言葉には、力がある。
 それが真実だと云うのなら、譲れないたった一つを守りたい。
 その為には、どんなことだって…。







約束
yakusoku








 いつも以上に遅々として進まぬかごめの歩みに合わせて足を運びながら、犬夜叉はじっくりと眺めた事など滅多にない彼女の背姿から視線を外して、時と共に色彩【いろ】を変え続ける大空を見透かさんばかりに僅かに面を上向けた。
 (高えな)
 晴れた日の冬空が高いのは当たり前なのだが、半分だけは妖という成り立ちの其の体は寒暖にやや疎いらしい。したがって、自身で四季を感じ取り得るのは視界が主であった。
 (何か、気に食わねえ)
 普段なら、只高いと思ってそれで終りだろうが、何故だか今日は、そうは問屋が下ろさない。腹立たしげに犬夜叉は指を鳴らした。乾いた音がして、彼は何のという事も無く回想に耽る。
 神楽が退いて、皆は再び村へ、そして取り敢えずはそう遠くはない場所に有った小屋への帰路へと着いた。静かな所為か、やけに時間の流れは遅い気はするが、実の処はあれから僅かしか建ってはいない。
 始めこそ一人取り残される形に成った犬夜叉だが、最後尾のかごめに追い付くのは非常に早かった。今更ではあるが、古今東西、男の歩みは速く、女の歩みは遅いものだと相場は決まって居る。ついでに言えば、其の性格からして彼の歩みの速度が半端ではない事も要因の一つなのだが、どうもそれが全てでは無かったらしいのだ。
 ――今追い付けば、かごめは一人で居る。 
 下ばかり見て、自分から顔を反らそうとするかごめの様子の余りのおかしさに、犬夜叉は邪魔者の無いこの状況でなら、と彼女を問い詰める積りだった。けれどいざ二人になってみると、かごめは彼女らしからぬ近寄り難い雰囲気で、相も変わらず顔を伏せぎみにしたまま黙々と歩いて居る。
 基本的にはかごめに弱い彼が其の無言の圧力に屈しない筈は無く、かと言って彼女を抜き去って他の仲間と合流しようにも、こんな状態で放っておくのも良い気分では無く――と言った訳で今、犬夜叉は付かず離れずの距離を保ちつつ、かごめの後ろを歩くしか無かった。
 普段と完全に逆転しているこの状況、面白いと言えば面白いし、気味悪いと言えば気味悪い。今日ばかりは、彼の機嫌が悪くなるのも当然か知れなかった。
 (気に食わねえな)
 心の中で繰り返して、犬夜叉は指先を鳴らす手をふと止める。途端、極力無視していた周りのものの存在の多さに軽い目眩【めまい】を覚えた。
 独りが彼の常だった昔からこれだけは変わらないのだが、皆が傍に居る時はさして気を留めずに済む、むせかえる様な草木の匂いだとか、音と呼ぶには余りに小さい葉擦れの声だとか、丁度今みたいな気分の時はそういった細かいものを、犬夜叉は彼の過去のせいで研ぎ澄まされざるを得なかった五感でむやみやたらと感じ取るのである。
 (あいつの…かごめの所為だ)
 彼女の様子がおかしいと、自分自身までおかしくなった気がしてしょうがなかった。
 (何もかんも気に食わねえ)
 馬鹿みたいに空が高いのも、吐気がする程強い匂いも、耳障りな数々の音も――俯いて何が何でも己と目を合わせようとしなかったかごめも、全てがが気に食わない。そう、気に食わないのだ。けれども。
 (心配だ)
 「犬夜叉。お前、かごめに一体何したんじゃ!?」
 かごめが横をすり抜けて行ってしまった後、憤慨した様子で近付いて来た七宝の言葉が今になって初めて痛い。
 言われた直後では、まさか彼女の異変が自分の所為などと思いもしない犬夜叉は激怒し、気付けば幼子相手に本気になってしまって居た。
 「はあ?何言ってんだ七宝。」
 「とぼけるな!!無双に襲われそうになった後位から、何度も何度もかごめは辛そうな…今にも泣き出しそうな顔をしとったんじゃぞ!?おらずっと見とったが、無双はかごめに何もしとらん。となると、お前以外におらんじゃろうが!!」
 「知るか。一応言っとくけどな、俺は何もして無え!!」
 「そんなの嘘じゃ!!お前以外に、誰がかごめにあんな顔させるものか!!無神経なお前が気付いとらんだけじゃ!!」
 「何だと!?黙って聞いてりゃ偉そうに…。やってねえったらやってねえんだよ!!」
 この辺りで弥勒という邪魔者が入って、言い合いは中断せざるを得なくなり、どうにもこうにもすっきりしない。あの小生意気な仔狐に一発くれてやる積りだったのが未遂に終わったからだ、最初はそう思った犬夜叉だったが、少し時間を置いて冷静になると其れはどうでも良くなった。
 怒りの薄れて行く代りに、七宝の最後の科白が耳から離れない。
 (やっぱ…俺が悪いのか?)
