怯えている自分すら、忌々しくてならなくて。
けれど下らない呪縛に捕われ、身動きも出来ない。
枷など、要らないのに。
――しゃっ!
空中で神楽が風刃を生み、無双が両の腕を…否、人の其れから肩の付け根で枝分かれた長い蔓へと変化した物体を振る。
「はっ!」
迎え撃つ犬夜叉は鉄砕牙を引き抜き、刄【やいば】に気を込めて薙いだ。
放たれた烈風に風刃も“腕”も粉砕され――ぴちぴちと音を立て再生する“腕”。以前相見えた時と同様、厄介な能力である。
(…となると、狙うしかねえな)
意外に軽く着地した無双は全身を膨張させ、無数の棘を生やした。“腕”が犬夜叉にのしかからんばかりに襲いかかる。
「神楽、手ェ出すなよ!!」
無双の肩ごしに神楽を見遣ると、言われるまでも無く彼女は傍観を決め込む積りらしかった。それが証拠に、神楽は風刃を威嚇でしか放っていない。
(あたしに出来るのは、ここまで)
無双の攻撃を或いはかわし、或いは打ち返す犬夜叉に一瞥【いちべつ】をくれて、神楽は心中でごちた。
と、何の前触れも無くかごめが弓を引く。神楽を狙ったらしいが、其のもくろみはいともあっさりと瓦解した。
「きゃあ!!」
手元に集中する余り、足先に寄って来た数匹の餓鬼に気付かなかったのである。
手離した矢はあさってへ飛ぶが彼女は構わず、左手に握った弓で餓鬼を払った。
弓に触れた餓鬼はひとたまりも無く滅するが、武道の心得の無いかごめは全てを払いきれない。躰を振った拍子に尻餅を着いた彼女の元に、餓鬼が顋【あぎと】を鳴らして迫り来た。
(犬夜叉っ!!)
「かごめ!!」
犬夜叉が先の叫びを聞き付け駆け付ける。
きつく閉じた目の先辺りで、何かが潰れる不快音がした。そして見開かれたかごめの瞳に写ったのは緋色と、心配そうな犬夜叉の顔。
かと思えばきゅ、と抱き竦められて、耳元で声がする。
「怪我は無えか?」
「だ、大丈夫…。ごめん、神楽を狙ってて気付かなかったの。」
「んなこたいーから、お前は自分の身だけ守ってろ。」
「うん、分かった。」
言うだけ言って駆け出す犬夜叉は、振り向きもせずにもう一言。
「いいかっ、くれぐれも気ぃ付けろよ!!」
(勿論よ)
声に出さずに呟いて、かごめは近付いて来る大むかでを今度は間違い無く射抜いた。
…ぽたり。
再び無双と対峙した犬夜叉の腕や足から鮮血が滴【したたれ】る。
かごめの危機に身体を翻した彼を無双が無言で見送る訳が無かったのだ。
(かごめには、気付かれなかったみてえだ)
彼女の言葉に謝罪の意は無かった様に思う。不敵に笑った犬夜叉は、苛付いた表情の無双に再戦を宣言した。
「待たせたな。仕切り直しと行こうじゃねえか。」
「この野郎さんざ見せ付けておいて…。…ふっ、まあいいさ。どうせかごめは俺のもんになるんだからな。」
「けっ、誰がてめえなんかにかごめを渡すかってんだ!!」
攻防一体の闘いが始まる。
犬夜叉が鉄砕牙で斬り飛ばした無双の“足”が瞬時に再生し彼を挟み込もうとすれば、巧みに着地点をずらした犬夜叉が次には爪で“腕”を裂く、そんな事が幾度続いただろうか。
(そろそろか)
犬夜叉は身体の均衡を失ったが如くよろけてみせる。
「もらった!!」
無双が吠えて、彼の両足を捉えた。犬夜叉の足が軋む。
「くっ…。」
小さくうめいて、戒めを解こうと試みる振りをした。此処で気付かれては元も子も無い。
無双は気付かず、よこしまに嗤【わら】った。次第に引き擦られ、事の他無双に近付く。
犬夜叉の眼前に一際鋭い棘が振り上げられた。
(今だ〉
「風の傷!!」
叫んで渾身の力で愛刀を振り下ろす。軌道の一つが無双の心臓に向かってつき進み、砕いた。
