ふわぁ、と幸せそうに――それこそとろけそうな表情で、少女は破顔した。一つ大きくまばたき、うなじにかかった後れ毛をそよがせながら腰を浮かす。
 …薄桃に色づいた頬に、潤みをたたえて輝く瞳。その艶めかしさがどこか恥じらったふうにも見えるのは、果たして思い過ごしだろうか。伏せがちに向けられる眼差しが、瞬間のたおやかさを帯びる。
 見るからに頼りなげな足どりで立ち上がった彼女はしかし、開口一番、こうのたまった。


 「一番、日暮かごめ。脱ぎまあす」







夢酔
mu sui








 吹き付ける風はまだ冷たくとも、陽射しだけならぽかぽかとあたたかい、初春【はつはる】の日。月の巡りによる暦【こよみ】――太陰暦が迎える、戦国の正月である。
 楓の村で新たな年を迎えた一行は、ささやかながらも一時の宴を楽しんでいた。久しく旅に出っ放しだった体を休めることも目的であるはずなのだが……骨休めのならない者も、どうやらいるようだ。例えば、彼のような。
 「ちょっ――かごめ、何考えてんだ!」
 「だって、暑いんだもん」
 「我慢しろ」
 「犬夜叉のけち」
 「そういう問題じゃねーだろが。じきに治まるから、それまで大人しく待ってろ」
 「…はあい」
 冷や汗をかきつつかごめを宥める犬夜叉と、幼子のように駄々をこねていたかごめ。普段ではおよそ考えられない、珍しい光景だ。
 その目新しさも手伝ってか、初めこそすぐ傍の遣り取りにいちいち目を丸くしていた彼らの仲間たちも、とうに反応をしなくなっていた。どうやら、見慣れてしまえばどうということもないらしい。満腹になった七宝はうつらうつらと舟を漕ぎ、弥勒と珊瑚は四方山話に花を咲かせつつ酒の杯を酌み交わしていた。
 「いつまでやってるんでしょうかねえ」
 「さあ…でも、まさかかごめちゃんがあんなに弱いなんて思わなかったよ」
 彼らの中でも不良法師で通っている弥勒は、その二つ名に似つかわしすぎるほど酒に強い。既にかなりの量のにごり酒を乾【ほ】しているのは間違いないのだが、顔色一つ、呂律の回り具合一つ乱れてはいない。
 そしてまた珊瑚も隣に座る彼ほどではないにしろ、それなりに嗜【たしな】むようだった。微かに面【おもて】を上気させてはいるが、言動も動作もしっかりしている。
 男の中に混じり、退治屋として仕事を請け負うになら多少は呑めないと――というのが彼女の言だが、それにしても強い。女性としては相当なものではないだろうか。
 こちん、とかごめが実家から持ち出してきた白磁器の銚子と猪口とが触れ合って、水琴窟を思わす涼やかな音色を奏でる。手酌だったり、注いでもらったり、それはその時々によるが――二人とも自らの酒の呑み方なら良く承知していた。けれど彼女は違っていて…だからこんな事になってしまったのだろう。
 「やっぱり脱ぐ〜っ」
 「って、おい!」
 鴇【とき】色の布地に咲き乱れるのは、いかにも若い娘が好みそうな満開の桜。彩【あや】な着物を見事に着こなした少女と、暗色の着流しに黒い羽織の袖をまくり上げた少年の繰り広げる攻防の終結は、まだまだ先のようだ。かごめの髪【くし】を雅に結い上げた簪【かんざし】が、孤を描いてゆらゆらと揺れる。
 「どうする?これ」
 「放っておきましょう」
 細かい縄目の織り込まれた着流し一枚きりを身に纏った法師は、かたわらの七宝――彼もまた羽織に袴の正装だが、しきりに寝返りを打つのでしわくちゃになってしまっている――に自分の黒の羽織をかぶせ、飾り紐でくくられた珊瑚の後ろ髪にちらと視線を投げる。 
 しゃんと背の伸びるような若竹色、ちらちらと開いた梅枝の上にうぐいすをあしらった着物姿の娘は、仕方ないねと苦笑した。
 彼女の膝の上で丸くなった雲母が、ぱた、と尾を鳴らす。