 お前が気付いていないだけだ、彼はそう言った。実際、そうなのかも知れない。自分がどれだけかごめを傷付けてきたかを考えると、正直有り得ない事でもなかった。
 (だとしたら俺はどうすればいい?)
 華奢な背に語りかけても、【いらえ】が返る事はない。今すぐ抱き締めて問いたくとも、かごめは全身で告げていた。
 ――今は、一人にして、と。
 (どうして俺は…。)
 とてつも無く暗い気持に襲われる。けれど、かごめは決して自分を拒絶してはいない、犬夜叉にはそう思えた。其の推測にすがり付き、彼は唯々彼女を見詰める。
 暫く歩くと、平行感覚の敏感な犬夜叉には、ゆっくりゆっくり、道が平坦さを増すのが分かった。部分的に小屋らしき物が見え始め、仲間達は其の前に佇んで居る。
 彼らは皆一様に、口許は笑んで居たが、瞳は酷く真剣に一つだけの事を犬夜叉に語りかけた。かごめを頼む、唯、そうとだけ。
 (分かってるさ…だから)
 彼だって自分の性格がどうか、それ位はちゃんと知って居る。余計に傷付けて仕舞いそうで、正直怖くて不安だった。けれどかごめに、辛い顔、悲しい顔をさせるのはもう御免だ。かごめは笑って居てこそ彼女らしい。
 (俺に出来る事は全てやる)
 自分でも分かるか分からないか位に、犬夜叉は首を縦に振る。陽の光りはやけに眩しく目を刺して、皆はそれぞれに瞬【まばた】いた。







 甲高い声で風が嘶【いなな】いて、対称に低い音を響かせる小屋を丸ごと揺さぶる。随分と立て付けの悪い古びた戸を力任せに押し動かした犬夜叉の顔は、内部のすえた臭いの為に歪められた。
 其の彼に続いて足を踏み入れたかごめが、戸板を閉めるのに四苦八苦して居たが、敢えて手は出さない。
 彼女より一段高い床板の上で、犬夜叉はいつの間にか――或いはそうしたかったからかも知れないが――遠くに意識を飛ばして居た。そうしたままで、妙に冷静に今自分の居る其の場所の外観を思い出してみる。
 一見しただけでは分からないが、建物はかなり年季の入ったものであった。元々其所は、数日がかりで狩りをする猟師の仮宿として造られたものだったのだろう。普通の民家より一回りは大きく、冬でもきちんと風雨をしのげる様に、かなり頑丈にできているのは誰の目にも明らかだったけれど、建てられてから、もうかなり長いらしく、使われた木材はどす黒く変色し、あちらこちら腐れ、青緑の苔だか黴[かび]だかが辺り一面にへばり付いている。
 それでも屋根だけは一番最後まで手入れがされていたのだろう、辛うじて落ちてはいないようだったが、端々が欠け、穴はそれこそ無数に空いて居た。
 ――言うなれば、廃屋【はいおく】一歩前、といった風情か。
 中は中で、屋根も壁も崩れてこそいないが、穴だの隙間だのからひっきりなしに細い凍った風が吹き込む。床も似た様なもので、埃と泥に塗【まみ】れ、土足のままで何ら不都合も無かった。
 かごめは未だやかましく鳴る扉と格闘を続けて居る。態とらしい、そんな気もしたが、追及する気はついぞ起きなかった。
 「みんな、悪いんだけど犬夜叉と二人にしてもらえない?」
 最早言うまでも無かろうが、皆と合流して間もない内に、かごめはそう切り出した。状況が状況なだけに彼女の要望は実にすんなりと受け入れられ、皆、の方に入る弥勒、珊瑚、七宝、雲母は外で小休止を取っている。
