目して居るのだからなかなかに腹の立つ話ではあった。一目でそれとわかる高価な衣裳に身を包んだ男は緩く捻【ねじ】くれた長い闇色の髪を肩からその広い背へと流しては身じろぎもしない。
 随分と端正な顔立ちであるのは間違い無いのだが、今は閉じられて居る切長の眼は恐ろしく醜い色で彩られて居る。名を奈落と言ったか、彼は半妖であった。
 どれ位そうして居ただろう、奈落は不意に眼を薄く開いてやはり微動だにもせずにたった一言呟く。正確に言えば少々違うのだが、其れは彼の癖とも言えた。
 「神楽…。」
 「呼んだかい、奈落。」
 即座に返って来たのは向こうっ気の強そうな女の声。其の後に簾【みす】が擦れる音がして、女――神楽が其の姿を見せる。
 幾重にも重ねた着物は各々が色鮮やかで、彼女の白い肌に良く合って居た。瞳は形の良い唇に乗せた紅と同じ色を宿して居たが、一点の光もなく底を見通せない。
高く結い上げた髪にさした神楽自身の性【さが】の象徴である白羽が周りの黒にあてられたか俯【うつむ】いて居たが、其れにしても彼女は美しかった。しかし、奈落は神楽に構う事無くあくまでも淡々と物を言う。
 「儂は明日、体の組み換えをする。結界が弱まって犬夜叉が臭いを嗅ぎ付けてこんとも限らん。足止めてこい。」
 この言葉に内心神楽は小躍りした。特にこれといってする事もないままにこの陰気な城で過ごす事にいい加減うんざりして居た彼女にしてみれば願ったり叶ったりである。加えて足止めという事はつまり、奈落を倒せるやもしれぬ犬夜叉を殺す必要はないのだ、彼からの解放を強く望む神楽にはこれも好都合であった。
 とまあ、此処までは良かったのだが、思いがけぬ一石二鳥に気を良くしたのがまずかったらしい。ほんの冗談の筈だった一言が思いもよらぬ展開をもたらした。
 「ふうん。ついでに四魂のかけらもぶん取ってきてやろうか?」
 「それと、かごめを生け捕ってこい。」
 「待てよ、確かにかごめの破魔の矢は厄介な代物だ。けど殺せばそれで済むだろう?」
 流石に混乱したのか、神楽の発言に支離滅裂の感が有るのは否めない。しかし奈落は気にも留めず話を進める。己の言いたい事だけを言う、彼はそういう男だった。
 「忌々しい鬼蜘蛛…いや、無双の意識が、外に出た時見た女を連れてこいなどと姦【かしま】しいのだ。まあ、それを抜きにしてもあの女には利用価値があるが。」
 全くその通りだった。奈落の核と成って居る人間の鬼蜘蛛は外界に放り出され、一時的にではあるが袂を分かった事がある。その時に犬夜叉一行に遭遇し、彼の想い人であった桔梗の生まれ変わりであるかごめを目にして、殆ど無意識の内に彼女を手に入れようとして居たのだった。
 無双が桔梗の復活の事実を知らず、尚且【なおか】つかごめの存在を記憶して居るのなら其の要求も無理からぬ物である。
 そしてかごめ自身についても同様だった。彼女さえ手に入れて仕舞えれば、犬夜叉を斃【たお】す事など造作も無いだろう。奈落は其れを望んで居るが、神楽は彼の分身であるにも関わらず――否、だからこそかも知れないが――其れだけは御免被【こうむ】りたかった。
 (冗談じゃないよ)
 何者かが奈落を滅ぼさぬ限り神楽に自由は無いのだ、此処で消えられては困る。
 他力本願と言われれば返す言葉も無いが、心臓という最大の弱点を握られて居ては手も足も出せないのだから仕方が無かった。
 「だけど、幾等何でもあたしと雑魚共だけじゃ…。」
 一切の懸念は口にしなかったが、今言った言葉も又事実である。単なる足止めならまだしも、かごめを奪うとなるとこれはそうそうの戦力でなければ出来るものではなかろう。
