見つめる目に、揺らぐ想い。
 どんなに必死に抗おうとも、敵うはずもないのだ。
 それは多分、愛しくて愛しくて――どうしようもないから。






約束・余話
yakusoku yowa








 冬闇は秋霧の名残を飲み込んで風を冷やす。幾重にも重ねた墨流しに貼り付く薄雲は、その内に風花を秘めているのだろうか、空を所々重たい鈍色へと濁らせていた。
 二十日を越えた日月ともなれば月立つ時刻は嫌が応にも遅くなり、朱【あけ】の水干を纏った銀髪の半妖は姿を見せたばかりの有明を、何をするでもなく眼に写し続ける。
 時折走り抜ける凍った疾風【はやて】も、吐く息を白き露に変える寒さも、彼にはさして気にかける事でもないようだ。雅には些か欠けるがそれなりにしっかりした造りの縁側に腰をおろした犬夜叉は、もう随分の間そうしている。
 ――あれからが大変だった。
 村を救ってくれた一行を労おうと、村人達がささやかだが心づくしの宴の支度をして待ち構えていたのだ。そこで困り果てたのが犬夜叉である。割合社交的な他の仲間達とは違い、人怖じするきらいのある彼にしてみれば宴会――言ってしまえば飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ――に加わるなどという芸当ができよう筈も無く。
 それでも仲間の手前、場に座すだけはしていたが、早々に部屋を抜け出して今に至る。
 足を投げだした縁から、長の屋敷でもっとも大きな広間へちらと目をやると、灯【あかり】に照られた障子がゆうらりと翳り、いかにも楽しげな談笑の声が流れ届いた。鼻にきつい酒の匂いが衰えないところからして、宴はようやっとたけなわを迎えたほどであろうか。
 この分なら雑魚寝の揚げ句に宿【ふつか】酔いが落ちだな、そうごちる犬夜叉だが、別段人間を厭うている訳でもない彼の声音は柔らかい。いやむしろ、今宵はあちらにいられた方が良かったか知れないのだが。
 (昨日は確か、冬の月だったな)
 そう、憎んでも憎みきれぬ宿敵である奈落を今度こそ討ち果たさんと、誓うようにして眺めた昨晩の月は冬の月――冬の夜の寒々と澄んだ月のことをこう言う――だった。しかし今晩の月は闇空との際が滲み溶けた翳【かす】み月。黒との境目が赤みがかって、今はまだ密やかなままの狂いを思わせる。
 昨夜もこうやって、同じ刻限、同じ場所で月を見たと言うに、どうしてこうも変わってしまうのか。まあ、そうは言えども、それは己とて同じことで。
 かごめを無双の手から護って、彼女を泣かせて、そして抱き締めた――そのこととは大した関わりもないというのに、帰り際の笑みが忘れられない。かの娘にしてみれば、いつものように微笑んだに過ぎぬであろうのに、今までになく婀娜【あだ】めいて見えたのはどうしてだろう。
 きつくきつく掻き抱いた筈なのに、かごめはいともたやすく抜け出して駆け行ってしまった。その背に見た焔は囁く。少女をこの手に捕らえておきたい、そしてそれは今しか叶わぬと。胸の奥が猛るような紅蓮は、かごめへの想いの丈でもあるけれど、同時にこれは――雄【おす】としての本能だとか、そういった類のもの。
 けれどかごめの約束一つ守れもしない今の己が、飢【かつ】えにも近い牙を彼女に向けるなど許されはしない、そう犬夜叉は強く言い聞かせるも、一方でその意思とは裏腹な調子の呼吸を零した。
 愛しい娘の願いさえ叶えてはやれぬ半端な自分だからこそ次なる過ちを犯すやもしれぬし、自身の心の弱さは妖怪化の一件で痛いほど身に染みている。正直、自分が何をやらかすか見当もつかぬなどこれが初めてだった。
 (出来れば今は、顔を合わせたくねえんだが…)
 本気でそう望むなら昨晩と違って個々人に宛がわれた部屋へ篭もるのが最善なのだが、彼は場を離れようとはしない。犬夜叉の心中の矛盾ぶりは明らか過ぎるほど明らかだった。
 (んなこた判ってらあ)
 そうして彼は飽くこともなく月空を見つめ続ける。







