裂け目のように細いみかづきが高々と昇る。夜の帳はとうに降り、空が最も昏く深まる刻限になった頃、下男が一行の部屋へまろぶようにして駆け込んできた。
「姫が現れました、城の西、侍女たちの寝所付近です!」
聞くや否や、犬夜叉は鉄砕牙片手に飛び出した。
「かごめ、絶対に部屋を出るんじゃねえぞっ!」
「う、うん…」
(さっきまで全然、やる気なさそうだったのに…)
その勢いに半ば茫然としながらかごめが答えると、弥勒が呪符を手渡す。
「念のため、この部屋に内側から結界を張ってください、かごめ様。あとは七宝と雲母に任せましょう」
「雲母、頼んだよ!」
主人の命への服従の証に、ふるりと雲母はその二股の尾を振る。
「わたしは犬夜叉を追います。珊瑚、お前は姫の寝所へ!」
「わかった!」
「二人とも、気をつけて…!」
走り出す二人の背に、かごめは心配げに声を投げた。
部屋を照らす燭台の明かりは、ちらちらと心許なさげに揺れる。それが却って闇を濃くして、不安が掻き立てられる。火の傍らに座るかごめの膝には、早くも寝入ってしまった七宝が自らの尻尾に身をくるんでいた。
その寝姿にちいさく笑みをこぼして、かごめはそのこげ茶の髪をゆっくり梳いてやる。
雲母はといえば、七宝同様その紅いまなこは閉じられているものの、ほんのわずかな音にも耳がぴくりと反応する。
(弥勒様の結界もあるし、雲母もいる。何も心配することなんてないわ)
なのに、胸がひどく騒いで落ち着かない。
大丈夫、と自分に言い聞かせながら手を握りこんだ瞬間、ぱりぱりと閃光が弾け、結界が破られる。
「えええええっ!」
思ってもみない展開に、かごめは声をあげた。
それとほぼ同時に、襖の向こうから妖怪がずるりと入り込んでくる。途端に雲母は変化し、第一陣はその牙の餌食となった。
「七宝ちゃん、起きて!」
声をかけ、寝ぼけまなこの七宝を抱えたまま、かごめは弓矢を取ろうと駆け寄るが――。
「…っ!」
辛うじて雲母の刃から逃れた一匹が、左腕に毒を吐きかける。
(こんな狭いところじゃ、雲母が満足に戦えないわ!)
弓手【ゆんで】をやられては、かごめはもはや戦力とは言い難い。ならばせめて、巨大な猫又の動きやすい場に移動するほかなかった。
ようやく眠りから覚めた七宝を引き連れ、一人と二匹はばたばたと城の中を走り回る。国が豊かなだけあって、城の中はやたらと広い。妖怪たちは七宝の狐妖術や雲母の一撃に打ち倒されてゆくのだが、なぜかその数は減らない。そうこうするうちに、廊下のどん詰まりに追い込まれてしまった。
「まずいわ…」
すっかり息の上がってしまったかごめは、汗をぬぐう余裕もなく戦慄する。
有象無象の輩が一斉に襲いかかってくる。いっかな雲母であっても、すべての妖怪を一度に引き裂くことはかなわない。
(来る!)
――と、かごめは右腕をぐっとつかまれた。
「はやく、こちらへ!」
なかば引きずるような形で、かごめを部屋に引き入れたのは椿その人だった。
「結界を張ります、急いで!」
「七宝ちゃん、雲母も!」
考えている時間はなかった。かごめは七宝と雲母を部屋へ招き入れ、勢いよく戸を閉める。椿が札を貼り付け、結界が張られた。
「あの…助かりました、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ間に合ってよかったですよ」
しわぶくように笑む老婆からは、一切の悪意は感じられない。部屋もごく質素で、香炉からかすかな香りが漂っている程度だ。
(なんだ、別人だったのね)
違う意味でもほっとしながら、かごめはその場にへたり込んだ。
「どうしました?」
「いえ、長いことお城の中を走り回って、疲れちゃって」
「それならば、ここでゆっくり休んでおゆきなさい。そう、ゆっくりとね…」
何か含んだような、椿の口調。けれど、とにもかくにも『助かった』ことに気を取られているかごめは気づかない。
「そうだ、七宝ちゃんと雲母は?」
「ああ、そこで眠っていますよ」
椿の云う通り、二匹のあやかしはすうすうと寝息を立てていた。けれど――何かがおかしい。
(七宝ちゃんも雲母も、ぴくりともしない!)
かごめはきっ、と椿をにらみつけた。
「七宝ちゃんと雲母に、何をしたの!?」
「なあに、大したことではない。妖怪にしか効かない眠り薬を、焚いておいただけのこと…」
「それって…」
血相を変えて問うかごめに、あくまで椿は悠々とした調子を崩さない。
「こういうことだよ、かごめ」
答えた椿は、みるみるうちに妙齢の女性の姿へ変化する。それは紛れもない、以前に相対した椿の姿だった。ただし、呪い返しを受けた右目まわりの痣はくっきりと残っている。
(そんな…)
どこからともなく先ほどの妖怪たちが現れ、かごめはその身を縛【いまし】められる。
「黒巫女、椿…」
「そう、私だ。――忘れてはおらなんだな?当然だ、私はお前に復讐するためだけに、このような場に身をやつしておったのだからな」
半ばうわごとのようにかごめが名を口にすれば、椿は底の見えない目に狂気の気配を浮かべる。
「これは、その礼だ」
「うっ…」
椿は心底嬉しげにほくそ笑む。かごめは必死になって抵抗するが、無論振りほどけるわけもない。
「あたしを、どうする気!?」
椿は答えない。厭な笑みを口元に刻んで、懐から取り出した小さな水色の種子を、かごめに無理やりのみこませる。
急激に意識が遠くなる。前にも覚えのあるちくり、とした足の痛みを最後に、かごめは意識を手放した。