意識が戻ったのは、もう夜も更けてのちのことだった。ひっきりなしに吹き付ける木枯らしと、沈み込むように濃く広がる闇の黒。瞑目したまま気配を探ってみれば、みなこの小屋の中に留まっている。ゆったりとくつろいだ空気に安堵して、少年はふっと力を抜いた。
 偶然に出くわした魑魅魍魎と、大立ち回りをやったところまでは覚えている。大した力は有していないが、人の身に入ればひとたまりも無いような強い毒を持っている妖怪だ。どうしても戦力は自分へ偏ってしまい、おまけに頭数だけは揃っていたものだから時間も掛かった。
 長すぎる戦闘は、当然のごとく油断を呼ぶ。迂闊にも一瞬の隙を付かれて毒を注がれ、それが体に回ったらしかった。全身の悪寒と鈍痛、それに指先の麻痺。時折こみ上げる吐き気ひとつ取っても、そのほかの原因には考えにくい。毒を受けた以外に怪我はないし、何より傷口は既に塞がっている。
 「犬夜叉とは、いつぐらいから旅をしてるんだい?」
 囲炉裏端に陣取って、仲間たちは思い思いに時を過ごしているようだった。何気ない問いかけの向こうには、金属の摩擦音。妖怪退治を生業とするかの娘のことだ、きっと己が得物の手入れに余念のないことだろう。
 「えっ…と。あと二日で、ちょうど一年ってとこかな」
 「おや、随分はっきりと覚えておいですな」
 少女の言葉に、紫衣姿の青年が訝しげに答えた。抹香に混じって微かに漂うのは、墨と紙の匂い。札の補充をしているということは――この場所を間借りする見返りに、一仕事請け負うことになったと考えるのが妥当だ。倒れた自分のため、彼らは形振り構わず近隣の村へ助けを求めたのだろうから。
 熱に浮かされた頭でぼんやりと考えて、少年はそっと焔の傍を見遣った。話に注意が向いているからか、彼が目覚めたことに気付くものは誰一人としてない。
 「云われてみればそうじゃな。わざわざ数えておったのか?」
 深紅の目の猫又とじゃれあう手を止め、おもむろに指を折りはじめる仔狐。しかし途中でこんがらがったのか、よくわからないといった顔をする。
 どこからともなく入り込む隙間風に身をすくめたあと、少女は軽くかぶりを振った。かすかに揺れる黒髪と、どこか照れをふくませた口調。鈴を転がすような声音が、沁みるように耳へ落ちる。
 「うん、実はね――」









Double Anniversary













 花の一輪でも貰ってみたいものだと、確かそのようなことを言っていた。小さな手から渡された拙いこしらえの花冠を掲げ、柔らかな桃色の唇を尖らせて。
 聞くともなく知った事実が、頭の中で渦を巻く。どうしたものかと思いながら、犬夜叉は床に胡坐をかいた。
 太陽は既に中天を過ぎた刻限。あれから一寝入りしただけで毒はおおかた――人間ならともかく、半妖の姿であれば支障のない程度には――抜けてしまった。幾らかのだるさはあるものの、ここまで快復すればあとは放っておいても問題ない。元々じっとしているのは性に合わないし、この状況で大人しくしていろというのがどだい無理な相談だ。
 がしかし、そう主張したところでかの娘が納得するはずもないのであって。
 「犬夜叉ってば、また起きて!」
 薄く開けた戸板の影から顔を覗かせたかごめが、肩をいからせながらたしなめた。昨日の手当てで底を尽いた毒消しの薬草を分けてもらう心積もりで、彼女もまた村の方で手伝いに勤しんでいる。
 「…もう治った」
 「嘘ばっかり。まだ顔色悪いわよ?」
 「――暇なんだよ」
 言葉につまりながらも犬夜叉が返すと、わずかにかごめの相好が崩れた。懇願するように微笑む。
 「でも、まだ毒は体に残ってるんでしょう?お願いだから、横になっててよ。ね?」
 「…」
 むっつりと黙り込んだ少年の態度を、少女は肯定と取ったらしい。足早に小屋を出てゆきながらもう一度振り返り、口許を緩める。
 「そんな訳にいくかよ」
 ぱたぱたと軽い靴音が遠ざかったのを確かめて、小さくごちる。そもそも、この程度で寝込まねばならないようなひ弱な体はしていないのだ。自分を気遣っているのだとしても、かごめは何かにつけ心配しすぎる。
 あいつらしい処じゃあるんだがと苦笑して、犬夜叉はその場に立ち上がった。