 少しばかり雲行きが怪しくなってきた。黒雲がじわりじわりと光片に迫りきて、しばしば輝きが薄められる。風は相変わらず冷たいが、酷く触りが悪い気がした。
 (やっぱり外は冷えるわね)
 ほうわりほわほわと湯気をあげながら、かごめは薄桃色の輪奈織物【タオル】と洗顔道具一式を腕に抱え、部屋へと向かう。その顔が上気しているのは湯浴みをしてきたからに他ならないのだが、多少酔っているのかも知れなかった。所謂雰囲気に酔ったというやつで、今宵の彼女は随分と機嫌が良い。
 (折角一人部屋で気兼ねしなくていいんだもの、やりかけのページ、終わらせちゃおうかな)
 勉強には明りが必要だが、仲間の僅かな眠りを妨げるのはどうにも肩身が狭い。それに引き換え、一人でじっくり、しかも戦国では珍しく机に向かえる、そういった機会を利用しない手はなかった。
 (ええと。次のテストの範囲は分かってるから…あれ?)
 少しばかりぼんやりしていた所為か今まで気付かなかったが、もう少し行った辺りに緋色が伺える。例え夜であっても見付け易い鮮やかな丹【あか】はしかし、極寒の中であるというのに微動だにしない。
 (まさか、あんな所で寝てる訳ないと思うけど)
 それでも彼が一体何をしているか、興味が無いと言えば嘘になるだろう。
 (…行ってみよ)
 今日の一件で気まずさが残っているようないないような、曖昧なこの状況が気にかかるというのもあるが、それより何より――彼と話がしたいと思ったのだ。
 (こっそり近づいて、驚かすのもいいかな…でも犬夜叉相手じゃ通用しないわよね)
 かごめは知らない。知る由もない。
 …ほんの少しの気紛れが思わぬ結果を生もうなどとは。







 ひゅう、と風が動く。月影の明暗差が激しくなってきていた。今は明るい。
 別世界の淵に沈んでいた犬夜叉は、此方に近づいて来る足音によって卒然に現【うつつ】へと引き戻された。
 それががこめであることなど今更確かめる必要もないが、愛して止まない甘やかな馨【かおり】は否応なしに漂って来る。そして、その中に別の香料と水の匂いが混じっていることも彼は気付いていた。
 「全く、いつの間にか部屋からいなくなったと思ったら…」
 呆れているようにも、はたまた面白がっているようにもとれるかごめの苦笑に、犬夜叉の心臓がごとん、と大きくざわめく。
 今ので赤みを帯びたかもしれない顔と心の動揺を隠す為、敢えて一度は彼女を見て視線を合わせて――何かあるといっつもそうやって、あたしの顔が見れないもんね、とよく言われるのだ――その後些か乱暴に言葉を返した。
 「…悪いかよ」
 果たして成功したようだ。答えるまでの一瞬の間を、かごめは不信に思いもしない。
 「そういう訳じゃないけど、こんな寒いとこにいたら、風邪ひくんじゃない?」
 「お前なあ、この俺に限ってんなことあるわきゃないだろーが」
 今夜のかごめは普段以上に良く喋る。それにつられるように、珍しく犬夜叉も饒舌だった。もっとも、彼に関してはそれだけではないが。
 「わかんないわよ?ほら、鬼の撹乱て諺もあるんだし」
 「――なめてんのか?」
 「冗談よ冗談。」
 「結構本気だったろ、今の」
 薄暗闇の中、真顔で凄んでみせる犬夜叉を尻目に、かごめはあははと小さく笑って、手荷物を床に降ろした。その足で少年の隣へ、ごく自然に腰を据える。ふわりと黒が踊って、華やかな香が舞った。もともと艶やかなかごめのうばたまの髪は、含んだ水気が輝きをそこらに散らして尚のこと美しく、いつもより微かに強く香り立つ。
 どうにかなりそうだと、掛け値なしに思った。
 「何座ってんだよ」
 「いいでしょ別に。それとも、ここにいちゃいけない?」
 (…勘弁してくれ)
 そうは思うけれど。
 「…。」
 「いいのね」
 …結局は、言えない。余りに居たたまれなくなって、犬夜叉は前触れなく話題を変える。
 「――湯殿」
 「え?」
 「湯殿に、行ったのか?」
 苦し紛れの一言だったが、ここで沈黙が訪れるより遥かにましだった。そうなったら自制しきれるやら分からない。――と、思ったのだけれど。
 「ああ、うん。この近くに湧いてる温泉からお湯を引いてるらしいんだけど、ほんとに気持ち良かったわよ。後で犬夜叉も行ってみたら?」
 本当に嬉しそうな楽しそうな瞳で、かごめが自分を真っ直ぐに見つめて話をする。何だか、却って苦しくなってしまった。言葉が詰まって出てこない。
 (かごめ、お前分かってねえな)
 「…ああ」
 「……?」
 自分から問うた割に、妙に上の空な返事をする犬夜叉に、かごめは何とはなしに違和感を感じた。しかしそれも些細なこと。宵惑いにも似た微かな浮遊感の内にいる彼女が頓着する筈もない。
 (あ、そうだ)
 思い付いたのは、ほんの戯れ。酷く子供染みていて、何故考えついたのかわからないけれど、とても良いことのような気がした。
 「ね犬夜叉、手、出して。」
 「何しようってんだよ」
 「いーからっ」
 無言の内に突き出された利き腕。長い爪を持つその小指を自分の小指と絡め、かごめはにっこりした。
 「ちゃあんと、約束してもらおうと思って」
 言って彼女が唄いだす、気が遠くなる程昔の記憶を呼び戻す童歌はどこまでも灰甘く、その旋律は心をかき乱す。
 闇雲が、月を揺るがし始めた。
 「ゆびきりげんまん   うそ  ついたら――」
 謌【うた】は続く。彼の気持ちに気付きもせずに。
 (俺は…)
 この娘の全てが愛しい。だから守りたい。だから触れてはならない。
 けれど…、だから欲しい。だから奪いたい。その瞳もその声も、その髪も。その心も、身体も、その全てが。もう抑えなど効かぬ。
 「…うそついたら  はりせんぼん  のます  ゆび   きっ…」
 最後まで紡がれる筈の詞【うた】は途切れて、終わることもなく。
 犬夜叉の体躯【からだ】がかごめの軆【からだ】に覆い被さった。
 (分かってねえだろ、俺は男で、お前は女だってこと)
 月光は差さず、暗転――。







