何かを誓うということ、信じるということ。
 形のないそれは、頼りなくて取るに足らないはずなのに。
 なのにどうして――こんなにも嬉しいのだろう?







約束
yakusoku








 風遣いの繰糸だったものが漸く本来の姿を取り戻し、ゆるやかに走って皆の頬に触れた。其れは彼らの緊張の色をこそいで落とし、誰からとも無く安堵の声を上げさせる。太陽の位置は随分変わって仕舞った。
 「行った…ようですな。」
 「うん、そうみたいだ。良かった、かごめちゃんが無事で…ってどうしたのさ犬夜叉!!」
 かごめの名を耳にした犬夜叉は、鉄砕牙を鞘に収めて地を駆ける。皆の方へ俯きかげんに歩み寄る彼女の前に立つと、先に尋ねられた。
 「大丈夫、犬夜叉…?」
 「ああ、俺は平気だ。お前こそどこも怪我とかしてねえだろうな?」
 「うん、全然…。」
 (かごめの様子がおかしい)
 先程から下を向きっぱなしで目を合わせようとしない。彼女が自身で言う通り、怪我は一切負っていない様だが、声には覇気が全く篭っていなかった。
 (何か…あったのか?)
 そう聞き返そうと口を開くが、其れが言葉になるより早く、かごめが動く。犬夜叉の横をすり抜け、近寄って来る弥勒と珊瑚、雲母と向かい合った。見た目はゆったりとした、けれど実の処は早足に歩く彼らの顔にははっきりと安堵が浮かんでいる。
 「かごめちゃん、怪我とかしてない?大丈夫?」  今にも彼女を抱き締めんばかりに珊瑚が問う。犬夜叉と全く同じ問いだが、かごめは手をひらひら振って明るく答えた。一応、笑顔も見せる。
 「平気平気。それより…みんなこそ、怪我はない?」
 「勿論。数が多くても所詮、雑魚は雑魚だからさ。」 
 いつの間に変化を解いたのか、仔猫の姿をした雲母を抱き上げる珊瑚。かごめの様子にほっと胸を撫で降ろし、こちらも笑んだ。
 「問題は犬夜叉ですな。あいつの傷の手当てをせねば。」
 七宝が何やら余計な事でも言ったのだろう、片手で目線の高さに仔狐をぶら下げ、口角あわをとばしながら犬夜叉が歩いて来る。心配なのか呆れなのか分からない渋面を浮かべる弥勒は、自ら進み出て七宝を掴み取った。
 「あっ、何すんでい弥勒!!こいつにはまだ言う事がなあっ…」
 はあ、と一つ溜め息を吐いて、彼は犬夜叉に向き直る。
 「…あのですね、お前の怪我の手当てをどうしようか、という話をして居るんですよ?本人がそれでは話に成らないじゃありませんか。」
 「けっ、こんな傷に手当てなんか…」
 「法師様、確か登って来る途中に小さな山小屋が無かった?あそこなんかいいんじゃない?」
 手当てなんかいるか、そう言いかけた犬夜叉だったが、珊瑚に遮られて、最後は言った彼以外誰も聞いては居なかった。
 「おお、そういえば。犬夜叉も思ったより元気そうですし、そこで充分でしょう。さ、そうと決まればさっさと行きますよ。」
 手を打った弥勒に珊瑚が並んで、あっと言う間に下へ進みだす。彼らに抱えられた七宝と雲母は二人の負担を慮って地面に降り立ち、これまた並んで歩きだした。少し離れてかごめが足を動かし始めると、犬夜叉がぽつねんと一人取り残される。拳を握って眼を伏せ、何やら震える彼が吠えた。
 「お前等、俺を無視して話を進めんじゃねー!!」
 穏やかだった其の場の雰囲気は崩れ、犬夜叉の声が辺りに谺【こだま】する。哀れ、声に驚かされた小鳥達がばたばたと騒いだ。







 逢魔が時【おうまがとき】、という言葉が有る。夕方のうす暗い時分を指すのだけれど、申の刻も半ばの今はそう呼ぶにはまだ早過ぎるだろうか。
 天空は未だ青々として居るが、其処から流れ落ちる風はある程度の鋭さを持ち始め、夜の物に近い。よくよく見ると、空の端には僅かばかり茜色が混じって、抜ける様に高い浅葱を柔らかめのにび色に変え出して居た。
 (魔に逢う刻限だってんなら)