 かごめ、そして犬夜叉は彼女の願い通り、小屋という密閉空間に二人きりだが甘い雰囲気は見事なまでに一切なかった。どころか外ののんびりした空気とは裏腹に、どこか張り詰めた感さえ有って、犬夜叉は居たたまらない気がして仕方が無い。
 と、ごとごと小うるさい音が止んだ。どうやら諦めたらしい。ほんの少し開いたままの外界との境目から漏れる光りにかごめの髪が柔らかく包まれた。
 「怪我の手当てするから、そこに座って。」
 振り向きもせずに、極端に抑揚の無い、というよりは無理矢理に其れを殺した普段より微妙に低い声で彼女は告げる。有無を言わさぬ迫力に、犬夜叉は大人しく従った。
 其の時、何故かかごめに、つまり戸口に背を向けて腰を下ろしたのだが、後で彼は自身の気まぐれに多いに感謝する事になる。がしかし、其れは今知る由もなかろうか。
 さて、いつもと違って、彼のそんな素直でない行動を咎めもせずに、かごめは手慣れた風に胸紐をほどいて袷を開く。彼女の予測を上回る数の傷が現れた。
 中には殆ど塞がったものも多く見受けられたが、そうでないものもかなりある。やはり衣が緋色というのは怪我の程度が分かりづらい。
 一瞬、何か言いたげに惑ったかごめの手先はやけに荒っぽく犬夜叉の身体に手当てを始めた。
 彼の上半身に消毒液を塗ったくった彼女は、素早く一つ一つの傷に的確な処置を施して行く。まだ癒えきっていない其等の中の浅いものには薬布をたたき付け、深いものには薬草を煎じた塗り薬を擦り込んで包帯を巻いておいた。
 無論、かごめは終止頭を垂れ下げて一切口をきいてはいない。何となく暝目して居た犬夜叉も、珍しくされるがままにじっと動かなかった。
 そうこうするうち前半身の治療が済んだらしく、かごめがつい、と立ち上がる気配がする。余り良い心地のしない木材の軋みを聞くと、犬夜叉はほぼ無意識に、背を覆う白金[プラチナ]の髪を利き手で前側へと掻き集めた。この辺り、既に暗黙の了解と言える。
 絹糸のような髪が除けられた背は、少しの幼さこそ感じられるものの十二分に逞しい。
 床にきちんと座ったかごめは、先の俊敏さを何処ぞへやって仕舞ったかと思う程にのろのろとしか動かなくなった。いや、動けなくなったのか。
 背中には大きな傷が、一つ。ゆるい弧を縦に描く其れは、犬夜叉がかごめを抱き竦める様にしてかばった時、神楽が付けたものだった。赤い筋はぱっくりと開いて居て、中はぬらりと輝く。かなりの出血が見られた。
 「これ…痛かったでしょ?ごめんね。」
 指で掬ったたっぷりめの塗り薬で傷を埋めながら、ぽつりとかごめが訊いた。口調が違う。心此処に在らずと言った雰囲気だが優しげにも取れて、思わず安堵を感じつつ、犬夜叉は普段通りに返答した。
 「大したこた無えよ。いつもの事だ。」
 そう、と小さな声で言って、かごめは包帯を取り出す。きちんと巻いた。
 そこで治療は終りだが、今日ばかりは違う。これからが、大切なのだから。
 全身を震わせるかごめがそのまま、犬夜叉の躯に腕を回して抱き締めた。傷口の少し上に額を押し付けると、前髪が犬夜叉の首筋を擽【くすぐ】るが、彼はそれどころではない。姿が見えないままに薫る甘い匂いに思考が狂わされそうな気がする。
 「…か、かごめ?」
 「いいから、じっとしてなさいよ」
 かごめの拘束位、容易く振りきれそうなものだが、身体がぎしぎし音を立てて硬直するのでそうもいかない。それでも目を真ん丸く見開いて振り返ろうとした犬夜叉を、かごめの声が押しとどめた。 