 世の中、月夜の晩ばかりではない――人々は時折そう口にする。言葉の意味は様々だが、全くもってその通りだとかごめは実にぼんやりと考えた。それは真闇【とこやみ】の檻の更に奥、犬夜叉の腕【かいな】の中でのことだ。  
 正直な処、どうなっているのかがとんと分からない。いや、何が自分の身に起きているのかではなくて、今の状況の差し示す、この先にあるものと言うべきか。
 (え、と…。――あ…)
 ごそ、と犬夜叉が動いた。かごめを閉じ込めていた両腕を解いて彼女の顔の横で突っ張らせ、夜風に晒された脚を跨ぐ格好で膝を付く。骨ばった背から銀の流れが零れ落ち、即席の帷【とばり】がゆるるかに生まれた。
 漸くかごめは我にかえって問う。下陰のせいで、彼女には犬夜叉の顔さえもみえない。
 「犬夜叉、ちょっ、何して…」
 鋭く風が吹いた。幾ら多少は自分に覆い被さっている彼の衣に遮られるからと言って、先程のように密着している訳ではない。針が肌を突く感触にぎくりとしたかごめは、そのまま犬夜叉の一言に絶句する。
 「お前が悪い」
 「なっ…」
 苛立ちと呆れと、そして懇願とをないまぜにした風な声で彼は続けた。
 「無防備も大概にしとけ。お前にゃ警戒心ってもんが無さ過ぎる」
 「どういうことよ、それ」
 いかにも此方に落ち度があるかのような犬夜叉の言葉。かごめは一瞬、自分の置かれた状況も何もかもを忘れた。そうして強い光できっ、と彼を睨みつける――いつものように。
 対する犬夜叉は、普段ならうろたえる事の方が多いだろうその視線に動じもせず、かごめの耳許へついと顔を寄せた。
 「…いい加減に察しろ」
 「あ」
 直【じか】に響く深くてどこか甘い波か、はたまた彼の口から漏れた吐息か、ともかく彼女の口から小さく声が落ちる。
 夜目の利く犬夜叉はかごめの頬がみるみる紅く染まってゆくのを認め、口の端を歪めて――それが或いは笑みだったのかは彼にも判らない――皎【しろ】い首筋に唇を這わせた。華は咲かせない代わり、所々に濡れた痕が残される。
 「…っ、や」
 かごめが躰を震わせ、否の意思を呟いた。華奢な肩にあごを埋【うず】めたままだった犬夜叉は半身を起こして、娘の目を見つめる。光が激しく揺らいでいた。
 「――なら言魂でも何でも使って、てめえで止めろ。悪いが…俺にはもう無理だ」
 言い置いた彼はそのまま右の手をずらし、後は烏の濡れ羽色をした艶髪を幾度も梳くだけだ。
 まるでかごめの答【いらえ】を待っているかのような一時。否――事実そうなのだけれど本当は待つまでもなく、初めから彼女はたった一つしか、選択肢を持ってはいなかった。
 「…るい」
 「あん?」
 唐突にかごめが言い、犬夜叉が尋ね返す。まだしっとり湿ったままのやわゆるい黒に人肌が触れ続けていたからだろう、花に似た洗料は薫り立つだけ薫りたって、かごめの甘い持ち香に混じり溶けていた。
 「いくら何でも、そんなのってずるすぎる」
 「だから何がだよ」
 先と余り変わらぬやりとり。その筈なのに何処か違って。
 「だって、あたし…」
 (あたしは、その眼にはかなわないの)
 この暗がりでもはっきりと判る、妖しく皓【ひか】る蜂蜜色をした両のまなこ。あからさま過ぎる程、挑発の色彩【いろ】が見え隠れするけれど、それは単なる表面でしかない。その、もっともっと内側に潜むものをかごめは知っていた。
 (あの眼はいつだって、独りにしないでって言ってる)
 犬夜叉は孤独だった。そうならざるを得なかったのだ。
 顔すら記憶にない程幼い頃に父を亡くし、そう経たぬ間に残る唯一の肉親であった母に先立たれ、それからはただ、生きる為だけに生きた彼は、永きに渡って独りきりで。かの巫女と安らぎを得たかと思えば、それも泡沫に消えた上に封印を施され、五十年もの間を誰に名を呼ばれる事なく眠り続け――やっと今がある。
 長らく放っておかれた犬夜叉の心は本来の姿を取り戻しつつあるけれど、未だ不安定なままだ。その所為なのか、希望という名の燈火は人よりもずっと小さく、かよわくて。
 周囲から溢れんばかりの愛情を注がれて育ったかごめには犬夜叉の心情を想像してみる事しかできないが、それが消えることほど、彼にとって恐ろしいことはないのではなかろうか。犬夜叉がそういう、縋り付くような眼差しをかごめに向ける事は、さして珍しいことでもない。
 故に今も、捕らわれているのは自分の筈なのに、自分が彼を抱き締めているような錯覚さえ覚えるのだ。
 かごめが犬夜叉を心から好きだという確固たる事実と、だから彼を満たしたいと願う純粋な心と。この二つが常に彼女の中にあることを考えれば、不思議なことでも何でもないのだ。
 (あたしは犬夜叉のこと、大好きだから)
 そう、同情だとか、そんな浅はかな感情は微塵もなく。
 (だからあたしは、絶対にかなわないんだ)
 ふと、犬夜叉の手が止まった。かごめの表情から何かを探るふうな目つきのまま、ゆっくりと髪の一房に口付ける。
 「その続きを言わねえんなら、な」
 上から下まで舐め回すようにかごめを見つめて、彼は最後の一言を吐【つ】く。
 (もう、どうなろうが)
 「…後は知らねえぞ」
 「…っ」
 半眼になって距離を縮めてくる黄金【きん】の双眸に、漆黒の瞳はかたくかたく、静かに閉じられた。







