「出ました、今度は中庭です!」
 「…ったく、きりがねえ!」
 苛立たしげに声を上げながら、犬夜叉は暗闇の中を跳ぶように駆けていく。
 「ちょっとは、落ち着きなさい、犬夜叉!」
 弥勒も長いこと走り回り、いい加減息を切らしていた。なにせ城の者たちが言うように、姫の姿は現れたと思えば消え、消えたと思えば現れるのだ。
 「ったってなあ、こりゃあまともじゃねーぞ!」
 「そんなことは、わかって、います」
 だがただ姫の『幻影』に翻弄されているだけでは解決の糸口は見えないだろう、と弥勒は云う。
 「じゃあ、どうするってんだ」
 「ひとまず私は、棗さまの元へ行ってみます。珊瑚があちらを護っているから、特に大事【だいじ】が起きているとは考えにくいが」
 「わかった。おれはこのまま追っかけてみるぜ!」
 互いに視線を交わしあい、男たちは別々に走り去る。
 黒々と染まる城の闇。そこに潜むもう一つの謀【はかりごと】を、彼らはまだ、知らない。








 穏やかに眠る娘に、ひたひたと忍び寄る影がある。影は憎々しげに娘を見遣り、衾【ふすま】に手をかける。
 ふ、と娘が眼を開ける。上げかけた悲鳴は影の手の中におさまり、娘はふたたび意識を失う。影は満足げに嗤【わら】うと、娘の衣服を剥ぎとり――。
 そこへ、ほとほとと訪いを告げる音が鳴る。








 きりりと結い上げた黒髪が、御簾を透かしてこぼれる明かりに照り映える。気配を立ち、油断なく周囲をうかがう珊瑚に弥勒はそっと歩み寄る。
 「珊瑚、こちらはどうだ」
 「ううん、何も。やっぱりお姫様はあっちこっちに現れたの?」
 「ああ。だがいくら追いかけても捕まらない」
 「じゃあ、ほんとに…?」
 ああ、と弥勒は首を振る。
 「こんな時間に申し訳ないのだが、できれば今、姫にお会いできないか?」
 「ああ、大丈夫だと思うよ。さっきまで眠ってみたいだけど、今は起きてるみたいだから」
 「それは助かる。いや、一応どこかおかしいところはないか見ておいたほうがいいかと思いましてね」
 「うん、それがいいかもね。それで…法師様、悪いんだけど、少しだけ席を外してもいいかな」
 顔を洗ってきたいんだ、と珊瑚。
 「構いませんよ。代わりに私がしっかり警護しておきますから」
 「さて、どうだか」
 軽口をたたきながら、退治屋は足音も立てずにたちあがる。
 そのまま歩き去るのを横目に見ながら、法師は御簾の向こうへ拝顔を求めた。
 棗はいささかおびえた様子を見せたが、今日はよく眠れたか、何か夢などは見なかったかなどの質問にはきちんと答える。
 弥勒は、ふと気づいたことがあった。そうして棗の頤【おとがい】をとり、口元に指をあてる。
 「これは…いったいどういう事ですかな?」
 その瞬間、御簾をからげて珊瑚が戻ってきた。そのまま弾かれたように部屋を出て走りさる。
 ふ、と姫が笑みをこぼした。そののち透き通るようにして弥勒の前から消えていく。
 「ちっ!」
 舌打ちひとつ、弥勒は珊瑚の後を追いはじめた。








 無我夢中に、退治屋は疾【はし】る。
 (あれは…!?)
 先ほど確かに部屋の中にいたはずの棗が、珊瑚の前に現れる。
 「なっ!」
 とっさのことに対応が遅れ、退治屋は姫の握る懐剣で脇腹を刺された。ごぼり、と口腔から血がこぼれる。
 弥勒が珊瑚に追いついた。応急処置ですが、と引き裂いた法衣の裾で止血をしているところへ、必死の形相をした犬夜叉が現れる――。








 時をすこし遡【さかのぼ】る。
 「一体、どうなってやがんだ」
 結局、あのあとも数か所で姫は目撃されたものの、半時ほどでぱたりと止まった。
 墨色に塗りこめられた廊下を、半妖の眼はものともしない。苛立たしげに吐き捨てながら、犬夜叉は一足先に部屋に戻った。

(籠女籠女――)

 かごめが内側から結界を解くと、いつものようにおかえりなさい、と笑顔で迎える。

(籠の中の鳥は――)

 「七宝ちゃんと雲母は寝ちゃったみたい」
 おっとりと笑うかごめに、犬夜叉はかすかな引っ掛かりを感じた。
 (かごめの気配が、薄いような…?)
いぶかしげに犬夜叉が眉根を寄せた。七宝と雲母を気遣ってのことだろう、その様子にいち早く気付いたかごめが、小声で訊く。

(何時何時出遣る――)

 「どうかしたの、犬夜叉」
 「いや…かごめ、おれがいない間に何かあったか?」
 「ううん、何もないわよ」
 変なの、と笑う顔に一度は納得した犬夜叉だが、どうにも違和感はぬぐえない。
 (そういや、なんで七宝も雲母も寝てやがんだ)
 まだ幼い七宝はともかく、雲母は主である珊瑚が『かごめを護れ』と言い置いて出かけた以上、雲母は太平楽に眠りを貪っているのはいるとは考えにくい。
 (まさか、薬か何かでむりやり眠らされた?)
 となれば、かごめは一時的にだが一人きりになる。万に一つでも。その間になにかあったとすれば――。
 感じていた差異が、ぴたりとはまりこんだ。

(夜明の晩に――)

 「おい」
 敢えて名前を呼ばずに問いかける。

(鶴と亀が滑った――)

 「なあに?犬夜叉」
 「お前は『誰』だ?」
 すうっ、と『かごめ』の顔から表情が消えた。
 そのまま瞳を閉じると、見る間に体が融けてゆく。残ったのは、赤く血のにじむ、人の形をした紙切れが一枚。
 「…くそっ!」
 ぐしゃりと人憑【ひとがた】を握りつぶし、犬夜叉は必死にかごめの匂いをたどりはじめる。
 唯一無二の、その片割れの気配を求めて。

(後の正面誰何――)