 「こうしてないと、なんか、あんたが生きてるって実感がしないのよ」
 「ばっ、何言って…」
 「じゃあ!」
 語尾を、荒げる。ぎゅう、と頭の芯が締め付けられる音がして、一瞬だけ茶の板敷きの床に薄黄がかかった。そう言えば、先【さっき】から空気を吸い込んだ覚えが無い。しかし深呼吸をすると、かえってくらくらとなって、かごめはもう、口が動くに任せてしゃべるしか無かった。
 「――じゃあ、どうしてあんな事、言ったのよ?」
 「あんな事?」
 「あたしが無双に襲われた後、あんた言ったじゃない!!自分の命よりあたしの体の方が大事だって!!どうして…」
 「どうもこうもあるか」
 薬は、かごめの指先きにまだ少し残って居る。人肌に触れて初めて効力を発揮する其れは犬夜叉の体温で臭いを一層きつくした。
 主な手当を受け持った利き手は避けて、かごめの左手を包み込む。ぴくんと小さく、彼女の肩は揺れたらしかった。
 「俺はただ、思った事をそのまま言っただけだ。気にするこた、無えだろう?」
 「あるわよ!!」
 限界が近付いて来た。気付けば喉はからからで、自然に声が擦れる。
 「言葉には、魂があるのよ。言ったら、ほんとうに、なるの。そう思ってるなら、なおさらよ…。――あたしを大切だって言ってくれたこと、嬉しくなかったっていったら嘘だけど。だけどね犬夜叉。一つだけ、一つだけでいいから…約束してほしいの」
 力を込めて、もう一度犬夜叉を抱き締めた。酷く不思議な気分に成って、囁く。けれどきっと、はっきりと犬夜叉へ届いた。
 「もう、あんなこと言わないで。」







 先程までは鋭かった筈の部屋の温度は、随分和らいだ。小屋のあちこちから茜色をした夕焼けの欠片が迷いこんで来て、部分部分暖かい。
 (やっと言えた)
 一日だって経っていなかった。けれど彼女にとっては永遠とも思われる程に長い時間で、張り詰めた糸が音を立てて弾ける。
 (約束させるまでは泣かないつもりだったのに)
 決めていたのに、言っただけで気が緩んで、ついでに涙腺も緩んだ。
 「…っく」
 全ての声を殺しきれずに嗚咽が漏れて、甘やかな――けれど塩辛い雫が静かに犬夜叉の背を伝う。彼の、其の背が震えた。かごめの腰巻【スカート】に犬夜叉の衣に、黒い染みを産み出して、後から後から雫は落つる。
 泣き出して仕舞えば、流されずに残るのは真実思う事だけだが、悲しい事にとても断片的だ。
 それでも伝えたくて、理解【わか】って欲しいこの感情を何と呼ぶのか――誰か、知らないだろうか。
 「あたしはっ、あたしは――あんたに笑ってほしいから、生きててほしいから、だからここに居るのよ?それなのにもしあんたが死んじゃったら、あたしはどうすればいいの?どこに居ればいいのよ!!あたしの居場所、とらないでよね…」
 言いながら、上手く回らない頭でふと思った。
 (あたしは、言っちゃいけない事言って、犬夜叉を苦しめてるのかな) 
 (これはわがまま?)
 彼はいずれ、彼女を置いて嘗ての――いや今もか――恋人の巫女と逝くと既に決めて仕舞っているのだ。けれど自分は、別れを告げようとした犬夜叉を忘れられず、ただ彼の傍に居たいと願った。
 受け入れられ傍に居る事を許され、さらに別な事まで望む自分、死を覚悟した彼に生を押し付ける自分はどう映るのか。
 (嫌な顔を、してる?)