 今だって何らおかしく無いのではないか、自分でもよく解らない事をつらつら考えつつも珊瑚は足元に注意を払って歩を進める。彼女の耳に入るのは自身の土を蹴る音と、隣を歩く弥勒の錫杖が奏でる涼やかな音色位のものであった。いや、なかなかどうして珍しい話ではないか。
 (どうしたんだろ、法師様)
 先に断っておくが、別に喧嘩をした覚えは無い。そういう時以外は必ず、何やかんやと話題を持ちかける彼なのだが、今日は押し黙ったままだ。
 空に目を向ける振りをして鼻梁【びりょう】のすっきり通った有髪の法師の顔を観察してみても、いつも通りを装いながらどこか違う。
 (あたし、何かしたっけ)
 心当りは無いが鈍い自分の事だ、気付かない内に何かやらかしたのか知れないという結論に至ると、今度は其れが一体何なのか気になり出した。意識せず、眉を寄せて仕舞う。
 「う…ん…。」
 余りに真面目に考え過ぎた所為か、珊瑚の口から唸りが漏れた。すかさず弥勒が反応する。
 「どうかしたか、珊瑚?」
 「えっ、いや、何でも…。」
 ひょいと向けた表情は彼そのもの。今朝、戦いの最中、そしてこうやって歩き始める直前までしていた居た顔だ。でも、今は違う。
 (さっきの顔だ)
 言いたいことでもあるんだろうか、何となくそう感じた。
 「ほ、法師様…」
 (しまったっ)
 「何です?」
 「え、あ、その…ごめん、いいや。」
 (何やってんだか)
 考える前に自然に動いて仕舞う事がある、其の事実に珊瑚は改めて感心する。何とも間の抜けた空気が流れた。決して気まずくは無いが、どうにも違和感が有る。
 「ああ、そうだ」
 気分を変えようと飛来骨を揺すり上げる彼女の前に、手甲の巻かれた腕がすっ、と現れた。如何にも今思い出しました、という雰囲気で差し出された手には小さな薬布が一枚乗って居る。
 「これを貼っておきなさい。」 
 「え…何処に?」
 弥勒が僅かに目を剥いた。あきれたとも困ったともつかない口調で続ける。
 「何処ってお前…気付いて居ないのか?」
 「痛【つ】…」
 頬の辺りをちりりと走った痛みに珊瑚は顔を歪めた。
 「血は出てませんから、そう深くはないみたいですがね。」
 珊瑚はやけに気恥ずかしくなって、無造作に彼女の小さな傷をなぞった弥勒から思い切り顔を反らす。其のついでに、多分赤くなっているだろう頬を見せまいと、そそくさと彼の前に立った。
 「いっ、いらないよ、手当てなんて。それに、ほっといたって治る様な傷に薬布使うなんて勿体無いじゃないか。」
 いつもは穏やかな弥勒の声音に、僅かだがはっきりと険が加わる。其れに気付かぬ珊瑚ではないが、敢えて黙殺した。
 「例え浅い傷であっても、その美しい顔に跡でも残ったらそれこそ大事【おおごと】。いいから、これを貼っておきなさい。」
 未だ自身の掌に収まったままの薬布を再び珊瑚に差し出す弥勒だが、彼女が振り向く気配はない。 
 「そんな大袈裟な…。これ位の傷なら、多分ちゃんと治るよ。それに万が一跡が残ったって、あたしは別に大して気にしないけどな。」
 照れ隠し、そして軽い気持ちで言って踏み出した足が、突然行き場を失った。力一杯掴まれた手首が悲鳴をあげ、珊瑚は勢い良く振り返る。其処にいたのは、酷く真剣な眼をした法師――では無く、自分がついぞ其の名を口にした事のない弥勒という、男。ごくごく小さく、珊瑚の心臓が撥ねた。
 そして次の瞬間にはもう、其の腕に包まれて居たのは、彼が彼女の手首を引き寄せたからか、はたまた彼が歩み寄ったからか。
 (本気だ)
 此れは根拠の無い只の勘だ。けれど今までに外れた事など無いに等しい。
 「もしお前が気にしなかろうと」
 弥勒がぼそりと呟いた。彼は真に伝えたい事であればある程そういう言い方をする。
 「俺が嫌なんだ」
 いつもなら耳まで真っ赤にして硬直する筈の珊瑚は、今日は全くと言って良い位に鼓動の数を増やさぬ自身の心拍数を思いながら、弥勒に抱きすくめられたままで黙って彼の言葉に耳を傾けた。