風の傷を打つと同時に後ろに跳び退った犬夜叉は会心の笑みを漏らす。
無双の体が斬り刻まれるのを確認して、彼は踵を返そうとする――が、神楽の声が其れを押しとどめた。
「甘いな。残念ながらそいつの心臓は其処には無え。それがどういう事か…分かるよな犬夜叉。」
何処か覇気の無い彼女の声を聞きながら、犬夜叉は半ば呆然と立ち竦む。
神楽の言葉を証明するかの様に、一度は崩壊した無双の体が組み上がっていった。
「えいっ!!」
矢を打つかごめの声が、やけに遠く聞こえる。
此方は此方で苦戦を強いられて居た。
連れてきた神楽が雑魚と称するだけあって一匹一匹は事実大した事は無いのだが、如何せん数が多過ぎる。
百戦練磨の弥勒も流石に、前から横から背後からと三方から向かい来る妖を撃つので手一杯で上空の小妖怪にまで気が回らないらしかった。
彼が気付いた時には、其奴は眼前である。
(まずい)
そう思うだけの暇が果たして弥勒にあったかどうか。
「飛来骨!!」
凛とした珊瑚の声が辺りに響いて、彼の敵は砕け散った。
「大丈夫、法師様?!」
走り寄った珊瑚は、弥勒と背中合わせになって得物を振るう。
直ぐ傍で雲母が大蛇の首を噛み切った。妖が哭【な】いて、どす黒い血を撒き散らす。
「ええ、何とか。助かりましたよ珊瑚。」
言って場違いな微笑を浮かべる彼も、彼を助けた彼女も、手を休める事など無かった。長い黒髪を揺らして珊瑚が言う。
「そんなのは良いから、法師様は七宝の所へ!!此処はあたしら二人が何とかするから!!」
確かに、少し離れた辺りで七宝が芋虫妖怪の大群に囲まれて難儀して居た。このままでは危ない、そう判断した弥勒は、迷わず駆け出す。
数匹の妖怪が彼の行動に気付いて追おうとするが、其れは珊瑚に阻まれた。
「逃がすか!!」
叫んだ彼女は突然、頬に擦れる様な熱さを感じるが取り合わず――そして弥勒の眉が寄せられる。
が、元々余り心の動揺を顔面に表さぬ彼の僅かな変化、ましてや状況が状況だけに其れに頓着
する者は無かった。
(珊瑚の言った通り、今は七宝が先だ)
胸に沸き上がった想いを押さえつつ、弥勒は無心に走る。
「うわーん!!」
最早半泣きになりながらも、七宝は懸命に狐火を生み出し続けた。
(おらだって、自分の身くらいは自分で守るんじゃ)
そう強がってはみるものの、七宝の周囲の芋虫が一向に減る様子は無い。それでも何とか、これ以上奴等を自分に近付けぬ様気合を入れ直すと、遠くから弥勒の声が聞こえた。
「七宝、屈みなさい!!」
とっさの事で何が何だか分からないまま、とにかく七宝は身を伏せる。其れを見てとった彼は、芋虫妖怪の一郭に呪符を投げた。
「散!!」
弥勒の一声に、妖怪共は四散する。七宝が申し訳無さそうに顔を上げた。
「すまん、弥勒。おら、また役立たずで…。」
今にも泣き出しそうである。優しく笑って、弥勒はこの幼子に語りかけた。
「そんな事ありませんよ。私だってさっきは珊瑚に助けられましたし。…それより七宝、お前に頼みたい事があるんですよ。これは七宝にしか出来ない事ですから。」
一度はうつむいた顔が勢い良く上向く。自分にしか、の言葉に七宝の顔がぱっと輝いた。
「なっ、何じゃ?おらにしかできない事とは何なのじゃ?」
「はい。お前の狐火は、妖怪への効き目よりも奈落の毒虫への効き目が大きい。もしもの時の為に、最猛勝を一匹残らず退治してほしいのです。」
見れば、弥勒が呪符を投げた近くに、焼け焦げた毒虫が転がって居る。彼の言葉に力を得た七宝は、喜び勇んで最猛勝の後を追った。
(こっちは大丈夫だな)
残して来た珊瑚と雲母も気にかかる。弥勒は急いで元来た方に戻るが、先程の事を忘れた訳では無かった。
「ちくしょう!!」