 咄嗟に思い付いたにしては良い出来だったが、それで逃れられる程奈落は甘く無い様だ。或いは、彼は彼女の言をある程度予想して居たのかも知れないが。
 「無双を付けてやる。あ奴が居ると変化に集中出来んのでな。」
 神楽は我が耳を疑った。必要だからとわざわざ自ら出向いて取り込んだ物を再び分けようかと言うのだから当たり前である。だが、付け入る隙は其処しか無いと直感的に感じ取った神楽は再度の反論を試みるが、余程慌てて居たのだろう、自ら墓穴を掘る結果を生んで仕舞った。
 「おい、彼奴【あいつ】は未だ必要なんだろう?それに、弱点が心臓だって事を犬夜叉は知ってるんだ、何の役にも立ちゃしない…。」
 悪寒が走って、最後まで言葉が告げない。思わず息を呑んだ。
 (まさか)
 そのまさかである。 けだるそうにして居た奈落の眼がいかにも愉しそうに嗤【わら】った。片手を静かに神楽に向けて翳【かざ】すと、彼女は僅かに後退ったらしい。小さな音がした。
 (愚かなものだ)
 思いながら掌に赫く脈打つ物を押し出す。神楽の顔は見えないが、元々色白の顔は恐らく色を失って居るだろう。
 「無論」
 奈落は短く言った。
 伸ばされた手の影に成って、神楽には奈落の表情が見えない。
それでも尚いたぶり足りないのか、彼は見せ付ける様にゆっくりと手の物を体内に戻した。次に言った言葉に含まれたのは果たして嘲りかどうか。
 「心臓は儂が握って置く。それで充分であろう?」
 そう、充分であった。心臓さえなければ、無双は無限の再生能力を持つ。かと思えば彼の行動を制御する事も出来るのだ、充分どころかこれ以上の良策は無いだろう。
 (ちくしょう)
 神楽は彼に気付かれぬ様歯噛みする。万事休す、こうなっては従うしか無い。従わねば、待つのは死のみだ。
 「分かったよ、言う通りにすりゃいいんだろ?」
 くるりと背を向けて吐き棄てると、低い満足げな声が耳に入る。
 「そういう事だ…。」
 風刃の一つも見舞ってやりたいのをぐっとこらえて居ると今更と言った風に声が追って来た。
 「出立は明朝だ。」
神楽は荒々しく簾を潜る。







なだらかだったり急だったりと其の傾斜は様々ながらも、稜線はどこまでも続いて限りが無い。偶然に偶然を重ねて出来上がった畝【うね】を、未だ半分ほどしか姿を現して居ない焔【ほむら】の球が照らしては描き出して居た。
闇色は既に形【なり】を潜めていたが、菫色を基調とした色調変化【グラデーション】に続く橙はまだ少ない。
朝を向かえても張り詰め、凍ったままの空気で肌が裂けそうに感じるのは季節が初冬に入った証拠だろう。
けれど巨大な羽根の上の神楽の眉根が寄せられて見えるのは断じて其の所為では無い。むしろその程度の鋭さがある方が良かった。
正直な話、なまじ温【ぬる】い位ならばとことんまで冷えて居る方がまだましだというのが彼女の持論である。では実際はどうかといざ引き比べてみれば其の落差は大きいが、今この時に於いてはどうでも良い事だ。
それで結局、何が神楽を苛立たせて居るかと言うと、彼女の直ぐ後ろを図体ばかりは大きな雑魚妖怪に抱えられて着いて来る無双の存在であったりする。どちらかと言えば存在そのものより彼の言葉に腹が立つのだが、其処はこだわるべき箇所では無かった。
其れは己に問うたのか独り言か未だに判断が付かないが、何にせよ耳に入って来るだけで吐き気がしたのだから恐ろしい。半刻もすればおさまるかと思いきや、一向に其の気配は無いのだから困ったものだ。
話は一刻程前に遡るか、穹【そら】が白み出したのを合図に城を後にして直ぐかそこらだった様に思う。それまで無言だった無双が突然堰を切ったかの如く滔滔と語り出したのだった。