 
 先にも云ったが、この時代での新年の日である。
 時間の流れは基本的に変わらないようだが、それだけに暦はかなり異なる。当然のように、元旦も。それだからかごめはどうやら、この日を随分待ち望んでようだ。
 おそらく、現代での年越しは実家の手伝いを優先させ、正月らしいことはろくにできなかったからというのと、皆ではじめて共にする節目のときだからというのと――理由はそういうところなのだろう。
 前書きはさておき、この日にかける彼女の情熱は凄まじかった。その熱意だるや、一人一人に着物を用意する処から始めたというから大したものである。


 かごめの纏っている桜柄の着物は、彼女の母が愛娘にと密かに仕立てていたものだという。呉服屋でも人気が高くて手に入れるのに苦労した、と婦人は語り、そして手ずから少女に着付けて井戸へと送り出した。
 そして珊瑚の着物は、母の若い頃のもの。かごめのものに較べると華やかさはないが、良い生地を使って仕立ててある。
 男性陣の着流しは、今はなきかごめの父の遺品――もっとも、袴の丈が合わないと困るので、着流しに羽織だけとなってしまったが。
 七宝の一そろいの羽織袴は、草太からのおさがり。彼自身も弟で、あまり年下が周囲にいないせいか、草太は自分の幼いころのものを譲るという経験はこれが初めてで。だからか彼はやけに恥ずかしいような誇らしいような顔で、もう着れなくなった自分の一張羅をさしだしてくれた。


 とまあ、このような具合になっているのだが――約一名ほど着替えることを延々と拒み続けた、というのは余談である。結果は言うまでもない。彼がかごめに勝ちうるはずもないのだから。
 そしてそれに加え、一通りのおせちを三段重ねの重箱にたっぷり。母からの厚意で、甘酒や神社に寄進された供物の酒まで準備ができた。
 奮闘のすえ、どうにかこの日の宴は彼女の思い描いた形にまでこぎつけた。その嬉しさと仲間と楽しく過ごしているという実感が、少女をつかのま油断させたのだろう。おいしいと云ってはしゃぐあまり、かごめは甘酒を口にしすぎてしまっている。
 それであたりかまわず吐き散らかすよりはいくらかましだろうが、ほろ酔いの少女は危なっかしくてしょうがない。ふわふわゆらゆらとひどくいとけなく、警戒心のない童女のようなものだ。
 ゆえに、犬夜叉が苦労を強いられている――彼女の身に、変事のなきよう。







 ざわざわ、と周囲に人の気配が満ちる。村人たちが、屋のまわりに群がってきているらしい。楓を探しに訪【おとな】ったのかと思えば、慣れたふうに莚【むしろ】をくぐって現れたのは老巫女その人だった。
 「あー、楓ばーちゃんだあ」
 「なんじゃ、かごめはまだ起きとるのか」
 「…ああ」
 相変わらずふにゃふにゃした少女の口調に、楓は意外そうに目を見開いた。次いで咳【しわぶ】くようにかけられた老婆の声に、少年はげんなりと返事を投げる。
 「なあんで、あたしが起きてちゃいけないのよう」
 酔いが抜けるのを待たずとも、寝入ってくれれば問題はない。だがしかし、彼女を酔いつぶすための液体は、酩酊には量が些か足りなかったようだ…が。
 ――そういう事をかごめに云い含めてやる気力は、もはや犬夜叉には残っていなかった。
 「ところで楓さま、何か?」
 「おお、そうだった…法師殿に、少しばかり手伝ってもらいたいことがあっての。急で悪いが、今から来てくれんか?」
 「お安いご用です」
 場をとりなすように弥勒が問い掛けると、楓はようやく本来の目的を思い出す。依頼の言葉に、いい加減退屈の虫が騒ぎ出していた法師は一も二もなく飛びついた。そして、思うことは珊瑚も同じだったようで。
 「ねえ、あたしと雲母も行っていい?」
 「ああ、構わんさ」
 決まり、と呟いた珊瑚は七宝を覆っていた羽織を取り上げて弥勒に手渡した。土間へゆくついで、部屋の隅から上掛けを持ってきて仔狐に掛けてやる。
 「それじゃあたしたち、行ってくるから」
 「犬夜叉――かごめ様に手を出すんじゃありませんよ」
 「お前じゃあるまいし、誰が出すかっ!」
 「これこれ、あまり騒ぐと七宝が目を覚ましてしまうぞ」
 法師のセリフに噛み付くような反応を示す少年を老巫女が諌める。留守を頼むと言い置いて、三人と一匹は連れ立って外へと出て行った。
 「いってらっしゃあい」
 起きているのか眠っているのか、やはりぼんやりした声音でかごめが手を振る。