 室内にいてもはっきりと嗅ぎ取れる、草木の匂い。からりと澄んだ気配が、傍にあるのは鬱然とした深い森ではなく、開けた野原であることを伝えてくる。ここからの距離もごく短い。
 ざっと見積もって外へ出る。日が落ちるにはまだ間があったが、それでも空ははや夕暮れの色を見せはじめていた。踏みしめる土には湿り気がなく、横殴りの北風になぶられてもうもうと煙をあげる。
 あの時とは時期が違う。望むようなものがあるとは限らないと、それは判っていた。けれど、いやだからこそ、と思う。
 右の拳で左の掌を一打ちして、犬夜叉は目指す場所へと足を向けた。体の奥深くで澱む、あるかなきかの違和感には気も留めぬままで。











 冬は耐乏の季節だ。草は枯れ果て、たとえ大樹であれど葉を落とし、皮を厚く張り巡らせて防護に徹する。次の恵みの時を、静かに待ちながら。
 「ちっくしょ…っ」
 風が強い。うねるように絡みつく銀髪を払いのけつつ、犬夜叉は苛立たしげにぼやいた。もう半時はこうして歩き回っている。覚悟はしていたつもりだが――この広い枯れ野にあってもなお咲き続ける花を見つけ出すことなど、もはや奇跡に近いかもしれない。それでも諦めようという気がとんと起きないのは、多分…。
 ――かごめのことを、考えてみる。
 遥かな時を越えて現れた娘は、何の躊躇いもなく手を差し伸べてきた。闇の眷属と呼ぶにはあまりに半端、かといって人に混じるには異質にすぎる、どっちつかずのこの身を、ものともせずに。蔑まれるか、あるいは怖れられるか――向けられる視線が二つしかないことに慣れきった己の心に、かごめはどんな時も触れてきた。癒しに似ていた、と思う。
 彼女にしてみれば、きっと特別なことをしたという自覚はないのだろう。ただ当り前に名を呼び、他愛ない話の合間に笑いかけ、無茶をするなと怒り、時には大声をあげて喧嘩をし…。けれど欲しかったのは、そういう何でもないことなのだ。生き延びるためには、斬って棄てざるをえなかったものたち。
 だから、人の手が温かなことなど、知るよしもなかった。自分のために流される涙が、こんなにも優しいなんて。
 求めていたものは、すべてかごめが与えてくれた。そうしていつだって傍にいてくれる。それがどれほど尊いか。
 …冬に花を探しだすのよりずっと稀有なことを、犬夜叉は身をもって知っている。それだけのことだ。
 花を手に戻ったら、かごめは一体どんな風に笑うだろう。くるりと大きな黒目がちの瞳に、あどけなさを覗かせたうりざね顔。造作からして甘くできた少女の、桜色の唇がゆるゆると綻ぶ。まっすぐに己を見つめて、包み込むように。
 それを思い描くだけで、不思議なくらいに胸が高鳴る。笑う顔がとりわけ好きだという単純すぎる理由も、寒空の下で地べたを這いずり回るには充分だ。
 日没の刻限が迫っていた。夜目は効くが、そこかしこに落ちる影はだんだんと深く、強くなってゆく。空を覆う奇妙な色の夕焼けにひどく胸が騒いだが、彼は構わず足を進めた。
 「――っ!」
 次の刹那、灼けつくように体が疼いた。ぎいいん、と派手に耳鳴りがする。息がつまるほどに強い立ちくらみがして、たまらず少年はうめき声をもらした。
 脚に力が入らず、小刻みに痙攣をはじめる。脳味噌を底からかきまわしたかのごとく、世界が揺さぶられる。たまらず膝を崩す。気が遠くなる。ぎりぎりと引き絞るように脆く鋭く、更に遠く――
 濁った藍色のとばりに、月の白はなかった。
 しまった、と犬夜叉は内心歯噛みする。とりあえずの危険がないせいだろうか、朔の日であることをすっかり失念していた。月の満ち欠け…盈虚に気を配ることは、彼にとって必須であるのに。
 何ら問題はないはずだった。ただしそれは、常の姿であればの話だ。人間の体であれば、微量の毒でさえも兇器になりうる。痺れた四肢。凍りつきそうに大気が冷たい。
 忌々しいと思ういとまもあらばこそ。ざわざわと何かに蝕まれる感覚を最後に、少年はその場に倒れ伏した。
 あとはただ、黒く変化した髪の先を、鮮やかな緋衣の端々を削ぎ落とさんばかりに、寒風が叩きつけられるばかり…。