「御前確か、神楽とか言ったな、奈落の糞野郎が言ってたが、あの女が桔梗の生まれ変わりだって話、嘘じゃ無えだろうな?」
「…?あ、ああ…。」
何がそんなに愉快なのか、嬉嬉として尋ねる無双の態度がいまいち解せない神楽は少々曖昧に返答をしたが、彼は些かも意に介さない。どころか彼女の声すらもう既に聞こえていないらしく、何の前触れも無しに無双の独壇場が始まった。
「そりゃそうだ、あの女…かごめは桔梗に瓜二つだったもんなあ。ありゃ他人のそら似なんてもんじゃ有り得えよ。あの勝気そうな目もそっくりだ…あん時ゃ変な服着てやがったが巫女装束に着せ換えりゃ桔梗そのもんだぜ、全く。ああ、早く見てみてえなあ、あの女の乱れた顔や脅えた顔やなんかを。愉しみで愉しみでぞくぞくするぜ…。くっ、くくくくく…。」
そう言ってほくそ笑んだ泣き黶【ぼくろ】の優男の顔には言い表せぬ程の強い邪念が巣食って居る。
(哀れな奴だ)
こんな屑が核と成って貌【かたち】創られた半妖の分身である己が身に嫌悪を抱いたのも勿論だが、それより先に、利用されて居る事すら知らぬこの男への憐憫【れんびん】の情が沸いた。
神楽も結果的には奈落に従わざるを得ないがそれでも自らの意志は確立させてある。しかし、彼はどうだろうか。
瞬間、巫女の生存を教えてやろうかなどと思わない訳では無かったが、神楽は辛うじて踏み留まった。無双が標的を桔梗に変える事は目に見えて居る。無双無しでも足止め位なら神楽だけで充分だが、かごめを奪うのは不可能だろう。
其れは神楽の思惑に添った形に成るだろうが、無双に桔梗の事を話した事が露見するのは非常にまずい。
(情けねえな、あたしも・・・)
自嘲と憐憫と嫌悪とが混じり合う心中が穏やかである筈が無かったが、神楽は出掛ける前に見た、外身は彼女より随分幼い姉の鏡に写った景色を頼りに、犬夜叉達の姿を探し求めた。
暫くして、一つの山の中腹辺りに小さく閃く緋色が目に止まる。この距離ならば向こうがこちらに気づく前に無双が腕を変化させて一気にかごめを奪うなどという事も十分有り得た。
だがしかし、其れだけはどうしても避けておきたい。後ろの無双に気取られぬ様細心の注意を払いながら風刃の射程範囲近くまで近付いた神楽は、静かに扇を振り翳した。







――昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし――冬の昼間をそう評したのはかの清少納言である。
朝と言うにはやや時が経ち過ぎたが昼と言うにはまだ早く、これから本格的な冬に立ち入ろうとする今の一瞬は当にその様な感じであった。
目に留まる紅葉も大分少なくなり、中には既に一つ残らず落葉した樹木も見受けられる、そんな小高い山の一つに有る裾野に通ずる経路の中程を、お馴染の一行が進んで行く。
先頭切ってずんずんと歩く半妖の少年に、少し離れて異国の少女と猫又を抱えた退治屋の娘が並んで続いた。彼女らの真後ろ辺りで、有髪の法師と其の広い肩に陣取った妖狐の僮【わらべ】が殿【しんがり】を務める。
緋色の衣に銀の髪が鮮やかな半妖の少年は、毎度毎度の仏頂面で金の眼に雲一つないこの時期ならではの高い青空を映しながらいらいらとした風に道無き道を下るが、どうも後ろの会話が気に成るらしく、犬型の耳をぴくぴくせわしなく動かした。
後続の四人と一匹は無論其の事に気が付いて居る。一寸ばかりからかってやろうかと、犬夜叉以外の皆は彼に良く聞こえるだろう大声に皮肉をたっぷり込めた。
「朝早く出張ったってのに、ほんと手応えの無い奴だったよね。」
言って肩をこきんと鳴らしてみせる珊瑚の態度を受けてか、犬夜叉の体が一瞬硬直する。