 それから一刻ほどは何事もなく、犬夜叉は、ただ穏やかに、そしてどこか怠惰に流れる時に身を任せていればよかった。絶えず他愛ない話を振っては微笑むかごめに相槌を打ってやるというのは、ひどく心が落ち着く。
 しかし、無限にあるような話の種もいつかは尽きる。だんだん呂律が怪しくなって喋りづらくなったのも相まってか、少女はふいに口を閉ざした。くた、と萎【しお】れた花のように首を下向けて、閉じかかった瞼【まぶた】のとばりをからげては戻している。
 こくん、とかごめが一つ舟を漕いだ。その音とも云えないような微かな空気の震えを感じ取り、少年の犬耳はせわしなく動く。
 「…眠いのか?」
 横たわって肘をついた格好のまま、低く小さく、犬夜叉が訊く。かごめはううんとかぶりを振り、顔から零れ落ちそうに大きな瞳をぱちりと開けた。どうしてか小首をかしげ、にこりと笑う。そして、彼が胡乱に思う間もなく――
 「おすわり」
 「…う”わ”っ!」
 みしりと大きく木板がしなって、犬夜叉は仰向けの体勢で床に叩きつけられる。すぐさま痛みを知覚し、起き上がろうとするが…何かが上に乗っていて、できない。「何か」の正体に彼は瞬時に思い当たり、知らず言葉を失った。
 「かご…め」
 とす、と空気の抜けるような音がして、犬夜叉は我にかえる。どうにか後ろ手をつき、起こせるところまで体躯【からだ】を持ち上げると、かごめが犬夜叉の臍【へそ】のすぐ上あたりで馬乗りになっていた。
 熱を持った乙女の柔肌のような、着物の彩色。その裾が大きく割れて、更に眩しい太腿が顕わになっている。いつも短い袴しか身につけておらず、露出しきりの彼女の脚など珍しくもない筈なのに、こうして眼に映すとどうしてこんなにも情欲を呼ぶのだろう。
 すらりと伸びたふくらはぎの更に下、履いた足袋の白がやけに心臓を焼いた。
 「な、何、を――」
 先ほどとは違う妖艶さでもって、少女が口の端を上げる。しい、と吐息のように言葉をもらして、彼女は己【おの】が唇に人差し指を押し付けた。胸をざわめかせるような所作の全てを見ていた彼は、術にかかったように慌てて次の句を飲み込む。
 くすり、とかごめが微笑した。するりと寄ってきた白魚の手が、犬夜叉の視界を塞ぐ。火照ったような顔色をしているくせに、何故にこれほどひいやりした手をしているのだろうかと、彼は考えた。
 「――っ」
 きし、と床板が啼【な】いて、さわさわと衣ずれが近寄る。酒の気配を残した甘やかな香が頚【くび】すじを伝う。あとは唇に熱い、吐息がかかって――。
 ………むに。
 「やっぱりふにふに〜」
 ――最高潮にまで高まっていた雰囲気を見事に打ち壊し、かごめの呑気な呟きがその場を支配する。先ほどの婀娜【あだ】めかしい風情はどこへやら、少女はまた女の顔から童女のそれに立ち戻ってうふふと含み笑いをつづけていた。
 「…へ?」
 何がなんだか判らないままに、瞼に添えられたかごめの手を退けさせる。眼と額にしみてゆく冷えた感触はひどく惜しい気がしたが、とりあえずそれどころではない。
 (こんのアマ……)
 ようやく思い当たる。彼女の目的は今触れている、人型ならぬ己の耳だったということに。
 ――最近は彼が嫌がるのを気にしてか、あまり不用意に手を伸ばすことはなくなっていたから油断していたが……そもそも初対面の時からこの耳は、かごめのお気に入りだったのだ。それを考え合わせれば、今の理性の箍が外れてしまった彼女がこうやって無遠慮に触れてきているのも判る。が、しかし。
 (何で新年早々こいつの玩具にならなきゃいけねーんだ!)
 本音を云えばそれだけではないが――惚れた娘にこんな間の抜けた迫られ方をされて、一際高い彼の吟持が疵付かない筈がない――とにかく、こんな茶番は御免被りたい。
 「お前、人の腹の上で何やってんだ?」
 「ん。犬夜叉のみみ、さわってるの」
 とりあえず、犬夜叉は憮然とした声音で凄んでみせるが、自我の戻っていないかごめには暖簾に腕押し。懲りもせず、少女はその柔い指の腹でつつん、と少年の耳を引いている。
 「誰がんなこと訊いてるか。俺が言いたいのはだな――」
 「なあ、に?」
 怒鳴りあげる寸前の声量で、いいから降りろと云いかけて――少年はぐ、と言葉に詰まった。
 「……何がそんなに、楽しいんだ?」
 「だあって、気持ちいいんだもん…ふわふわで、あったかくて。だあいすき」
 こんな時に己の好きな、花が咲いたような甘い表情を向けてくるのは反則だ、と密かに犬夜叉は毒づく。
 屈託のない微笑を浮かべられると、そんな顔を自分がさせているのだと思うと。……なにも云えなくなってしまうではないか。
 (――しゃーねーな)
 あとは野となれ――の再現ではないが、少年は半ばやけっぱちに覚悟を決めた。こうなったら、飽きるまで触らせてやるとしようか。
 まあ、次に目を覚ました彼女が覚えているかは知れないが、偶にはそういう事もあろう。共に一時、夢に酔う…そういう事は。
 「好きにしろよ」
 普段のかごめが聞けば耳まで赤くなるような優しい声で、犬夜叉が静かに囁く。うんと頷いた少女の身動【みじろ】ぎがぱたりと止み、胸に暖かな四肢がくったりと凭れ掛かってくるまでに、さしたる時間はかからなかった――。