彼らしくもないが、自身に腹を立てて居る事実を隠すのも忘れ、弥勒は寄って来た妖怪どもを荒々しく殴り付ける。
かごめは内心、焦って居た。
(どうしよう)
何がかと言うと、矢筒に残る矢の少なさである。来る敵来る敵、彼女は殆ど矢を無駄にする事無く仕留めて居たが、ひっきりなしに襲って来られては矢が足りる道理がある筈が無かった。
弓を引く手を休める事もかなわないまま、かごめはどうしよう、と繰り返す。
全く唐突に、矢筒に伸ばした手が空を切った。矢は尽きたが、残って居る妖怪は一匹だけ。
「えーいっ!!」
少し躊躇ったものの、裂帛【れっぱく】の気を込めてかごめは弓を打ち付ける。
――びぃぃん。
弦が切れて弓は使い物にならなくなったが、妖は塵と変わった。
「ふうっ…。」
ほっとして其の場にぺたんと腰を下ろすが、彼女は今、自分がどれだけ移動してどこに居るのか理解していない。
(こりゃあ良い)
犬夜叉は間合いを計るのに気を取られて居た。
(やるなら…今だ)
無双は不意に体の向きを変え、長い棘だらけの“腕”を走らせる。その先に居るのは――かごめ。
そう、彼女は知らず知らずの内に無双に近付いて居たのである。其の距離も、“腕”が届く程に成って居た。
(しまった)
「かごめ!!」
叫んで追いすがる犬夜叉を横目に見ながら神楽はそっと扇を構える。
(あたしの風刃で、無双を斬れるかどうか…)
「薄汚え手でかごめに触るんじゃねえっ!!」
犬夜叉の声に顔を上げたかごめが見たのは、異形の無双だったのか、はたまた見慣れた緋色だったのか…。
時が、止まる。
「ぐっ…。」
ふわりとした暖かい感触。そして、次に彼女が知覚したのは、鈍い音と犬夜叉のうめきだった。
彼の腕を無双の“腕”が貫いて居る。大地が朱に染まった。
「い、犬夜叉!!」
呼んだ声が擦れているのが妙にはっきり分かる。
ばしゅっ、と速く風が唸った。神楽の風刃が犬夜叉の背を裂く。
「どこも…触られて無えな?」
「うん…。」
切れ切れの声に、かごめは彼の顔を見て返事が出来なかった。満足気に頷いて、犬夜叉は無造作に無双の“腕”を引き抜く。無双は“腕”を縮めて彼をあざ笑った。
「お前馬鹿じゃねえのか?」
なかなか穿った意見である。今は犬夜叉が自身を盾としてかごめをかばったが、彼女を守る手段はそれこそ幾らでもあったのだ。無双がかごめを捕らえた後、其処に必ず生まれる隙を狙うなりすれば良かったし、些か乱暴だが彼女を突き飛ばす手もあるにはある。
それをわざわざ、犬夜叉が後々最も不利になる方法を選んだのが解せない、暗に無双はそう言ったのだった。彼の意図を瞬時にして汲み取った犬夜叉は、迷う事無く言う。
「俺の命なんぞより、かごめの体の方が大事なんでな」
(え…)
とくとくと心臓が波打った。彼がくるりと振り返る。やはり、見る事など出来なかった。
「弥勒と珊瑚が雑魚どもを大分片付けてくれてるみてーだ。そっちの心配はもう無え。もっと向こうに離れろ、いいなかごめ。」
「…うん。」
答えてかごめが立ち上がる。ふらふらした頼り無げな歩みを見ながら無双はぽつりと言った。
「ま…何でも良いけどな。犬夜叉、お前が不利になったのは確かだ…。」
ふてぶてしい顔で鼻を鳴らすと、犬夜叉は鉄砕牙を構え直す。
「馬鹿言うんじゃねーよ、これでやっと五分だぜ?」
(勝機が無え訳じゃない…だが、機会は一度だな)
犬夜叉は脳裏にかごめの笑顔を思い浮かべ、無双をにらみ付けた。
「行くぜ」
言われるがままに場所を移したかごめは、何かにつまづき倒れ込む。
(これは…)
落ちていた其れを握り締め、彼女は気を取り直した。
(考えるのは後。それより、犬夜叉に加勢しなくちゃ)
「かごめぇー!!」