 (どうしてあたしは黙ってるんだろ)
 彼の真意が知りたい、其れも確かに有る。けれど今珊瑚が状況を受け入れて居るのは、心の何処かで彼女がそうして居る事に心地良さを覚えたからだった。
 それなのに例え口が裂けようとも弥勒には言えない、そうも思う。何故ならこの関係は限り無く二人らしい、其れは恐らく真実の事だからだ。
 ぼやぼやと考える珊瑚は、ここで現実に引き戻される。弥勒の暖かく力強い両の腕と彼が纏った抹香とが離れて、混じり気の無い黒の瞳が真っ直ぐ、目の前の彼女に視線を注いだ。
 其れが珊瑚の顔の横辺りに隠れて居たのはほんの数秒だったが、二人並んで歩いた時分にどんな色をして居たか、彼女はもう思い出せない。しかし、むしろ其の方が良かったのか知れなかった。
 (あれは、法師様であって法師様じゃない)
 「お前には俺や犬夜叉と共に戦えるだけの力がある。かごめさまや七宝、そして皆を守ろうという気持ちもある。戦うなとは言わん。だが――珊瑚、俺が守るからその美しい顔に傷など付けるな。お前が皆を守りたいように、俺もお前を守りたい。せめてそれ位、守らせろ…。」
 (な、何言ってんのよ、法師様・・・)
 ここで珊瑚は、漸く――というのも何処かおかしな話だが――顔に血が昇ったのをはっきり感じ取る。
 (でも、さっきの勘は外れじゃないし)
 告げられた言葉は真摯なもので、それ故か珊瑚の赤面の意味もいつもとは少し違った。何を言うでも無く、二人は暫し見つめ合う。其の場を支配する時間は驚く程ゆっくりと流れた。
 どうやら弥勒は、彼女が応えを口にするまで微動だにしない積りらしい。先程の言葉、一見した程度なら二者択一と取れない事も無いが、彼の物言いから察するに、珊瑚に許されたのは承諾の二文字だけだった。
 (ま、今回に限ってはそれでもいいんだけどね)
 理由は考えるまでもない。ごく単純で、けれど何より大切な事だ。
 (だって…嬉しかったから)
 特別な感情を抱きつつある男【ひと】に仲間の一人以上の存在として見られる事が嬉しくない訳があろうか。今は想いを伝えられずとも、奈落を撃ち倒して故郷の皆の仇を取り、弥勒の抱える時間制限を取り払った先にあるのは、希望満ち溢れる未来だと彼女は信じて居る、だから尚更だ。
 (素直になる事も偶には必要だよね)
 そう思うと、顔は未だ暑いけれども、自然に笑みが溢れた。予想していたよりあっさりと、言いたい事は形になる。
 「法師様がそう言ってくれるんなら、そうしてもいいよ。絶対、とは言い切れないけどね。」
 珊瑚の発言に、思わず弥勒は脱力した。手の中でしゃらり、と鳴った錫杖の金属音がやけに寒々しい。
 (こいつ――俺の言葉の意味、ちっとも理解してねえな…)
 余りの事に頭を抱えそうになった彼だが、不意にわいた悪戯心に耳を傾けた。
 (仕置ついでにちっとばかしからかってやるか)
 割合長く合わせて居た視線を一旦外して息を吐く。お得意の笑みを浮かべて珊瑚に目をやる弥勒は、法師としての丁寧口調に切り替えた。
 「かごめさまに伺ったのですが」
 一度言葉を切って珊瑚の反応を確かめる。思った通り、訝しげな様子で彼女は続きを待って居た。
 ――次は、ほんの刹那の動作。
 軽く一歩踏み出して頭を下げ、珊瑚の頬へ唇を近付ける。僅かな赤みを帯びだ傷口にそっと口付けて直ぐ、後ろに離れた。彼女の顔はほんのり朱に染まる。
 「この、不良法師…。」
 「何とでも」
 (相も変わらず、初【う】い娘だ)
 「・・・で?」  膨れっ面で先を促す珊瑚に、弥勒は知らず、口を緩めた。だがしかし、気付かれぬ様、そしらぬ顔で残りを続ける。
 「ええ、かごめ様の国では、男【おのこ】と女【おなご】が最も大事な契事をする際、神前で口付けを交わすのだそうですよ。」
 普段の珊瑚ならここいらで間違い無くもう一度赤面するのだが、今日は全く予想が付かない。
 (珍しい事もあったもんだ・・・しかし、これはどうかな?)