 辺りがじんわりと明るくなる。黒雲が這い進んで鳶【とび】色の寝待ち月が現れたというのに、時間はまるで止まってしまったかのようだ。音らしい音もしない静寂の中、折り重なった影は濃密に絡んでゆく。
 (――静かだな)
 それは果たして何についてだかと心で苦笑しながら、犬夜叉は柔らかく合わせた口唇を軽く浮かせた。
 「・・・、ふ」
  かごめがきれぎれに息をする暇【いとま】さえ許さず、彼は再び彼女に口付けようとする。そうして手頚【てくび】を掴んだ手の平をつつと滑らせ、指の一本一本を捕らえようと試みて・・・けれども。
 「っ」
 声にならない声と共にかごめがびくりとした。大きすぎる程の反応を示したその身体が小刻みに揺れているのを感じ取り、犬夜叉は薄眼を開く。いきなり目を剥いた。
 (ったくこいつは…)
 かたかたと震える目前の娘は今にも逃げ出したそうな顔をしている。それも、きゅっとつむった瞳の縁には露をたたえているというおまけ付きなのだから堪らない。
 ――急速にたぎりが冷えてゆくのが判った。そうなのだ、幾ら犬夜叉がかごめを好きで、かごめも同様に犬夜叉が好きだとしても。彼が彼女を欲していて、彼女が彼を受け入れようとしたとしても。
 (…ならいいってもんでもないだろ)
 かごめの気持ちがおいついていないのなら、それは己の愉楽【ゆらく】にすぎないのだ。少なくとも犬夜叉はそう思う。
 (かごめにゃかなわねえな、俺は)
 かごめの笑顔泣き顔を始め、彼女の挙動全てに犬夜叉は弱い。その事には前々から自覚はあったが、よもやここまでとは。
 (…今回限りだぞ)
 彼女に聞こえる筈もない事ぐらい分かっているが、犬夜叉は無言の内に訴える。一度だけかごめの下唇を指の腹でなぞり、彼は言った。
 「かごめ」
 その名の主が目を開ききってしまうより前に、犬夜叉は半ば組み敷いていた躰を持ち上げる。そうして彼がかごめに囁いた言葉は。
 「そのままじっとしてろ」
 後ろから抱きかかえて腕を回す。
 「――安心しな、何もしやしねえ」
 触れた華奢な背はただ、暖かい。