 そう思ったのは二度目だった。一度目は、本来なら決して交わる事の無い桔梗が犬夜叉に選ばれ、彼女に嫉妬の念を抱いたほんの一瞬に、彼女が居なくなればいいと考えた時だ。
 自分の利己【エゴ】、そういう観点でみるならば、今回の事もそうなのかもしれない。
 (でも)
 かごめ自身もまた、犬夜叉とは違う苦しみを抱えて居る。よく考えれば、犬夜叉は死ぬ為に今を生きて居る訳では無いし、何より言いたい事を我慢する自分は自分らしくないとも思うのだ。
 (嫌な顔してたっていい、少しくらいわがままだっていい)
 今彼に顔を見られる事はないのだ、今のうちに全て流して仕舞えばいい。我侭だろうと何だろうと、此れが偽らざる本心――ならば何故隠さなければならないのか。
 (それに)
 彼の生がよりよいものになる助けに、なるやもしれない。
 「わがままだって分かってる…でもこれだけ。お願いだから約束してよ。――あたしだけ見て欲しいとか、そんな事言ったりしない…ねえ、約束して、約束してよ…っ――」
 涙は、止まらなかった。







 裸の背を覆う体温が暖かくて、やけにせつない。水滴が滑る度、身体の中を雷【いかづち】が走り抜けて、気持ちが猛っては凪いで、凪いでは猛ってを繰り返した。
 (また、泣かせちまった)
 どうして自分はこうなのだろう、などと今思ってもさして意味をなさない言葉がぐるぐると回る。
 (それだけじゃ無え)
 泣かせた代わり、せめて彼女の願いを叶えてやれるならば、罪滅ぼし程度にはなろう。けれど其れはどうしてもしてやる訳には行かないのだ。
 (俺の所為でかごめはこんな泥沼に踏み込む羽目になったんだ)
 もし万が一己が彼女と出会わなければ――あの時の孤独は思い出すのも不快なので実の処進んで考えたくはないが――かごめは彼女一人を想ってはいない自分に寄り添い、傷つき、これ程辛い思いをしなくて済んだのである。
 そう思うからこそ彼女を護り、望みを聞いてやりたい。それなのに、否だからこそ今、かごめが最も欲しているだろう是の答えは返せない。
 (もし、お前が言った事が本当ならな)
 言葉には魂がある、かごめはそう言った。そしてまた、其れは現実になる、と。
 (かごめを守れるんなら、俺の命なんざくれてやる)
 そうほいほいと死んでやる積りは無いが、もしもそういった状況に陥った場合、犬夜叉はそうする事に何の躊躇【ためら】いも持たないだろう。
 けれどかごめは己が命を軽んじるな、そう言いたかったのだ。
 だから言えない。分かったと約束してはやれないのだ。言える言葉は唯一つきり。
 「すまねえ…。」
 (お前は何より大事なもんだから)
 利き手に握ったかごめの左手、白くて細い指先にそっと口付ける。
 騎士【ランスロット】が姫君【ギネビア】に忠誠を誓いながら、それなのに許しを乞う様な、情景――ささやかな誓いの儀式――そんな物を思わせる。
 かごめの眦【まなじり】に浮かぶ熱い水が数瞬止まって、またとめどもなく流れだした。
 「…馬鹿」
 そう言われてもひたすらに、初めよりはっきり呟く。
 「…済まねえ」 
 呟く――ひたすらに。







 この季節、日のくれがたとも成れば、しきりと吹く風は痛冷たく、体に張り付く先から熱をもぎ取ろうとばかりする。けれど暖色の夕光が直ぐ降りて来る所為か寒気は無く、代わりに不思議な心地良さが有った。 
 あるもの全てを包み込む優しい夕焼けは、それでいてどこか悲しい。余計な色は一切持たず、全ての明るい色みを持って居た。当に絶景である。
 真昼よりは少し近くに見える気のする夕陽に向かって飛ぶ、最早影姿【シルエット】でしかない鳥が二羽三羽、三羽四羽と連なって声高に鳴いた。
 穏やかで安らかな一時、七宝は芒【すすき】を猫じゃらしに雲母と戯れ、手近な切株に腰をかけた珊瑚は武具の手入れに勤しむ。