 夕刻。どこまでも遠くへ駆ける蒼穹がずっと手許へ近づくというのに、その青を含んだ茜は不思議すぎるほど哀しくて切ない――そんな刻限だ。


 橙色に滲んだ西日が、季節はずれの陽炎のようにゆらゆらと小屋の中に立ち込める。その頃になって、ようやく三人は戻ってきた。
 かごめはあの時のまま起きるそぶりも見せず、少し前に目を覚ましたばかりの七宝は半分夢現【うめうつつ】で部屋の隅に座り込んでいる。いつまた寝入ってしまっても不思議はない呆けた表情が、普段のませた口調と対照的に年相応で何とも幼い。
 「おう、お帰りじゃ。みろく、さんご」
 「はい、只今戻りました――おや、かごめ様は眠っておいでですか」
 「ほんと、気持ちよさそうに寝てるねえ。あ、七宝、あんたまだ眠いんじゃない?」
 「そうじゃのう。別に寝ていても構わんのだぞ。…そうそう、犬夜叉。何か変わったことは無かったかの?」
 「別に、何も」
 穏やかに楓に問い掛けられ、そっぽを向きつつ…もとい、くうと寝息を立てているかごめに目線を送りながら犬夜叉は答える。老巫女はそうかと納得し、珊瑚と共に早々と屋内を片しはじめた。
 「――何ぞありましたな?犬夜叉」
 女性二人の視線から逃れるか早いか、聞き取るのもやっとの声量で弥勒は少年に語りかけた。そう尋ねられた当の犬夜叉は拳【こぶし】をにぎって牙を合わせ、どうにか平常を保とうとしているようだ。
 (ばればれだっつーの)
 内心笑いを噛み殺しつつ、法師は先を続けてやる。
 「まあ、かごめ様に襲われたら抵抗しろ――などとは云いませんでしたからねえ」
 ぐるる、と威嚇するように少年の口から唸り声が響く。ひとしきり赤くなったり青くした後、どうにかこうにか犬夜叉は問うた。
 「…まさかてめー、覗いてたんじゃねえだろうな」
 「とんでもない。疑うのなら、楓さまと珊瑚に訊いてごらんなさい?私は二人の傍を離れたりはしてませんから」
 大仰に肩をすくめ、いかにも愉快げに弥勒は返す。ならばどうして、と重ねて問う少年に、百戦錬磨の法師は事もなげに答えてやる。
 「かごめ様、ずっとお前を見つめていましたからな。――お前はどうやら、気付かなかったようだが」
 それは暗に、気付いて然るべきだと揶揄【からか】われているらしい。完璧に子供扱いされ、怒りに震える犬夜叉は無意識に腕を振り上げていた。
 「ちょっと、法師さま!いい加減油売ってないで、こっち来てよ」
 「――今行きますよ、珊瑚」   
 横手から飛んだ娘の声に今まで余裕の表情を崩さなかった弥勒が焦ったふうに立ち上がる。その腰の低さを見ている限り、法師はまた何かやらかしたようだ。
 「全く、向こうでも碌に仕事なんかしなかったくせに…。大体、今日楓さまに付いてったのだって、結局は酔ったふりでもして、村の若〜い娘さん達にちょっかい掛けようって魂胆だったんだろ」
 「そんな、滅相も無い。私はいつでもお前一筋だというのに」
 「戯言【たわごと】は結構」
 どこか芝居がかった大仰な動作に、珊瑚はにべもなく言い捨てる。その一言に落胆するかと思いきや、弥勒はやおら肩をいからせた娘の両手【もろて】を握り、瞳【め】を見つめて熱っぽく告げた。