 「じゃあ、毒消しの薬草、貰っていきますね」
 礼を述べて頭を下げながら、かごめは腕に抱えた籠を揺すりあげた。かさかさと乾いた摩擦音と、薬草独特のきつい匂い。思わず鼻に皺が寄るあたり、やはり苦手なものは苦手ということだろうか。
 この家の娘たちはかなりの話好きだった。そして彼女もどちらかといえば口はよく回るほうだから、手を休める合間のおしゃべりのつもりがついうっかり釣り込まれ、随分と長居してしまった。何気なく仰いだ空は、とっぷりと夜の色に暮れている。
 「まさかこんなに遅くなっちゃうなんて…」
 ちゃんと大人しくしてくれてるかしらと、制服姿の少女は溜め息をつく。
 昨晩こそ辛そうにしていたが、今日一日の安静を言い渡したのはあくまで念のためなのだ。完全にとは云いがたいが、事実彼の体調は元に戻っていた。おまけに随分と暇を持て余したようだし、こちらが様子を看に来ないのをいいことに、ふらりとどこかへ出向いた可能性も否定できない。…さすがに、そう遠くへは行っていないだろうが。
 「かごめーっ!」
 歩き始めて幾らもたたぬうち、小屋へとむかうかごめの足元へ、七宝が息せき切って飛び込んできた。
 「どうしたの七宝ちゃん。そんなに慌てて」
 「大変じゃ、犬夜叉がおらんっ!」
 「んもう…」
 仔狐の言葉に、思わず苦笑が漏れた。予想の範疇ではあったが、やはりじっとしてなどいられなかったらしい。普段なら探しにいくところだが、こう暗くてはそれも難しい。行き違いになるかもしれないことを考えると、ここは待っていたほうが懸命だろうか…。
 のんきに考えるかごめだったが、それは次の七宝の叫ぶような声に掻き消される。
 「まずいぞ、今日は朔の日じゃ!」
 「あ…」
 今宵、犬夜叉は血の妖力を失って只人へと姿を変える。そんな夜、ましてや怪我を負った直後だというのに、どうして帰ってこないことがあるだろう。ひょっとして、単に戻らないわけではないのかもしれない。もし、彼が戻って来ることができないような状態に陥っているのだとしたら…
 すう、と背筋が寒くなる。そうだ、犬夜叉の体の毒は、まだ完全に抜けきってはいないのだ。半妖の時ならともかく、人間になってしまえばどうなるか判らない。特にあれは、人の体が耐えるには向かぬ種類なのだから。
 「あたし、犬夜叉を探してくる!七宝ちゃんは、弥勒さまと珊瑚ちゃんのところに!」
 「わ…わかったっ」
 貰ったばかりの薬草も捨て置いて、かごめは一目散に走り出した。確か小屋の周囲で、野良仕事をしている夫婦がいた筈だ。彼らが何か見ていないとも限らない。
 せわしなく首を廻らせながら、ひたすらにあぜ道を駆ける。件の二人を見つけるや否や、かごめは切羽詰った様子でこう切り出した。
 「すいません、犬夜叉を――あのっ、あたしたちの仲間の男の子なんですけど、見ませんでした!?」
 いかにも純朴な顔立ちの夫婦は、二人揃って首を捻った。この一瞬の間さえもどかしい。
 「あんたが云ってるのが真っ赤な衣のお人なんだったら、たしか日が暮れるより前にあっちの森の方へ…」
 「――ありがとうございますっ!」
 「ちょいと娘さん、どうかしたのかい!?」
 背後の声に答える余裕も、今はない。身を翻して森に分け入ると、かごめは必死になって目をこらした。いつもなら陽の光を弾いてきらきらと輝く銀色の長い髪も、いまは闇に溶けこんでしまっている。彼の衣、燃え盛る焔のような緋色を、目当てにしなければ。
 「犬夜叉ーっ!」
 大声を張り上げても、いらえはない。朔、毒、疵――いくつかの単語が不吉な映像を創りあげて、頭の中でめまぐるしく点滅をくりかえす。とめどなく膨らむ厭な予感を懸命に押さえ込み、少女は夢中で暗い夜の森を駆けた。
 木々の連なりが途切れると、開けた中原に出る。遮るものがないぶん、ことさらに寒気が勢いを増して襲いかかってくるようだ。こんなところで動けなくなったら、ひとたまりも…。
 訳もなくこみ上げてくる涙を、かごめはやっとのことで呑みこんだ。
 「ぐ…」
 ――犬夜叉を探し出すことが出来たのは、云ってしまえば偶然に近いものだろう。