やはりと言うか何と言うか、其れに目敏く気気付いた弥勒は、態とらしい溜息をついてこの空気を煽った。
「全くですな。捜す手間はかかりましたが、こんな事なら朝餉を済ませてから出て来るんでしたよ。」
 墨染の衣の上に重ねられた深めの紫の袈裟は弥勒の右腕の手甲と同じ色をして居る。
彼の後ろ髪を束ねるものと耳に下がった錺【かざり】も又金属なのか、日光が当たると錫杖の鐶と同じ輝きを持った。
焚きしめられた抹香も強すぎず弱すぎず良い塩梅を保って居る。
 「おらも腹へった…。どこかの誰かが夜明けと同時に叩き起こすからこんな事になったんじゃぞ。のうかごめ。」
 余程空腹なのだろう、思わずかごめに同意を求めた、体の大きさの割に随分と大きい尻尾をちょこちょこ動かす七宝の蒼い瞳は如何にも子供らしく、好奇心を一杯に湛えて輝く。
今は犬夜叉の注意が皆に向いて居るので其の心配は無いけれども、いつもは訳知り顔で一丁前の科白を口にしては痛いめに遭う事も屡【しばしば】で、其処も可愛らしかった。
 「うーん、焦る気持ちは分かるけど、ちょっと急ぎすぎよねえ。」
 誰かが何か言う度に硬直する彼を目の当りにしては流石に正面切って肯定の返事は出来ない。だが、正直言って、気持ちが分かるというのは無論本心だが、性急過ぎると思うのも又事実である。多少なりとも気を遣って、かごめはくすくすと苦笑混じりに答えた。
 が、それでも彼女の言葉はかなり堪えたらしい。数秒近くも固まった後、やおら大地を蹴って皆の前に跳び来ると犬夜叉は一気に捲【まく】し立てた。
 「五月蝿え!!過ぎちまった事をいつまでもぐだぐだ言うんじゃ無えよ!!」
 確かに正論である。但し、此れを言うのが原因を作った張本人で無ければ、の話だが。
 顔を朱に染め、怒鳴った名残にふうふうと息を吐く犬夜叉に、彼から見れば好き勝手な事ばかり言う彼の仲間達は、半ば呆れ反ったらしい顔を向けた。
 童女の様に頬を膨らませてかごめがそっぽを向けば、七宝は開き直って拗ねてみせる。間髪入れずに珊瑚が疲れきった声で悪態を付いて居ると、弥勒がまるきり幼子相手の口調で犬夜叉を諭した。
 「だーって。」
 「そんな事言ったって、へった物はへったんじゃっ!」
 「それに、そういう犬夜叉こそもうちょっと大人になってくれない?付き合わされるこっちの身にもなってさ。」
 「珊瑚の言う通りですよ、犬夜叉。奈落で無くて残念なのは皆同じ。余りはやり過ぎるといざという時困るんですから、もう少し考えなさい。」
 何故此処で彼ら共通の敵、奈落の名が出るかと言うと、其の始まりはまあ、随分と些細な事だったりする。
 偶然にも人里近くを歩いて居た昨晩の事、既にお約束と言って何ら差し支え無いのだが、弥勒が辺りで一番裕福そうな家の門を叩いて屋敷の上空に不吉の雲が垂れ込めて居ると家人に告げたのだった。
 其のあとに言わずもがなの展開が待って居たのは勿論だが、借り受けた一室で寛【くつろ】ぐ一行の元を、村長が頼み事があると言って訪れた事だけが違う。
 彼が言うには、最近頻繁に化け豬が出ては、畑を荒らしたり人を襲ったりして居るらしいのだった。幸いに死者は未だ出て居ないのだが、これでは夜でさえ碌に眠れもしない。
 そこで、充分と言えるか分からないが報酬を出すのでどうか退治して欲しい――と言うのが話のあらましだった。
 其処まで丁重に頼まれては無下に断る訳にも行かない。ましてや一宿一飯の恩義も有るのだから尚更であった。
 結局、村長の願いを聞き届ける事となったのだが、人助けとなると毎回の様に渋る犬夜叉を宥めすかして連れて行くのは此れがなかなか苦労する。
