籠女籠女
籠の中の鳥は
何時何時出遣る
夜明の晩に
鶴と亀が滑った
後の正面誰何











 しゅるりと長い使い魔の牙は、僅かながら血の赤に染まっていた。小さな形代【かたしろ】を取り出し、ねとりと塗りつける。
 ふうっ、とそれは一人の娘の姿をとった。白皙の肌、花のごときかんばせ。しなやかな髪が背に滑り、まろい肢体がなお一層に際立つ。
 『かごめ』
 呼ぶと、黒檀の瞳が輝きを帯びた。こくりと小さくうなづいて、娘は静かに部屋を出ていく――。

















にわたずみに泣く



















 「憑依…ですか?」
 「ええ、姫はきっと、性質の悪いまものにでも、とりつかれているに違いないのです!」
 弥勒の言葉に、上座に腰を下ろす城の当主――高明【たかあきら】は勢い込んでそう答える。
 「どうか…どうか娘を、棗【なつめ】をお救いくださいませ、法師様!」
 水の国、別名を水沫【みなわ】。
 使者は武蔵の国よりひと月ほど離れた距離にある、この国の城主よりの依頼を携え、かごめたちの元へやってきた。
 この国の一番の特徴は、領土の下に走る大きな地下水脈。そのおかげで、たとい他国が日照りにあえごうとも、この国の民は水には不自由しない。土壌も肥沃なら市も盛んな、全体として豊かな国である。
 それゆえに、ここでは水を司る龍神の幼生といわれる蛟【みずち】が奉られている。城の地下は水脈へ通じており、そこは聖地として崇められているという。
 犬夜叉の俊足と雲母の活躍により、ひと月よりもはるかに短い期間で城までたどり着いた一行は、息つく間もなく謁見の部屋へ通され、開口一番この台詞である。
 (栄えた国の領主だってのに、何だか腰が低い感じがするね)
 (うん…)
 今にも弥勒の手に取りすがらんばかりの当主を尻目に、ひそひそと言い交わすかごめと珊瑚。我関せず、といわんばかりの仏頂面を決め込む犬夜叉の脇で、七宝は雲母とじゃれている。
 春の盛り。風はほどけるように柔らかく、邸内に植えられた桜樹【おうじゅ】をその繊手で撫でては、あえかに染まる花弁を攫う。ゆったりと差し込む陽光もまた、二人の娘たちの頬の産毛を、ほのかにきらめかせていた。
 「ともかく…、高明さま。この国の姫君であらせられる棗さまの目が、二月ほど前に突然光を失ってしまわれたのですね?」
 はい、と城主はうなだれるように首肯した。
 「それだけではありません。棗の目は確かに見えなくなっているはずなのに、夜な夜な城の中を歩き回っている姿を、使用人たちが見ているというのです」
 「見間違い、という可能性は?」
 「それはありません。わたしも幾度かこの目でしかと見ましたので…。あれは間違いなく娘の姿でした」
 ただ、と高明は言葉を重ねる。
 「不思議なことに、姿を見たものはいても、床へ連れ戻そうと移動したときには、すでにその場所から姿を消しているというのです。では、と仕方なく棗の部屋へ行くと、当人は部屋で休んでいるという次第でして」
 「成程――ひとまず、肝心の姫君に会わせていただけますか?」
 当主は控えていた近習にその旨を伝える。それから幾ほどの間もなく、問題の姫君は一人の老婆に介添えされながらその姿を見せた。
 年のころ十二、三ほど。癖のない黒髪が美しい、見目麗しい容貌の娘だった。口元にある黒子【ほくろ】が目を引くが、不思議と婀娜【あだ】な印象がないのは、乳母日傘で育てられた姫君だからだろうか。
 盲目となって二月ほど、その足運びはたどたどしい。不安に顔を曇らせる、どことなく幼げな姫であった。
 棗に手を貸していた老婆が、小さく会釈をする。
 「この方は?」
 「この城で召し抱えている占い師で、椿と申します。ですがそれ以上に、棗が懐いてしまっておりまして」
 椿、という名に一行は絶句した。異変を感じたのだろう、高明は問いかける。
 「何か?」
 「いえ、知己にたまたま、同じ名のものがいたものですから」
 「そうですか…。ともかく、こうしてあなた方を呼んだのも、この椿の宣託によるものでして。災害や穀物の取れ高など、先見【さきみ】の明があるようですから、このように重宝しております」
 話がそれましたな、頭を掻く高明。法師は姫に向けて問いかける。
 「棗さま。この件に関して、何か感じたことや、覚えていることはございませんか?」
 「いいえ…。わたくしには…何も。夜もただ眠っているばかりで、心当たりはないのです…」
 なんとも心細げに答える姫に、嘘をついている様子は見受けられない。
 (こりゃまた…厄介なことになりそうだな)
 心の中で密かにごちて、弥勒は立ち上がる。
 「そういうことでしたら、ひとまず夜を待つしかありませんな。ご当主、我々に部屋をあてがってはいただけませんか?」
 「引き受けてくださるのですね!?」
 たちまち、高明の顔に喜色がひろがる。弥勒は後ろを振り返った。
 「あたしたちでなんとか、お姫様の目を見えるようにしてあげましょ!」
 「そうだね、このままじゃ可哀そうだ」
 「おらもそれがいいと思うぞ!」
 みゅう、と小さく雲母が鳴いたところで、これまで一言も発さなかった犬夜叉に皆の視線が注がれる。
 「しゃーねーな。わざわざこんなとこまで来たんだ、どうにかしてやっか」
 わざとらしくため息などつきながら、犬夜叉は腕を組む。
 (まったく、いつまでたっても素直じゃないんだから)
 仲間たちは目配せをしあい、不器用な半妖の機嫌を損ねぬよう、笑いをかみ殺した。