七宝が呼んでいる。そこらの最猛勝を残らず片付けた七宝が、かごめの様子のおかしいのに気付いて駆けて来た。
どこかでこれと良く似た光景を目にした気がする。
――思い出した。
「大丈夫か、かごめっ?!」
「うん、大丈夫よ。それより七宝ちゃん、ちょっと頼みたい事があるの。」
いつもの優しくて強い瞳に、七宝は安堵する。
翳っていた太陽が又、顔を出した。
日の光というのはどうしてこうも世界を色鮮やかに変えて仕舞うのだろう。申し訳程度に野草と枯れ草の植わった水気を失って色の抜けた固い大地は、一連の戦いで掘り起こされて黒々とし、僅かに湿り気を放つ。
犬夜叉の立ち位置からやや距離を開け、妖の大軍を撃ち止め続ける弥勒と珊瑚、そして雲母の居る辺りは土煙が鬱陶しく立ち込めて居るが、静の局面にある犬夜叉と無双の周囲ではひどく怠惰な風情を醸す風が吹くのみで、故に二人には互いの顔がよく見えた。
無双の眼が爛々と光る所為だろうか、彼の“腕”は妙に鈍い色に思える。
かごめは何か空恐ろしいものを感じて、膝に乗せた七宝を胸に抱き込んだ。
犬夜叉の白銀の髪は虹にも似た色みと成り、緋色の其処彼処にこびり付く赤黒い血塊がやたらと目に付いて痛々しい。
かごめは己の視力の良さを呪ったが、彼から目を反らす事をしようとしなかった。七宝がそっと耳
打ちする。
「おらは準備万端じゃ。まだいいのか、かごめ?」
「ありがと七宝ちゃん。でも…まだよ。」
(二人の意識が少しでもあたしに向いているうちは)
根拠がある訳では無いが、どうしてもそんな気がした。恐らく、どちらに気付かれても失敗に終わる。
(お願い…お願い気を付けて、犬夜叉)
祈るかごめの心に、何の前触れも無く彼の言葉と一旦保留にした筈の想いが顔を覗かせた。
(あ…)
考えまいと必死に首を振って七宝を抱きしめると、其の動作の意味を違えて取った心優しき幼子が明るい声音で告げる。
「かごめなら絶対に大丈夫じゃ、失敗なんかせん。それに…おらがついとるからの。」
誇らしげに自身の胸を叩いた七宝が笑った。
「そう、ね。」
はや平静を取り戻したかごめは、二人の視線が消えた事に気付く。
「七宝ちゃん、お願い。」
七宝を抱えたまま立ち上がった彼女の、意志の篭った声は美しかった。
余りにも長い仮初めの静寂に倦んだか、ゆるゆるゆると微風が流れる。影法師は各々の足下に 長々と寝そべり、時刻が昼つ方さえ過ぎた事を教えて居た。
先程から犬夜叉と無双は睨み合うばかりで手を出そうとしないが、激しく撃ち合っていた時と比べると、実は今の方が却ってきつい。
手の早い二人が気の放出に慣れていないというのも無論有るが、そもそも気での牽制など一瞬のものなのだ、異常なのはむしろ今の状況であった。
(何考えてんだ、あの野郎…)
流石に気力が萎え始めたがそんな事はおくびにも出さず、無双は心中で悪態を付く。
――ぎりぎりまで引き絞られた均衡の糸、切れるのは果たしていつだろうか。
と、手傷を負った犬夜叉が間合いを測ってか、僅かに擦り足で前に出た。先手を取る心積りは無さそうだが、その内に何か仕掛けるだろう事は既に明白である。
(犬夜叉の気…どんどん膨れあがってやがる)
とは言えここで気圧されては話にならない、そんな事は重々承知の上だ。
(いい加減にしやがれってんだ)
無双が一際強い、否彼の最大の気を無言で放つ。
…待って居たのだ、この時を。
完全な迄に静に徹して居た犬夜叉が豹変した。吠えて真っ直ぐに突っ込んで行く。
「うおらぁぁっ!!」
「…ちっ!!」
意識せず舌打ちを漏らした無双は、異様に隆起した四肢を彼めがけて走らせるが、時既に遅し。
