日暮れ前の道を、銀髪の少年が歩いていく。
さらりと乾いた夕凪が、ほどけるようにまなじりを滑る。何気なく見上げた空は、甘く溶けた茜色。淡く優しく、かすかに埃っぽい風が流れる。もう少しゆけば、川が近い。
「何してんだ、そんな場所【とこ】で」
土手に佇む少女の姿をみとめて、犬夜叉は静かに目を眇【すが】めた。足の裏には、ひいやりと乾いた土の感触。
柔らかな黒髪をひるがえして、かごめが振り返った。
「あんたの真似よ」
「真似?」
「うん、あのねえ」
云いながら、少女は小さく首をかしげる。
「犬夜叉、よく『出てくる』って散歩に行くじゃない。どんな気分なのかな、って思って」
(どんな、ってなあ・・・)
仲間の傍を離れて一人になることに、別段理由があったわけではない。はじめはただの気まぐれでしかなかった。
けれど、犬夜叉が姿を消すと、遅かれ早かれ、かごめは自分を迎えにくる。出会ったばかりの頃はうっとおしくてしかたがなかったものだったが、いつしかそれを嬉しく感じるようになっていた。
――俺は、そこへ還ってもいいか?
安心できる場所だとわかっているのに、時折不安に襲われる。だからこそ、弱った気持ちに『帰ろう』と優しい声がひどく沁みる。
自分が受け入れられていることを、はっきりと確かめられる瞬間、なのだと思う。
「んで、どうだったんだ?」
尋ねると、悪くないわね、とかごめは微笑した。
「なんだか、目隠しをとられたような感じがするの」
「なんだそりゃあ」
あきれたような少年のことばに、ふふ、と少女が吐息をもらす。
「でも、ちょっとわかった気がしたわ」
「…ふうん」
あえて何を、とは訊かない。
(たぶん、俺も同じだから)
――帰ってくるとわかっているはずなのに、それでもこうして迎えに来てしまう。その心情も、その理由も。
「帰るぞ」
「もう少しだけ」
「…ったく」
わずかに険をふくんだ口調のままにかごめを見やると、少女はあ、と小さく呟いた。
「どうした?」
どこか面映【おもはゆ】げに、かごめが目を細めている。柔らかな線を描く頬に切り取られる、焼けつくような朱【あか】い空。あまりにも屈託なく笑う様子に、なぜだかかすかな切なさを覚えた。
「あんたの眼…すごく、きれい」
いつもだってそうだけど、と謳【うた】うような調子で、少女は続けた。
「夕陽のせいなのかな、飴玉みたいな蜂蜜いろ。甘そう」
「なんだそりゃ」
ひとつ、溜息をつく。
「おれの目玉は食いもんじゃねーぞ」
「そんなことわかってるわよ」
うっとりとした様子で、かごめは笑う。
「でも…、きれい。ほんとに」
「…やらんぞ」
鼻をならして犬夜叉は答える。すると即座にぷん、と少女のほほが膨んだ。
「けち」
「何とでも云え」
剣呑な顔をしてみせると、かごめは小さくふきだして、
「たとえ話で、何ムキになってるのよ」
上目遣いに人の悪いにやにや笑いをしてみせる。何なんだ、と犬夜叉は心の中で毒づいた。
「でも」
――しいん、とすきとおった声。なんのまよいもなく、何かを信じているちいさなこどもみたいに、少女は云う。
「そしたら、あたしがあんたの眼になるのに」
「お前が、俺の?」
「そう」
「あたしがね、」
ざわ、と吹き向ける風に覚えるのは、かすかな寒気。かごめのなめらかな額が、にじむ夕日にさらされる。なんだろう、空恐ろしくなるような――。
既視、感。
「何でも見るのよ。あんたの代わりに」
「へえ」
「――おかしい?」
「いいや」
犬夜叉は苦笑する。
「でもな、やらねえよ」
「どうして」
「それじゃ、一つだけ見えねーもんがあるだろが」
「え?」
どこか恍惚として、心ここにあらずといった風情だったかごめの目が、夢から醒【さ】めたように瞬【またた】いた。
「おまえの顔」
