幸いなことに、珊瑚の怪我は出血こそ多いものの、重篤【じゅうとく】なものではなかった。
 「城の人が気づいて、手当してここまで連れてきてくれたからね。あたしは大丈夫だよ」
 その顔は血の気を失って白く、その気丈さが却って痛々しい。そこにかごめの姿がないことへの落胆の色が混じっているから、なおさらだ。
 はたして七宝と雲母も薬の影響を脱し、目を覚ましていた。
 「椿の云う通り、高明【たかあきら】さまに事情を効かねばなりませんな」
 「そうだね。お殿様の部屋はどこだったっけ」
 「珊瑚おまえ、まさか行く気か?」
 「当たり前じゃないか」
 言い合う二人を尻目に、無言を保っていた犬夜叉が顎をしゃくる。
 「その必要はないみたいだぜ」
 からりと弥勒が戸を開けると、そこには厳しい顔をした高明と棗の姿。
 衣服を剥がれた棗は、寝所の奥にそのまま転がされており、とりたてて怪我もなく済んでいた。とはいえ、弥勒があの時面通しを申し入れていなければ、おそらくそれだけでは済まなかったことだろう。
 「そちらの娘さんは、大事ありませんか」
 珊瑚が頷くと、城主はわずかに頬をゆるめる。
 「ならばそのまま、楽になさっていてください」
 言い置いて、しばし瞑目する。何かを吹っ切るように頭【こうべ】をあげた高明は、この国に伝わる風習と、先代からの事情を語りだした。
 敢えて抑揚を殺した静かな声が、夜のしじまを小さく乱す。








 「水沫の国が豊かなのは、あくまで国を庇護する蛟のおかげとされておりますのは、みなさまご存じのことと思います。ですがこの国には、他国には公にされていない影の習わしが存在するのです」
 「影の、ですか?」
 弥勒は問う。
 「はい。蛟が双頭であることに由来して、双子が生まれた場合…、子らは蛟の化身として扱われ、いずれか一人を『水にお還し』しなければならないのです」
 くだらねえ話だ、と犬夜叉が吐き捨てた。
 「先代の当主…わたしの義父【ちち】にあたりますが、あの方は非常に信心深く、その教えに従うことは絶対だと思い込んでおりました。ゆえに、己【おの】が娘であり、わたしの妻である朿乃【しの】が産んだ双子にもそうすることが当然だと思っていたのです」
 「そんな…」
 同じく双子の母である珊瑚が、痛ましげに顔をゆがめる。
 「しきたりに従うのであれば、無論どちらかに手をかけねばなりませんでした。しかし、わたしにはそれがあまりにも忍びなかった。それゆえ、子のうちの一人をどこか離れた場所で育てることを決めたのです」
 隠し場所は奉り事をおこなう、『神聖な』洞窟の隠れ道を抜けたところのそばの民家を選んだ、と高明は云う。
 「当時、この国の中で義父の目の及ばぬ場所はひとつとしてありませんでしたが――、あの掟に従うほどに信心深い義父は、わたしがこの洞窟の向こうに娘を匿っているなど考えもつかなかったでしょう」
 ふう、と城主は息をつく。
 「隠れ道については、神事に危険がないか確かめるため、家臣の頃に散々歩き回るうちに見つけたものでしてね」
 皮肉なものです、と高明は苦笑した。
 高明はもともとは使用人だが、朿乃に強く請われる形で婿入りしている。それもあって、先代の当主に対して彼も強く出られなかったのだ。
 「生まれた娘はそれぞれ、棗【なつめ】、棘【いばら】と名付けました」
 「双子、と聞いた時からあるいは、と思っておりましたが、やはりそうでしたか」
 くいくい、と仔狐が弥勒の法衣の裾を引く。
 「なぜじゃ?」
 「いいか、お二人のお母さまが朿乃さま。最初の字をそれぞれ、縦と横に並べてごらん」
 納得したのか、双子につけるにはぴったりの名じゃのう、と感心するように、七宝。
 それを見守るように、初めて棗が微笑した。ひと呼吸おいて、高明は話を続ける。
 「産まれて間もない棘は、義父にこのことが露見する前に、朿乃の乳母であった滴【しずく】の手に渡りました。手元に棗を残したのは、棘がそのしぐさや目の動きから、どうやら盲目らしいと気が付いたためです。あの義父ならば、生まれた孫娘が盲目と解れば、凶事の前触れだといって、その手にかけてしまうこともあり得ますから…」
 そして十二年の長きにわたり、棘は滴に匿【かくま】われるようにして育った。滴がこのことを誰一人にも話すことはなかったのは、ひとえに死の床にあった朿乃の懇願によるものだった。しかし、それが裏目に出る事態が起きる。
 「半年前、滴は不慮の事故に遭い、命を落としてしまったのです。洪水に巻き込まれてゆくえ知れずになり、その亡骸が見つかったのはひと月ほど後のことでした」
 朿乃の死後、宿下がりをしたはずの滴と高明があまり頻繁に連絡を取り合っていては、どこから棘のことがもれるか知れない。それを防ぐため、二人の連絡は月に一度程度にとどめられていた。それゆえ高明が滴の、そして棘の異変に気付くのはひと月近くたってからだった。
 棘は盲目であることもあり、また下手に出歩いてはどこで人目に触れるともわからない。そのため滴は自分が留守をする時には、外から屋敷に鍵をかけていた。ゆえに、滴の死はそのまま、棘の監禁状態に直結する。
 滴の死を知った高明は娘を匿っている民家へと急いだが、すでに棘の命はなかった――。