 彼女の傍でこう、呟いてみた。
 「だからお前はもう、破る事は出来ないぞ。」
 耳朶に囁きの吐息がかかるけれど、何故か珊瑚の心はそれ程波立たない。自身でも驚いた様だが、殆ど平静なまま、彼女は切り返した。
 「そんなの。女たらしの法師様がやったって大して効果ないよ。一応、あたしは自分で言った事位は守るけど。」
 妙に拍子抜けたらしい弥勒が、珍しいものでも見るかの様な目で珊瑚を見る。次に尋ねた口調も彼にしてはどこか、間延びして聞こえた。
 「やけに冷静ですね。これでは余り面白くありませんな。一体どうしたんです?」
 「別にどうもしないけど、今は…。」
 無意識に口から飛び出た言葉にはっとする。
 (ああ、そういうことか)
 珊瑚の中で、些細ではあるがずっと引っ掛かって居た疑問はきれいに氷解した。彼にしてみれば意味不明だろうと思いつつ、珊瑚はさも楽しそうに微笑む。
 「今は…、何ですか?」
 「いや、何でもな――ううん、秘密。」
 (教えてなんて、あげないんだから)
 ――遭魔が、時。
 「珊瑚、そんな堅い事言わずに…。」
 いつの間にか手の中に有った薬布をいじりつつ、そのくせ直もしつこく訊いて来る弥勒はまるきり無視して、珊瑚は後ろを振り返る。
 暫く足を止めて居た為だろう、七宝と雲母が追いついて来た。







 辛うじて残って居た軽そうな色をした木の葉が一枚、また一枚と地を這って行く。其の度に耳に入るかさかさという音はどこか寂しく、閑散とした雰囲気を漂わせていた。哀愁の満ち満ちた冬山の景色を少しでも払拭せんとばかり、辺り一面に日光が照り映える。
 ふわふわ揺れる七宝の栗茶の髪先を赤く染め上げる其れの余りの眩しさに、彼は小さな掌で影を作った。
 (あの二人、大丈夫なんじゃろか)
 「のう、雲母。」
 普通に聞けばかなり不可解だが、雲母には何となく理解できるらしい。人語に直せば相槌と取れそうな鳴き方をして、彼女は僅かに背中を揺すった。
 「き、雲母っ、揺らさんでくれえ…。」
 途端に七宝の慌てた気配が感じ取れて、雲母は動きを止める。体勢を整える彼が居るのは、無論変化した彼女の背の上。
 かなりの間自分の足で歩いていた七宝だが、先程流石に音を上げ、こうして運んで貰う事となった。何やら情けない様にも思えるが、丸一日山中をうろつき、戦闘にもきっちり参加した事を考えると、幼子にしては良くもった方だろう。
 さて、見た目からすると妙にませたこの子妖怪が山歩きから解放された今何を思って居るかと言えば、先程彼が心中でごちた事ばかりである。闘いの最中目にした、かごめの泣きだしそうな顔―其れが何時までもちらついて離れないのだ。
 (一体かごめに何があったんじゃろう)
 彼女があれほど辛そうな顔を見せるとは余程の事が有ったに違いない、其処辺りまでなら七宝にも容易に理解し得たが、其の先は全く想像できない。
 (本当に、何があったんじゃ)
 幾度目かの答の見えぬ疑問に、やはり幾度目かの溜め息を吐いて、彼は子供ながらに頭を悩ませた。
 こういう処は、其の愛くるしい幼児の外見より七宝が遥かに長い時を過ごしてきた事実を暗示したが、それでもまだまだ幼い。
 視界の端に弥勒と珊瑚を見つけて安堵し、振り返った彼女が手招きしたのを認めると、疲れも忘れて自分の足で山道を駆け降りる姿は、紛れもなく普通の子供のものだった。追ってくる雲母は、対照に変化を解いても泰然としたものである。
 「弥勒っ、珊瑚っ…」
 「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。ほら、おいで七宝。」
 走りながらも必死に声を上げると、珊瑚はしゃがみ込んで七宝を抱き留めた。犬夜叉程ではないがそれなりに鼻のきく彼は、手甲の嵌【はま】った真白い手から立ち上る薬の苦い臭いに軽く眉を顰める。
 「どうかした?」
 雲母が近くまで寄って来るのを見遣りながらも彼の小さな顰【ひそみ】を見逃さなかったのだろう、珊瑚が言った。彼女が持っているのは薬布。
 ――目は口ほどにものを言う――言葉通りに、珊瑚は七宝の視線を追って其の意味する処を知る。