限り無い数の棘が犬夜叉の腕を胸を足を―と言った風に全身をくまなく擦ったが、其れを厭う彼では無い。刹那の内に犬夜叉は、彼独自の“勘”とでも言うべきものによって見い出した唯一無二の軌道に添うて、彼の父の…そして彼自身の牙を振り切った。
「喰らえ、爆流破!!」
大小取り混ぜて数えきれぬ程の竜巻が産み出され、無双は切り刻まれる。一応は彼の体も再生しては居るのだが、その速度を遥かに上回って風の渦は執拗に彼を追い、砕いた。
次第に風の中でも其れと判る肉片は見られなくなる。細切れと言うより塵に近い状態の無双を確かめ、犬夜叉は漸く息を吐いた。
汗をかく等滅多に無い彼だが、それでも僅かばかりは汗ばんで居るらしい。鉄砕牙を持つ手に空気が触れると、ひやりと良い心地がした。
「今度こそ終わったか…。」
自身もいまいち聞き取れぬ声量で犬夜叉は言う。己の声に疲れが混じって居るのを誰にも悟られたくは無かった。
(手間かけさせやがって)
奥義の初級、即ち風の傷で駄目なら最奥義で仕留める――そう考える辺り如何にも彼らしいが、あながち考え違いでも無い。
幾ら無双が無限の再生能力を持とうとも、粉々にされては其の間、手も足も出せなくなるのは既に身をもって知って居た。
最初の戦いで場所を移す迄の間、余りのあっけなさに疑問の目を向けなかった訳ではないが其れはさて置いて、犬夜叉は無双の生存を一切感知していない。其れはつまり、彼の再生に掛かる時間は、状況に大きく左右されるという事だった。
なれば無双を、それこそ粒程の大きさにして時間を稼ぎ、其の間に神楽に向かえば良いのである。彼女の性格からして、不利に追い込まれた時点で迷わず逃げ帰るだろう。
そう読んだ犬夜叉だったが、爆流破を放つには問題が一つ。相手の妖気が必要不可欠なのだ。それも半端な物では無く、相手の最大級の強い妖気が。
しかし無双は明らかに、気を飛び道具として用いる間接攻撃より、身体をそのまま武器と成す直接攻撃を得手として居る。おまけに、やはり性格なのだろうか、犬夜叉も本来はああいった回りくどいやり方は苦手だ。
何の因果か不利な条件ばかりが重なって、しくじる可能性は正直かなり高かった。けれども、かごめを守る為にはやらない訳にも行かない。かくて犬夜叉はどうにかこうにか、持久戦に耐え抜いたのであった。やるべくしてやった、今の彼の心境はそんな処だろう。
(ここまでは上出来だ…)
次いで、彼が取る行動は一つしか無い。爆流破の威力を目の当たりにしても尚、驚嘆の声一つ上げずに静観する神楽に犬夜叉が向き直った。そして、口を開きかける…が。
――ぱあん。
小気味良い音が弾けて、粒子状の無双が居る――この場合、有ると言ったほうが適切かも知れないが――とにかく彼の存在する辺りに矢が翔んだ。かごめである。
彼女の破魔の気の込められた矢は、無双の再生速度をより鈍らせたようだった。
清雅な光りを遺して矢は風に折られ、かごめは肩で息をする。
後に響くは只、風の咆哮。
――時を少しさかのぼる。
「かごめ…どうじゃ、いけそうか?」
一風変わった、蝸虫にも似た弓に化けた七宝が問うた。そしてかごめが手に携えているのは、矢羽が数個所抜け落ちてはいるが充分使える一本の矢。
すっかり忘れて居たが、先の時に彼女が誤射し、打ち棄てられた物だった。世の中、何が役に立つか分からないと言うが、全くその通りである。
それはともかく、使い慣れぬ変化の弓は当たり前だが手に馴染まない。
そして、一つきりの矢を引いたかごめの弓手【ゆんで】がひくりと痙攣した。鏃【やじり】が定まらず、小刻みに振れる。
半端ない数の矢を打ったのだ、今更どうしようも無いが、其れと反してかごめの眼が輝きを増した。