自分の顔は見られねえだろ、と返す。少女は考えてもいなかった、と言わんばかりにしどろもどろに言葉を紡ぐ。
「あーそれは…鏡、とか?」
「反則だろ」
「ひどい!」
どこまでも、他愛ない会話。なのにかごめがあんまり、本気で裏切られて傷ついているみたいな声を出すので、
「…たとえ話で、ムキになるなっつの」
犬夜叉は先ほどの言葉を繰り返してやる。彼がにやりと笑うと、少女がきょとんと目を見開いた。
「ほんと、だ」
あえかな声にまじる、ほほえみ。少年もまた、ごくわずか、それこそ目の前の彼女にしかわからないくらいかすかに、頬をゆるめた。
「――ねえ」
「ん?」
見下ろすと、かごめがまた、あの表情【かお】をしている。曇りひとつない、まっすぐな瞳【め】だ。それこそ、触れるのに躊躇【ためら】うほどに無垢で、透徹な娘。
わけもわからないままに、じんと、胸がうずいた。
「目、つむって」
心の裡【うち】をかきみだす衝動をおさえつけ、少年はあえて、あきれた顔を作ってみせる。
「お前、人の話聞いてたか?」
「訊いてたよ。だから頼んでるの」
その柔らかな熱を持った黒い眸【ひとみ】が、なんのてらいもなくこちらを見つめてくる。犬夜叉は、誘われるようにまぶたを閉じた。
伏せた瞳の向こうを、かごめの柔らかな指の腹がすべっていく。薄くて頼りない指先がそ、と触れる感触が、ひどくむずがゆい。
「ねえ。あたしが見える?」
(視【み】えるわけがねえ、のに)
「…見える」
「あたしは、どうしてる?」
「笑ってる。いつもみたいに」
「その向こうには、何が見える?」
「――」
「犬夜叉?」
「何も」
そう、何も――。
(お前がいけないんだ)
ほかでもない、彼女自身がこんなにもまばゆく、光を放つから。
もう、何も見えない…。
「やぁだ、何あたりまえのこと答えてるの」
そっと目をひらくと、陽だまりの娘はくすりと微笑【わら】う。逆光をあびる、華奢なその背。
(そうじゃない、そうじゃないんだ――)
ゆらり、と夕凪が、二人の髪をさらっていく。
「ねえ、でも、あたしは見えるでしょう?だったら、」
あんたの目、あたしに頂戴――
そう、声なき声がささやいた、ような気がした。
(なんだっていいさ)
一番欲しいものに比べれば、目の一つや二つ、安いものだ。何がどうなろうと、そんなもの構やしない。
「なあ、かごめ」
「ん?」
くるんと見開かれた黒い瞳を、じい、と見つめる。
(わかってるのか?)
この目をくれてやったなら、本当にお前は、俺の目になるのだろうか。
それはつまり、俺の傍から離れない、ということ。お前の目だけでなく…お前がまるごと、俺のものになるということだ。他の誰でもない、俺の――
(まったく、俺も大概阿呆になったもんだ)
ひとつ嘆息して、犬夜叉は朱華【はねず】に染まる髪をかきおろす。
「どうかした?」
「いや――」
「何よ、変な犬夜叉」
ぽつりと言って、少女は空を仰ぎみる。
(なあ、いつか。聴いてくれるか?)
恋は盲目、なんていうけれど、そうではなくて、俺はもう――
「もういいだろ。帰っぞ、今度こそ」
「あ、ちょっと待ってよ」
すい、と身体をひるがえして、少年は今一度、まぶたを閉じる。
ぱたぱたと追ってくる、軽やかな足音。「ここが居場所だ」と教えてくれる、あまいにおい。安堵のあまりに泣き出したくなるような、やわらかな気配。
光なき世界が、こんなにも、いろ鮮やかにこころを満たす。
(ずっとずっと、こうしていられるなら、それもいいかもしれない)
だって、きっと。
盲【めしい】た男の愚かな恋を、お前はけして、笑いはしないだろうから。
Inspirationed by "IKL"
Type-B:sweet/俺の――/もう少しだけ/日暮れ前/伏せた瞳の向こう