 いつもどうしたものかと悩まされるのだが今回に限っては其の反対で、彼を止めるのが大変だった。もう夜も更けたというのに、其の化け豬を捜しだすと言って訊かないのである。
 大騒ぎの末、最後にはかごめの言魂で大人しくさせられる羽目に成った犬夜叉の語った理由は、聞けば何とも彼らしく、かつもっともなものだった。
「同じなんだよ、あん時と」
お前ら、もう忘れたのか――そうも言いたげな顔で彼は呟く。
暗に問われて皆それぞれに考えを廻らすが、如何せんこの一行、踏んだ場数は半端では無かった。どれ位かと言えば、心当たりが多過ぎて正解に辿り着く前に犬夜叉が痺れを切らした程である。
こういった場合に気の短い彼を基準にして良いものかは気になるが、其れは又別の問題だろう。
ともかく、犬夜叉の言うあの時とは、四魂の玉を額に埋め込まれた化け熊と出くわした時であるらしい。確か妖狼族の若頭である鋼牙に出会って直ぐの頃ではなかったろうか。
其奴自体は奈落の仕掛けた罠の一端でしか無かった訳だが、もし今回も同様なら奈落に多少なりとも接触出来る、犬夜叉はそう考えたのだった。
彼の息巻き様は凄まじく、かごめが欠片の気配は無いと断言しても、それなら奴は彼女が気配を感じ取れぬだけの距離を空けた所に居るのだろうと解釈する始末である。
其の可能性も無きにしも非ずだったが、妖の力が最も高まる夜半の今は余りにも危険が過ぎた。
一応、此れが奴の仕業ならそう焦らずとも逃げはしない、半分は妖のお前はともかく、人間である我々には不利なばかりだとの弥勒の説得が効いたのか、一旦は大人しく成った様に見えた犬夜叉はどうやら其の言葉を違う風に取ったらしい。
 日の出を迎えるが早いか、文字通り皆を叩き起こして豬探しに追い立てたのだった。  
 いくら何でも早過ぎるとの仲間からの苦情も何のその、彼は実にあっけらかんと言い放ったのである。夜は明けたんだから良いじゃねえか、と。
 此処まで常識外れだと呆れて物も言えないが、どちらにせよ今日中に済ます積りだったのだから早めに片を付けるのも悪くない。
 犬夜叉に文句を言う間にすっかり目も覚めた一行は、朝の支度もそこそこに標的の塒【ねぐら】が有るだろう山中へと足を向けた。
 しかし歩けど歩けどかごめの感覚の内に四魂の気配は現れず、異形の獣は露程も姿を見せない。 結局化け豬は、今日になってから全く食物を口にしていない皆がいい加減歩き疲れた頃、犬夜叉が微弱な妖気を感じ取った事で見つかる。
 幸か不幸か漸く見付けた妖の獣は、只の餓鬼がこれまた只の豬に憑依し狂暴化しただけの雑魚で、彼の愛刀が抜かれる事も無いまま鋭い爪の一振りで塵と消えた。
 何の力も持たぬ村人にとっては確かに多大な脅威だろうが、この一行にしてみればそれほど騒ぐ必要も無い、その程度の相手だった。
 そんな訳で今、何とも味気無い一戦を済ませて、世話になって居る村への帰路に付いて居るのだった。
 彼らの予定では手早く済ませてやや遅めの朝食にありつく筈だったのが思いがけず時間をくって仕舞い、どんなに急いでも昼食にしか間に合わない刻限に成って居る。
 朝飯を腹に入れていれば然程苛つかないのだろうが、朝のゆったりした時間を奪った犬夜叉に対する非難は今の処かなりきつい。
 通常女性の支度とは時間の掛かる物であり、其の例に漏れぬかごめも珊瑚も、大慌てで身なりを整えなければ無かったので、口には出さないものの彼女達の憤慨ぶりは結構なものであった。
 因みに妖怪退治と言っても、犬夜叉、弥勒、七宝ら男衆に格段変化は見られない。その代り…と言うのも些か変だが、女子二人にはそれなりの違いが見られた。