するすると撫でられた唇は、未だ熱を失っていない。なのに呟いた犬夜叉の声はその熱さにそぐわない気がした。
 (なーんか、子供みたい)
 先程までとはうってかわって拗ねたような犬夜叉の様子がおかしくてならない。
 「じっとしてろ」
再びの投げかけをかごめはくすりと笑んで受けた。
 「はいはい。…あ」
 穏やかな会話を交わしていると、気紛れな風が彼女の手拭いをさらってゆく。慌てて腰を浮かしかけるかごめを、犬夜叉はますますの強い力で抱き留めた。
 「ほっとけよ」
 「え、でも」
 「あんなもん、後でいいだろが…ここに居ろ」
 戸惑った声を押し返すは低い漣【さざなみ】。波動は娘の頭を痺れさせる。
 「――ん」
 かごめは思い直して、犬夜叉に重心を丸ごと委ねた。しっかりと受け止められているのが伝わってくる。
 優しくて快い感覚を存分に味わいながら、かごめは犬夜叉の水干に頬をすり寄せた。
 (きもち、い…)






 どのくらいの間そうしていたのだろうか、いつしか夜は更けて月はかたぶく。痛冷たい風がどれだけ二人を叩いても、互いの温もりは消えもせず。
 「…ん、?」
 真珠色の絹に隠れていた瞼が不意にぶれるように揺れて、犬夜叉の両眼が開かれた。はっきりしない視界にかぶりを振ると、腕に抱えたかごめの姿が写る。彼女もまた表情豊かな瞳【め】を伏せていて、起き出す気配はなかった。
 (眠っちまったのか)
 あの後、かごめが寝入ってしまって暫くの事は覚えているのだが、そこから先はとんと記憶がない。恐らくは心を甘くとろかす匂いに安心しきってまどろんだのだろう――迂闊にも。
 (俺も相当、骨抜かれてんな)
 失笑どころか苦笑する気すら起きず、ただ肩を回して背伸びをした。途端にかごめの上半身がかしいでずり落ちそうになる。支えるついで、軽くゆすって声を掛けた。
 「かごめ――寝てんのか?」
 「ん…ぅん」
 (…ったく)
 意識せず舌打って、力の抜けた四肢を横だきにする。かくんと俯いた頭【こうべ】に手の平を添えると、さらさらした洗い髪が肩口を滑った。辺りに散った小間物を拾い、犬夜叉は板張りの廊下を足早に進む。
 ――ふっ、と小さく息を漏らしながら。



 かごめの寝部屋には既に布団が敷かれていた。犬夜叉は灯【ひ】を付けた手早さとは裏腹な無骨さで娘を横たえる。
 (どこまで呑気なんだこいつぁ…)
 密かに頭を抱え込む彼の前、かごめが幸せそうな顔で寝返りをうった。無防備に晒された顎やそのしなやかな曲線は、正直心臓に悪い。
 「判ってんのか?――こら」
 節くれだった指が滑らかな頬を抓った。かごめはほんの一瞬不機嫌そうに眉を寄せるも、すぐにふにゃふにゃと言葉にならない言葉を呟く。犬夜叉はしばらく安らかな寝息と共に上下する綺麗な額を見つめていたが、そのうちに脣【くちびる】を近づけ、そして――。
 「明日は早えぞ…覚悟、しとけよ」
 (――次は、か)
 最後に続けたかった台詞はどうにか飲みこんだ口唇で、きめの細かい皮膚に触れる。かごめの前髪を一撫でして、静かに犬夜叉は立ち上がった。振り返りもせずに部屋を出て、後ろ手に障子を閉じる。
 小太鼓にも似たぱしん、という音が夜のしじまに沁み渡った。







 北風は凍り付くように冷たく鋭く、あっと言う間に消え去るもの。けれども闇はどこまでもまろやかに空へと溶け、深くたゆたう。
 ――ただ、このささやかな余話を無くさぬ為に。