 耳を掠めるのは、聞き漏らしてしまいそうなくらいにか細い呻き。垣間見えるのは、冷えた風に躍る鮮やかな赤。顔を覗き込めば、土にまみれた頬がぞっとするほどに青ざめているのが判った。黒々と背を流れる髪はまるで、その体を地に縫いとめているかのごとく――少女の悲痛な叫び声は、冬の夜空にあっけなく散り消える。
 「――犬夜叉!」
 握りしめた彼の手は、人の肌とは思えぬほどに硬く、こわばっていた。











 からりと組んだ薪が崩れ、その拍子に火の粉が爆ぜる。その音に、うとうとと船を漕いでいたかごめの意識は急速に引き戻された。体の芯に眠気を引きずったまま、傍らに横たわる少年の額にそっと触れる。
 「熱は下がった、かな…」
 犬夜叉が倒れた原因は、懸念したようなものではなかった。それがまったくの無関係というわけではないが、主な原因は疲労なのだという。ここしばらくの激戦で積もり積もった消耗が一気に噴き出した結果らしい。それが毒で弱った、しかも人間の体の時に当たってしまったのは、運が悪いとしか言いようがないだろうが…とにかく、命に関わるようなことにならなくて、本当に良かった。
 「かごめ…」
 うわごとかと振り向くと、灰色の目とまともにぶつかりあった。いきなりのことに、少女の頭はいっぺんに覚醒する。
 「目が覚めたのね」
 「――あいつらは?」
 労わるような言葉に答えるでもなく尋ね、上半身を起こす。些か気だるげな所作に、かごめは無意識に手を差し伸べていた。
 「まだ妖怪駆除が終わってないらしいの。だから、今晩は別のところに泊り込むって」
 彼らに付いて行かなかった七宝は自らの尻尾にくるまるように丸くなり、小屋の片隅で安眠を貪っている。
 「そうか」
 相槌を打つ声に、常のような癇の強さは感じられない。どこか茫洋と視線を漂わせるさまも、かごめにはまるで心当たりのないものだ。見慣れない黒い眼も髪も、彼をひどく大人に見せる。
 金の瞳に、雪白の髪。ある種豪奢とさえ云える出で立ちと、乱暴極まりないその物言いとが災いしてか、犬夜叉の顔立ちは険を含んで捉えられがちだ。しかしそれさえなりを潜めてしまえば、その面差しが正しく繊細に映ることを、かごめは知っている。しんと澄んだ湖面が、ますますの冴えを閃かせるような。
 ぱち、とまた囲炉裏の炎が跳ねた。あくまで穏やかに辺りを照らす、あたたかなその色。
 「…うん」
 別人のような彼が、射抜くように自分を見ている。固い線を描く輪郭がつややかに浮き上がるのを目の当たりにして、どきまぎとかごめは瞳を伏せた。
 「ねえ」
 どうして、犬夜叉はあそこにいたのだろう。草木すら枯れ果てた荒地で、彼は一体何をしていたのか。
 そう訊こうとしているだけなのに、咽喉の奥で言葉が絡み合う。幾分か血の気の失せた少年の顔が、ただそれだけで少女の動き全てを封じている。
 真剣そのものの面持ちで、犬夜叉は口を開いた。なめらかに張り詰めた唇が、静かに動く。
 「お前の生まれた日が、くるだろ」
 「…聞いてたの」
 返事の代わりに、少年は小さく頷いた。
 ――あたしが十五歳になった日にね、犬夜叉と初めて出会ったの。
 戦国と現代とでは、年齢の数え方が違う。年が改まるたび一様に歳を加えてゆく数え年が用いられているはずだから、こちらには誕生日という概念じたい存在しない。そこまで判っていてなお彼らに話したのは、他でもないかごめ自身の気持ちから来るものだった。
 自分の時代で家族や友達がしてくれるように祝って欲しいと、そんなことを思っているわけではなかった。けれど口にすることで、区切りを付けておきたかったのだ。長く遥かな、先の見えぬ旅に。
 仲間たちに助けられながらも、何とかここまでやってこれた自分に対して。何より、犬夜叉と廻り逢い、触れ合うことで感じたたくさんの想いと、彼そのものに対して。
 傍にいたいと、それだけを願っているから。だからこそ、これまで歩んできた道がいとおしい。今からもずっと、こうやっていられるようにと、思わずにはいられなくて――犬夜叉は、どう感じたのだろう。
 「それで、その――」
 うす赤い光を投げかけられた薄墨色の双眸が、燻し銀のような熱を帯びる。ちろちろと肌を舐めるような火影の、あややかに揺れる残滓。彼の頬も、それに染まっているような気がするけれど…。