 仔狐が何処ぞより見付け出してきた芒は、生気のない薄い黄土で何かもの悲しいが、違う意味で良い具合に哀愁の漂う男が一人。小屋の真ん前に陣取って中を覗き込む彼が誰か、言うまでも無かろう。
 出歯龜【でばがめ】を悟られるのを防ぐ為、弥勒は自身の気配を絶って居た。何もそこまで、そう思う程の念の入れようだ。風に嬲【なぶ】られても手の錫杖に音の一つも立てさせない辺り、本気なのだろう。或る意味大したものである。
 ――がしかし、威厳ある暗色の衣を纏った広い背が、縮こまって縮こまって、僅かに開いた戸の隙間を伺う様はどうにもせつない。
 「そこでがばっといかんか、犬夜叉!」
 微かに上がった、呟きより小さい声を正確に聞き取った珊瑚は思わず、飛来骨を磨く手を止めた。
 「ったく、何やってんだか。あれじゃ逆立したって良い大人の見本にゃならないな。」
 呆れて半眼になった彼女の側に、いつの間にか妖怪二匹、連れだってやって来ている。
 「安心せい。おらは決してあんな風にはならんぞ。」
 「よく言った、七宝。くれぐれも頼むよ。」
 「当然じゃ。」
 「…あのね。」
 戸口から顔を離して、弥勒が振り向いた。無論、小声のまま。
 「お前達、一体私をどういう目で見て」
 「どうも何も、事実そのまんまじゃないか。」
 「その通りじゃ。おらはこんな大人にはなりたくないぞ!」
 「失敬な!!」
 自分の科白を遮ってまで向けられた言葉に、声量が上がる。
 「いくらお心の広いかごめさまでも、相手はあの犬夜叉。何があるかわかりませんから、こうして様子をうかがっているのです。全ては、かごめさまを心配すればこそ――というわけで、お前もどうです?」
 「誰がするかっ!!大体さっきのあの発言は何なのさ?」
 「あれは私の希望ですが」 
 「…あほじゃ」
 声無く拳を震わせる珊瑚の代わりに、七宝がぽつん、とこぼした其の刹那。
 ――どがっ!!
 聞くだけでも痛そうな音が辺りに響いて、よそにすっかり気を取られていた弥勒は、咄嗟の防御も出来なかったのだろう、まともに戸板の下敷きになった。
 「手前ぇ…」
 怒気をはらんだ声と共に、予想通りき緋色がひらめく。
 「また覗いてやがったな!!」
 痛、とうめき声がして、未だに犬夜叉の足が押さえ付けたままの戸板の下から、ずりずりと弥勒が這い出てきた。
 流石と言うべきか何と言うべきか、もう何事も無かったが如き涼しい顔で黒衣をはたきながら彼は言う。
 「いいじゃありませんか、減るもんじゃなし」
 「そういう問題じゃねえ!!」
 「ま、安心なさい犬夜叉」
 ずい、と一歩踏み出した弥勒に、犬夜叉は同じ分だけ後退った。その彼にだけ聞こえる様に、低い声音で一言。
 「何しろ後ろ向きでしたので、肝心な部分は殆ど見えちゃいませんから」
 「な゛っ――この野郎!!」
 「おすわりっ!!」
 「ぐえっ!!」
 弥勒に掴みかかった犬夜叉に、かごめの一言がとんだ。彼の首の念珠が淡い色を燈して言霊に反応する。
 派手な音と、もうもうたる土煙の中にあっても、その叫びがかき消されない辺りが、衝撃の大きさを余す事無く物語った。
 まだ少し赤い目で涙の跡が乾ききっていないながらも、それ以外は普段と変わらぬかごめが小屋から顔をのぞかせると、珊瑚と七宝が寄ってくる。
 「かごめぇっ!!」
 「もう大丈夫なの?」
 短い言葉に、二人の想いが総て込められているのを感じ取って、かごめは嬉しそうに微笑んだ。
 「うん、心配かけてごめんね。ほんとにもう、平気だから。」
 「ほんとか?おら、心配したんじゃぞっ!!」
 「そっか、ありがと。」
 「なら、いいけど…」