 「ああ、これ?七宝にはきつかったかな。」
 少しばかり皺の入った薬布を持ち上げてみせて、彼女は別の言葉を継いだ。
 「悪いんだけど、これ、顔に貼ってくれない?自分じゃいまいち分からなくてさ。」
 「お安いご用じゃ!!」
 珊瑚の体温で暖められた其れを受け取る七宝を、弥勒はいかにも羨ましそうに眺める。冗談めかした軽い口調ながらも、眼で果てしない本気を語るこの男に、七宝は半ば呆れ、半ば感心した。頼まれた通りに薬布で傷を覆う幼子の其の横で、それでも諦めきれぬらしくぽつりと呟いた彼は、本当に法師なのやら何なのやら。
 「珊瑚、何もわざわざ七宝に頼まずとも私が」
 「せんでいい。」
 「…そんなに力一杯言わなくとも。」
 相変わらずの夫婦漫才、と言ったら珊瑚は怒るだろうか。理由はともかく、この他愛ない会話はいつも以上に柔らかい。怪我の手当だというのに珊瑚は何処か嬉しそうだし、脇で見ている弥勒の笑みは本当に優しかった。
 勿論七宝は二人の今までのやり取りを知らないし、知る必要も無い。だから取り敢えず、この一言で片付ける事にした。
 (大人とは難しいものじゃのう)
 全く、と声に出さずに呟いて、七宝はやっとこさでもう一つの問題――此方はかなりややこしい事になっている様だが――を思い出す。途端に顔が曇った。
 「有難う七宝。助かったよ。」
 どういたしまして、と曖昧な感じで告げた彼は其れ以上何も言わない。珊瑚は心根の優しい娘だ、七宝の様子に居たたまれなくなって、苦笑と吐息混じりで問いを投げ掛けた。
 「で、一体どうしたの?血相変えて走って来るんだから、吃驚したよ。」
 「――かごめの様子がおかしいんじゃ。さっきは、泣きそうな顔をしておった。何かあったんじゃないかと、おら心配で心配で…。」
 「まあ、あったんでしょうな。」
 しゃあん、と錫杖でもって一際透き通った音色を響かせた法師が言う。それを受けて、うん、と珊瑚が頷いた。七宝は瞳を丸くする。
 「何じゃ、二人とも気づいておったのか?心配ではないのか?」
 「そりゃ心配だよ。でも…。」
 「原因は間違い無く犬夜叉でしょう。ですから我々の踏み込んで良い問題ではありませんし、かごめさまは我々の前では何事も無かった様に振る舞おうとなさっていた。どうしてだか分かるか、七宝?」
 同意を求めてか、珊瑚の切長の瞳が七宝を見つめた。暫し考えて分かった結論にはっとする。
 「おら達を、心配させない為、じゃ…。」
 かごめの思いやりに幼子の胸が痛んだ。彼女の想いを踏みにじって仕舞った気がして、途切れ途切れにしかものが言えない。けれども弥勒の慈愛に満ちたその表情は変わらず、代りに少しの厳しさを含んで居た珊瑚の両の目が緩く細められた。
 「そういう事です。ですが七宝、かような御様子のかごめさまを見て、心配するなという方がどだい無理な話。かごめさまのお気持ちが分かっているのなら、それでいいのですよ。」
 「そういう事。ま、後は犬夜叉に任せときなって。」
 目尻に溜った露を払って幼子は微笑む。次の瞬間にはもう、元の七宝に戻ったのだが、まだ気に成る事が在るには在るらしい。。
 「で、でもあいつに任せていいんじゃろか?犬夜叉の機嫌を直すのはかごめがうまいが、犬夜叉がかごめの機嫌を直せるのか?」
 七宝にとって最も大事なのはここだった。原因が何なのか気にならないと言えば嘘になるが、かごめが元気になってさえくれれば、この際後の事はもうどうでもいい。七宝らしい考えに、思わず珊瑚は笑い声をこぼした。
 「大丈夫だよ、かごめちゃんなら。かごめちゃんの事は七宝だってよく分かってるだろ?」
 「あの馬鹿を信じろとは言いませんが…。私もかごめさまを信じます。すぐに丸く収まりますよ。」
 「おらも…かごめを信じるぞ!約束じゃ!」
 「み?」
 迷い無い顔で七宝が宣言して、三人はそっと笑い合う。一歩後ろで彼らを見て居た雲母は首を傾げて短く鳴いた。
 後ろを歩く二人の姿は未だ見えない。けれど、もう幾らも経たぬ内に目指していた小屋に付くだろう。今の二人は、互いにどの様な想いを抱えて居るのやら。
 もう、夕刻が近い。