 「お前、言ってたじゃねえか。花がどうの、って」
 「え…」
 そんなことがあっただろうか。かごめは慌てて、過去の記憶を辿りはじめる。…思い返してみれば、成程それらしいことを言ったことはあった。ねだるというよりも、当てこすると称する方が近いような口調ではあったけれど。
 旅を始めていくらも経っていない頃だと思うから、おそらくは春のことだろう。仔狐と二人、満開の花畑を転げまわって遊んだことがある。花輪の作り方を教えてやると、幼い彼は出来上がった冠を嬉しそうに差し出した。それを笑顔で受け取って、その後に確か――。
 それ以外に思い当たる節はないが、だとすれば随分と昔のことだ。しかも、口にした当人がきれいに忘れ去ってしまっているほどに瑣末な。
 絶句して、かごめは両の目を見開いた。やっとの事で搾り出した声は、驚愕に震えている。
 「まさか、そのために――?」
 沈黙。否定の言葉は、ことさらに意地をはる性質の犬夜叉の口を衝かない。
 「――っ…」
 胸が痛かった。さなきだに乙女心の機微には疎い彼が、それを心に留め置いていたこともそうだが、手ずから花をだなどと――そんなこと、考えもしなかった。自分のためだったなんて。
 「お、おい!?」
 目の前が潤んで見えなくなったと思ったら、もう頬が濡れていた。ぱたぱたと音をたてそうな勢いで、眦から雫がこぼれる。
 「何で泣くんだよ――」
 おろおろとうろたえる犬夜叉を尻目に、気持ちが形をとって次々と溢れだす。
 「だって、すごく嬉しい…」
 「おれは、何もしてやれなかった」
 「して、くれた――じゃない、いっぱい」
 つっかえつっかえ紡いだ台詞に、少年が怪訝そうに首を傾げる。照れたようにおもてを拭って、少女は目を細めた。
 「あたしの言ったことを覚えてくれたこととか、それを叶えてくれようとしてくれたこととか。そういうのが、一番嬉しいんだから」
 「でも、」
 「じゃあね、一つだけお願い、聞いてくれないかな」
 納得がいっていなかったらしい表情が、ぱっと明るくなる。
 「夜が明けて、朝になったら。あたしの、生まれた日が来たら。そういう時におきまりの、お祝いの言葉があるから、それを云ってくれる?」
 「――そんなことでいいのか?」
 「充分よ。誰よりも先に、犬夜叉から聞きたいの」
 常套句を伝えると、犬夜叉は軽く背を向けた。もごもごと何か口の中でやり始め、かごめはにこにことその後ろ姿を眺めている。
 ひとしきり練習を繰り返すと、少年はまろみを帯びた体を引く。その腕にすっぽりと収まって、少女はゆっくりと顔を胸にうずめた。
 抱擁はあくまで、おぼろに甘い。なのにひどく切なくなるのは…伝えきれない想いを、もどかしく焦がしたままだからか。
 「一年だ」
 低く落とされた囁きは、まるで祈りのよう。ゆるゆると忍び寄るように、かごめの中に漣を起こす。
 「一年、経った」
 「うん…」
 一年。それは、少女には途轍もなく長く、少年には余りに短い。彼の携える生は、きっと恐ろしいまでに永いから。
 それまでのことを、かごめは何一つ知らない。犬夜叉の言葉の切れ端を繋ぎあわせて、想像してみるしかないのだ。他者と心を通わせる事もないままに、孤独に耐えて続けてきたに違いないと。自分だったら、気が狂ってしまいそうだ。
 苛烈にすぎる、その過去。それがあるからこそ、この一年が犬夜叉にとって意味のあるものであってほしい。たくさんの感情をいだくということが、決して無意味ではないのだと判って貰いたかった。
 傷つき迷いながらでも人と向きあうことを、諦めてほしくない。なにものにも替えがたいほどに大切だから、ともに前へ歩いて行きたい。喜びも哀しみも、二人で分け合う事が出来たなら。
 ――そう考えてしまうのは、驕慢だろうか。











 まどろみに塗りこめられた天が、暁の色に欠けはじめた。端の方からじりじりと駆け上がる光は、弾むように山々の稜線を浮き彫りにする。空がまばゆい曙に姿を変え、しずしずと清い朝を迎え入れる。
 ひそやかに明けゆくは、静謐の夜。寿ぐ言葉が今そっと、少女の胸へと舞い降りる。










--Happy Birthday.