 手放しで喜ぶ七宝とは対称に、珊瑚は納得いかないらしく、土埃の立つ辺りへ苦々しげに目を向ける。けれどかごめが心からの笑顔で頷いてみせると、ふう、と息をついてから、にこりとした。
 そろそろ念珠の効果も切れたのか、犬夜叉ががばと起き上がってかごめにくってかかる。
 「何で俺がこんな目に遭うんだよ!!」
 「いくら覗かれたからって、やりすぎよ!弥勒様、死んじゃうわ!」
 「そんなんで死ぬようなタマかよ、あいつが」
 「…それから弥勒様も」
 顔から火が出そうに恥ずかしい、先程の醜態を見られていない事に溜飲を下げる余り、うわの空で言った犬夜叉はまるきり無視して、かごめが見据える先には、弥勒。
 「もう、しないでね?」
 「はは、いやその」
 初めは目線を外して愛想笑いをしていた彼だが、ひた、と注がれる視線に強烈な意識を感じ、結局は折れた。
 ――肌寒い時期だというのに、汗を流しながら。
 「……はい」
 ぷっ、と珊瑚が吹き出す。落とされた肩に仔狐がしがみ付くと、威厳を取り戻そうとしてか、弥勒は空咳をした。
 「とにかく、犬夜叉の治療は終わったんです。日が暮れない内に戻りましょうか。」
 「おら、腹が減って腹が減ってもう死にそうじゃ!!」
 「あたしも。今日は本当に疲れたよ。」
 雲母が珊瑚に追いすがるのを見、かごめも足を踏み出そうとするが、犬夜叉に手首を掴まれる。
 「…かごめちゃん?」
 放っておいても、気付けば大抵は先頭に居る犬夜叉はともかく、下手すればはぐれて仕舞いそうになるこ事もしばしばのかごめが来ないのを不審に思ったか、珊瑚が振り返った。咄嗟に束縛された手を後ろへ隠したが、顔は薄赤いまま。
 「ごめん――先に行ってくれるかな?すぐ、追いつくから。」
 「わかった。」
 簡潔な返答と共に、珊瑚は歩調を速めた。
 あっという間に遠ざかって、向こうからこちらも、こちらから向こうも見えない。 
 「で、何?」
 かごめが向き合おうとすると、容易く手を振り払えた。
 犬夜叉の髪に瞳に、夕焼け、炎の赤が照り映える。見慣れた筈のそれらが、いつもと違う表情を見せた。
 「俺は」
 彼女が小首をかしげるのが、目のいい彼には逆光の中でもはっきり解る。其の仕草に、どきりとした。小さく息を吸って吐いて、また吸ってから続ける。
 「言いたい時に、言いたい事を言う。約束なんざ、守んねえよ」
 かごめの襟元をぐいと引くと、彼女の軽い体は一瞬で重心を失って、犬夜叉の胸に倒れ込んだ。
 「きゃ…っ」
 そのまま抱き込んで、唇を塞ぐ。ついばむ様に軽く、けれど次第に深く。髪に触れ、細い腰に手を回すと、花の香に媚薬を足したより甘い、かごめの匂いが強くなった。
 狂った如く執拗な口付けを繰り返す内、彼女の掌が胸板をとん、とん、と叩くのに気付く。仕方無く、ゆっくりと唇を話した。
 深呼吸の一つもするかと思いきや、かごめは直ぐ、瞳を閉じたまま囁いた。
 「約束、っていうのはね」
 固く閉ざされた筈の彼の腕からするりと抜け出して、上目遣いに悪戯っぽく微笑んでみせる。一方の犬夜叉は、恐ろしく艶やかに笑う彼女を目にして、まるで金縛りにあったのかと思う程に指一本たりとも動かせず、只目を見開いた。
 「守るためにするもんなのよ」
 言って、そこから身を翻す。
 次の瞬間小さく告げ、かごめは羽根の様にふわりと地を蹴った。
 「ちゃんと、守ってよね」
 珊瑚ちゃん、と友の名を呼びながら駆けて行く彼女が小さくなって漸く、彼はぎこちなくではあるが動く事が出来た。盛大な溜息が漏れる。
 たっぷりした長い髪をがりがりと掻きまわした犬夜叉は小さく笑みを浮かべ、そして呟いた。
 「そりゃ、お互いさまだろ」







 ――約束。
 ひとのこころを縛ることも、強くすることもできる、たくさんの意味を持つもの。
 願わくは、あなたの望みが叶いますよう…それは初冬【はつふゆ】の、日の。