 「…珊瑚。中々機会が掴めず、云い損ねていたが――その着物、よく似合っている」
 「え…そ、そんなこと無いよ」
 「謙遜をするな。今日のお前は誰より美しかった」
 真摯な口調と視線を受け、珊瑚はしどろもどろになって頬を染める。法師さま、とうつむきながら声を掛けた娘のしおらしい声音は、途端に怒号に取って変わった。
 「――って、どさくさに紛れて何してんのさ、この助平法師!!」
 「ご、誤解です珊瑚!これはお前の余りの美しさに目がくらんで…」
 毎度のように、指の長い珊瑚の手の甲を押し包んでいるのとは反対の弥勒の手が、彼女の尻に伸びていた。それでも尚言い訳がましく下手に出る彼に、娘は今度こそ平手を喰らわせる。
 「問答無用っ!」
 (――俺がやらなくても、代わりに珊瑚から天誅が下ったか)
 犬夜叉があっけにとられて事の成り行きを見ていると、不意に機嫌の悪そうな顔の七宝が立っていた。仔狐は目をこすりこすりしながら寝息を立てているかごめの上掛けの中にもぐりこもうとするが、それを見咎めた傍らの少年は咄嗟に童の首根っこを抓んでぶら提げる。
 「何ごそごそしてやがる、七宝」
 「まだ…眠いんじゃ。だから、かごめと寝る」
 「――酒臭えぞ、止めとけ」
 むっつりと唇を尖らせて宣言した七宝に、些か呆れた風を装って犬夜叉が答える。 この台詞はあくまでも建前で、云ってしまえば少年の独占欲というか、いわゆる焼き餅なのだが――眠さのあまりか、仔狐はその言葉を額面通りに受け取ったらしい。
 小柄な七宝は器用に犬夜叉の束縛を抜け、そのまま彼の着流しの膝に丸くなる。何を思ったのか、雲母までがその隣にひょいと飛び乗った。
 「お、おい?」
 「犬夜叉はちっとも呑んどらんから、酒臭くない筈じゃ」
 だからおらはここで寝る――最後まで言葉にならず、七宝はすとんと眠りに就いた。引き剥がそうにも、意外に力の強い小さな握り拳が落ち着いた色の布地をしっかりと掴んでいてできそうもない。
 (そりゃ、俺は呑んでねえけどよ…)
 彼の名誉の為に云っておくと、犬夜叉は決して下戸という訳ではない。何につけ匂いに弱いという弱点があるから、大酒を呑みはしないが、そこそこはいける口だ。今回ほとんど――いや、一滴も、が正しいかもしれない――呑めていないのは、彼がかごめにかかりっきりだったからなのだが、幼い仔狐にそんなことをいった処で仕方がない。
 (かごめといい、こいつといい。こんなんばっかだな、今日は)
 最早諦めの風情で溜め息を付き、手持ち無沙汰に犬夜叉は頭を掻く。動くに動けない状況にぼんやりしていると、今度は楓が脇に座った。
 「…何だよ、楓ばばあ」  
 「いや、お主も今日は疲れただろうからの。酒は残っとらんようじゃが、まあ――これでも飲め」
 達観したような老巫女が差し出したのは、質素だが湯気の湧き上がる一杯の茶。どういう態度を取って良いやら考えあぐねながらも、少年は素直にそれを受け取った。
 「四魂の玉を集めるのも、無論大切じゃろうがの」
 熱い茶を一口飲み下し、ふうと一息ついて楓は云う。
 「たまには、こんなのも良かろうて」 
 「――おう」