「わからない…けど、絶対外さないわ、絶対…。」
(だってあたしは)
後に続く言葉は多過ぎて、それなのにどれもしっくり来ない。この矢が真っ直ぐ、真っ直ぐに翔べば解るだろうか、ふとかごめは考えた。
(そんな事、ある訳ないだろうけど)
鏃を向けた先も自分を守る緋色も、狙った事も無い程遠くなのだ、自信は全く無かった。
それでもかごめは目標を見据え、渾身の力で弓を引く。そうする事で不思議に心が静まって、漸く狙いが定まった。
(これがあたしの精一杯)
「…はっ!!」
何かを振りきる様に右手で弧を描く。矢は行くべき場所を過たず突き進み、無双を撃った様だった。 直ぐ様振り向いた犬夜叉の顔と、血に染まった衣が視界に飛び込んで来る。
「すごいぞ、命中じゃっ!!」
ぽんっと軽い音を立てて変化を解いた七宝が、彼女の腕に抱えられたままはしゃいだ。その声をどこか遠くに聞きながら、かごめは息を調える。
苦しい呼吸の中で彼女が思った事は多分、あの続きの答だったのだろう。
「そっ、か…。」
(あたしはただ、一つだけ犬夜叉に約束して欲しかったんだ)
突然に、何故か景色が滲んでかごめは前を向けなくなった。
(今泣いたら、皆にまで心配かけちゃう)
柔らかい唇を噛み締めて、目の辺りをごしごし擦る。浮かんだ水滴は消えて、代わりに彼女の顔を張り詰めた感情が覆った。もう一度俯いて、取り敢えずそのまま、前は見ない。
(絶対泣いたりしない…少なくともあいつに約束させるまでは)
それまで浮かれて居た七宝が不思議そうな顔をした。かごめは黙って、彼を地面に下ろしてやる。
戦いは終局を迎えようとしていた。
ふうわりと暖かい太陽光に、其れに比ぶれば随分温度の低い風が流れ絡まる。空気が温度差の混じり合いによって生ぬるく変わらないと言うのはどうにも奇妙なもので、だからこそ嫌が応でも冬が忍び寄りつつある事を感じずにはいられなかった。
しかし其れも先程までの話である。
(犬夜叉…一気に片を付けるつもりだな)
別場所に佇む二人から、針の蓆【むしろ】すら連想し得る程の痛い雰囲気を弥勒は敏感に察知した。珊瑚も又同様らしく、視線を流した彼に軽く頷いて見せる。
(流石だ)
ここまで来ると一遍で相手にする雑魚妖怪もかなり少なくなり、そう思うだけの余裕は双方充分あった。全く同じ考えらしいと悟るが早いか、弥勒は戦場全体を見渡し、珊瑚は雲母に眼を向け自身の近くまで呼び寄せる。
無論、向かい来る妖怪どもを或いは撃ち落とし、或いは薙ぎ払いながらの同時作業だが、速度は一定のままだ。どころか敵の数が減ってやりやすくなった為だろう、むしろ速くなって居る様である。
そうして妖相手に得物を振う事暫し、終戦は間もなくだとの彼らの読みは当たった。
雄叫びをあげた犬夜叉が無双に爆流破を浴びせ、途端に無双の姿がかき消える。追い討ちをかけてかごめの矢が決まった。
(珊瑚行くぞ)
(うん、法師様)
いつもは声に出して交わす会話を思い起こして、どちらからともなく目線を合わせる。
「雲母!!」
珊瑚の一声に、雲母が威嚇の唸りを上げた。妖の動きか止まった刹那の合間を縫って、雲母が物慣れた様子で主を其の背に乗せて舞い上がる。数瞬遅れて追撃を開始した雑魚妖怪は、足の力だけで猫又にしがみ付く珊瑚の剣の餌食となった。
軽々と追手を振りきり、そのまま弥勒の傍を地面すれすれに飛行する。彼相手にいちいち停止せずとも良いと雲母は本能で知って居たのだろうが、完全に正解であった。自身の横を素晴らしい速さで通過する猫又に飛び乗る弥勒の体術はどこまでも見事である。
雲母が上空まで浮上する僅かな時間に珊瑚は弥勒の腰に腕を回して彼の体をしっかりと固定し、短いやりとりが交わされた。