 苔色のセーラー服に柔らかい癖を持つ肩過ぎ位の髪を流したかごめの普段の大荷物はどこへやら、今其の手に有るのは薬品・包帯の類ばかりの詰まった小さな袋と、最近どうにか様になってきた小振りの弓、そして多めに矢の入った矢筒だけである。
 珊瑚は珊瑚で、村娘に多く見られる小袖に腰巻という有り触れた格好では無く、彼女が退治屋と呼ばれる時の出で立ち――髪をきつめに結い上げ、動き易く防御にも適した作りの装束に割合短い太刀を佩いて、身の丈以上の巨骨を持った――をして居た。
 ところで窘【たしな】められた当の本人だが、反省する気はついぞ無いらしい。
 「けっ。」
 そう言い捨てる犬夜叉は鼻を鳴らして肩をいからせた。と言った処で、なかなかの無神経ぶりを発揮するこの輩を見るに見かねたかごめの言魂が発動する。
 「これなんだから…。犬夜叉、おすわり。」
 「ぐえっ!!」
 瞬時にして彼は地面に叩き付けられ、やたらと派手な音がした。ほぼ同時に奇声をあげる。
 犬夜叉が突っ伏して居たのはほんの数瞬だった。
 彼が顔だけ上げて噛みつく様に吠えると、真上から困り果てた調子の彼女の声が降って来る。
 「…何しやがんでえ、かごめ!!」
 「ちょっとは反省しようとか思わないの、もう…。」  
犬夜叉が納得のいかない様子で立ち上がると、七宝、珊瑚、弥勒が容赦無い批判を浴びせた。
 一方、余りの辛辣さに怒りで返す言葉も見付からなかったか、犬夜叉は有りったけの恨みを込めた一言だけを漏らす。
 「かごめも大変じゃのう。」
 「ほーんと。」
 「いやはや全く。」
 「てめーら…。」
 今は珊瑚の腕の中で淦【あか】い目を伏せ、二股の尾をゆすぶるだけの雲母が和やかに、みいと一声鳴いた。
 不意に、犬夜叉の尋常でない嗅覚は風の澱みを感じ取り、彼の顔が険しくなる。
 尋ねた弥勒の錫杖が揺れ、いつもより冷たい音で鳴った。
 途端に場の空気が一転する。
 「…ん?」
 「どうした、犬夜叉?」
 「…奈落の臭いだ。」
 風を裂く鋭利な刃に、皆其の場を跳び離れた。同時に蓮っ葉な女の声が響く。
 「なかなか鋭いじゃねえか。よう犬夜叉。」
 「神楽てめえ…また性懲りも無く四魂の欠片を奪いに来やがったのか?」
 怒りに我を忘れたか、かごめを片腕に抱えたまま彼は怒鳴った。
 「ああ。あとついでにかごめも貰ってこうかと思ってね。」
 「んなっ…。かごめをだと!?」
 「どういう事だ、神楽!!」
 そう叫んだのは珊瑚である。唯一の肉親である弟を人質に捕られている彼女にとって、今の言葉は腹に据えかねる物だろう。
 「ま、こっちにも色々あるんでね。取り敢えず、お前等は雑魚共と遊んでな。」
 「かごめ、七宝連れて逃げろ!!」
 「良いのかいそんな事言って?今回はあたし一人じゃ無えんだよ。」
 「そう言うなって。俺としちゃ其の方が手間も省けるし都合が良いんだぜ?待ってなかごめ。直にお前は俺のもんだ…。」
 言って神楽の後ろから姿を見せたのは無双であった。神楽が薄く笑う。
 無双の登場に、犬夜叉は小さく舌打ちをした。こうなると、かごめを逃がすより目の届く所に留まらせる方が幾分かましだろう。
 不安気な顔で衣を握り締めるかごめを抱く手に一瞬力を入れた犬夜叉は彼女を下に降ろした。
 「かごめ、向こう行ってろ。但しあんまり離れすぎんなよ。」
 「うん…。気を付けて、犬夜叉。」
 「心配すんな、俺はそんなにやわじゃ無え。」
 二言三言交わしてかごめが彼の傍を離れると、上空の二人が身構える。
 「ったく、まだるっこしいったらありゃしない。」
 「俺は構わねえけどな。最後の別れくれえはさせてやってもいいんじゃねえか?ともかく…行くぜ」
 神楽と無双は空に舞った。