 少し向こうから聞こえてくる、諍【いさか】いと呼ぶには甘やかすぎる弥勒と珊瑚の声。楓に手渡された茶から立ち昇る、微かな芳香と渋味。自分の膝の上で丸くなって頬を擦り付けてくる、七宝と雲母の暖かな重み。傍らで安らかな笑みを湛えて眠るかごめの、薄い瞼の淡やかな肌色。
 (こういうのを……幸せってんだろうな)
 五感にとつとつと語りかけてくる、憶えのない感情――嬉しくて妙にこそばゆいそれの正体を、犬夜叉はようやっと自覚した。
 さみしい夕暮れに皆で肩を寄せ集めて戯れる、ただそれだけのこと。なのにあんまり心が温かくて、却って泣きたくなってしまうような、満ち足りたひととき。彼にとってはどれだけ得がたくて、けれどどれだけ欲しいと思い続けていたものだったのだろう。
 それは今、間違【まご】うことなく犬夜叉の手の裡【うち】にある。確かな感触でもって、永きを生き抜いてきた手のひらをぬくめている。だから、喪いたくなどないのだ。
 傷つき続けて流れ着いた先でやっと掴まえたひとひらの夢は、彼を酔わせるに充分だったから。とてつもなく快く――少年を癒したから。…だから。
 だから、生きてゆける。いや…生きてゆこうと、思う。
 (俺は、ここに居る。居て、良いんだ)
 譲れない想いを、胸に。







 夕刻。どこまでも遠くへ駆ける蒼穹がずっと手許へ近づくというのに、その青を含んだ茜は不思議すぎるほど哀しくて切ない――そんな刻限だ。
 …だからこそ誰かと共に在るということは、うんと優しくて、うんと温かくて、うんと愛おしい。
 今更のように強く実感し――いつでも眉間に皺を寄せた仏頂面の少年が、この時ばかりは笑みを見せた。ひどくぎこちないけれど、精一杯の想いを双眸に映して。















 ところで、これは全くの余談になるが。


 「――お前、ほんっとに憶えてねえのか?」
 「だから、何をよ?」


 結局、酔っていた時の記憶は、かごめの頭からはすっぱりと抜け落ちていたようである。この件に限っては、さんざんっぱらに期待させられた挙句に寸前でかわされた、犬夜叉の苦悩を労わってやるべきだろうか。
  ――合掌。