 突然に食物をたたれ、唯一の話し相手である滴もない。身の回りのことも滴の手助けがあってようやっとの棘は、耳が痛くなるほどの沈黙の中、汚物にまみれ、飢えと乾きにさらされてひとり命をおとしゆく。
 「どうして?なぜ?なぜわたしは、このように死なねばならないの?」
 絶望の淵に追いやられた棘は、茫洋と問う。
 「知りたいか?」
 女の声がする。
 既にもう、ほとんど正気を失っている棘は、それが不自然なことだとは気付かない。
 (全てはそなたの、父のせいだ)
 (そなたをそこへ閉じ込めたのは、そなたの父だ)
 (そなたの姉は、何も知らずに、父と幸せに暮らしている)
 (姉が憎いか。父が憎いか)
 「…憎い?」
 (憎い。わたしを捨てた父が、姉が!)
 なぜ、わたしばかりがこのような目に遭わねばならない!
 「ならば来い。そなたに、力を与えてやろう――」
 床の上を、なにかが這いよる気配。
 かすかな水の匂いを感じながら、棘は最期に目を閉じる…。








 「義父が身罷【みまか】ったのは、それからひと月ほど後でした」
 高明は遠い目をした。
 「もう少し早く手を打っていれば、棘を死なせることもなく、もう一人の姫として迎えてやることができた」
 けれどもう手遅れです、と痛みをこらえるような調子で、高明は云う。
 「棘の魂は、いまだ休まることなくこの世に留まっている…。それもこれも、すべて私の不徳の致すところです」
 「ですが、おそらく椿はこの城に入り込み、蛟と不死の契約を交わしたことでもう一人の姫の存在を知り、ずっと事を起こす機会を伺っていたはずです。そこへ、死にかけている棘さまに揺さぶりをかけ、仮初めの躰をあたえるのはたやすかったでしょう」
 と、弥勒。
 「なれど――いや、だからこそわたしは、あの子の心を鎮め、軛【くびき】から解き放ってやらねばなりません。そのためなら、わたしは命さえ惜しくはない」
 ですからどうかわたしをお連れください、と高明は懇願する。
 それまで口をはさむことなく静かに話を聞いていた棗も、泣きださんばかりの顔で首を振る。
 「軽々しくそんなことを仰ってはなりませんよ。あなた様には、棗さまもいらっしゃるのですから…」
 弥勒の気遣いの言を、あくまで犬夜叉は意に介さない。
 「俺たちは、椿を倒してかごめを救い出すのが目的だ。てめえの命は自分で守るんだな」
 物言いはああですが、高明さまのことを心配しているのです、と弥勒はひっそりと小声で告げる。
 「ああ…もう朝が来るね」
 これまで黙って話に耳を傾けていた珊瑚が、白々と明けようとしている空を見上げる。暁のひかりはあくまで眩【まばゆ】い。場違いなほど楽しげに、小鳥のさえずりが皆の耳朶【じだ】をくすぐる。
 ともかく、一旦寝【やす】みましょう、と弥勒が手を打った。
 「椿も今頃は手ぬかりなく待ち構えているでしょうから、こちらも万全の態勢で臨まねば」
 一同は静かに首肯【しゅこう】した。