「いくら法師様でも流石にきついだろ?それに何かあっても困るし…。」
「おや、これは嬉しいですな。出来ればいつもこうしてくれませんかね?」
「馬鹿言ってんじゃ無いよ!!何なら今から降ろしてやろうか?」
「冷たいですなあ…。」
「ったく…しっかり頼むよ、法師様!!」
肯の返事代わりに左手の錫杖を彼女の手に握らせて、弥勒は右手の玉の連なりに指を掛ける。勢い良く数珠を解いた掌の先で、虚無への入口が姿を見せた。
「風穴!!」
幾ら弥勒とて、風穴を開いた状態で背後を攻められればひとたまりも無い。そんな訳で敢えて安定性の低い空中を選んだ彼らだったが、其の意外性も手伝ってのことだろう、俄か作りの作戦は効を奏した。
やたらと数が多く、雲母の上で踏ん張るのに二人とも少々閉口したが、風穴の死風を前にしても尚向かって来た妖怪、迷う事無く逃げ出した妖怪、そして既に倒された妖怪、全てはいっしょくたに風穴へ消えて行く。七宝の活躍の成果だろう、先程辺りを見渡した時には最猛勝の姿は見受けられなかった。あの毒虫がいないならば何の心配も無い。
程無くして、最後まで地に爪を立てて伏せって居た雑魚が吸い寄せらせ、居なくなった。
「ま、こんなもんでしょう。」
「そうだね。」
言葉には安堵の色が混じる。そして、封じの珠を腕に絡める弥勒と彼の錫杖を両手で握り絞めたままの珊瑚を乗せた雲母は、犬夜叉の方を向くと静かに空を蹴った。
神楽の周りでだけ、皃【かたち】を持つなど有り得ぬ筈の風が筋を創って歪み、まるで絹糸の様に美しい光沢を放って妖しくさざめく。
何とも手持ち無沙汰に、黒と白の檜扇をぱたりぱたりとやって居た彼女は、犬夜叉の視線と上空の風斬り音にようやっと動きを止めた。
(割合早かったな)
「あとはお前だけだ。どうすんだ、神楽よ…」
余裕綽綽といった顔で挑発する犬夜叉だが、構えには一分の隙も見当たらない。其れも念には念を入れての事だが、状況を考えると神楽が逃げ帰るのはほぼ間違い無かろう。
本当は彼女を斃すなり後を追って奈落の城に殴り込むなりしたい処だが、今の犬夜叉の最優先はかごめを守りきる事だ。
其の彼に加勢する形で、弥勒と珊瑚が殆ど音も立てぬままに雲母の背から滑り降りる。此方も各々の武器を携えて彼女を睨めつけた。神楽を囲む輪がじりじりとせばまって行く。
(頃合いだ)
「…どうもこうも、あたしは無双の目付け役だ。こんなになっちまったんだから、連れ帰る他にあるか?」 神楽は、鋭い眼を向ける三人と一匹の前で口の端を曲げて言うと、風を操る羽根を投げた。
「望み通り退いてやるよ、犬夜叉。取り敢えず今は、な…。」
中空に浮いた羽根に乗るや否やちんまりした竜巻を多量に放って無双を吸い上げさせ、神楽は其の場を後にする。
そっと振り返ると、たった今まで見ていた景色が遠くなったのが分かった。
(一応、道草食わずに帰ってやるか)
あの城に戻る事にあまり気は進まないが、それは仕方が無い。四魂の欠片とかごめの強奪に失敗し、おまけに無双をこんな状態に陥らせたのだ、せめて城の位置を悟られぬ様、自身の痕跡を最小に抑える位の事はやっておかないと、後々奈落に何を言われるやら。
正しく言えば別に文句の一つや二つ、つけられようと神楽は屁とも思わないのだが、彼の場合其れだけで済む事はまず無い。痛い目には出来るだけ遭いたくない、これは生きとし生ける者全てに於ける普遍の心理だ。
(追って来る可能性は万に一つも無さそうだがな)
冷静にそう判断を下して、酷く矛盾した自身の思考回路に神楽は無意識に苦笑する。もう一度振り返って、追って来る気配の無い事を確かめた。
(取り敢えず)
最低限の命令は守った――神楽は思い、軽い息を吐く。