 空が朱に染まる夕刻。棗の姿を見たという召使たちへの聞き込みを終え、一行は各々、部屋へ戻ってくる。
 「弥勒様、どうだった?」
 「いや、特には…。高明さまから伺った以上の話は、何も聞けませんでしたな」
 「じゃあ、今日は早めに仮眠をとって、夜を待った方が良さそうだね」
 こきり、と肩を回しながら、ふと珊瑚が呟く。
 「そういえば。…今更かもしれないけど、椿はあの『椿』ってことはないよね?」
 黒巫女、椿。呪詛を専門に請け負う邪の巫女は、かつてかごめの命を狙い、あえなく敗している。
 「でも、見た目はぜんぜん違うし…」
 自信なさげにかごめが言葉を足すと、いや、と弥勒は首を振った。
 「椿はたしか、実年齢は桔梗さまや楓さまと同じくらいのはずだ。妖怪に魂を売ってあの若い姿を維持していたとしたら、警戒するに越したことはないと思いますよ」
 「じゃあ、かごめちゃんはできるだけ一人にならないほうがいいね」
 「そのようですな。棗さまのほうは私たちに任せて、七宝と雲母はかごめ様の方を頼むぞ」
 その言葉に、猫又は退治屋の手に頭【こうべ】を擦り付ける。
 「心配いらんぞ、かごめはおらが守ってやるからな」
 仔狐は自信満々に胸を張る。
 「けっ、どーだか」
 「なんじゃとっ、おらはこの前位が上がったばかりなんじゃぞ、前とは違うわい!」
 犬夜叉のまぜっかえしに、七宝が食ってかかった。
 ふ、とかごめは外を見やる。いつも通りのやり取り、いつも通りの日没。なのに今日の夕陽がひどく禍々しく目に映るのは、やはり心のどこかに不安があるからだろうか。
 (大丈夫よ、ね…)
 耳聡い仲間たちに気づかれぬよう、とかごめはそっと息をついた。