高明【たかあきら】が去るなり、犬夜叉は鉄砕牙を抱き、膝を立てて座り込んだ。
 深くうつむいた横顔は、滝のように流れる白銀の髪にさえぎられ、しかとは判別できない。
 珊瑚は傷のせいか、熱が出てきたらしい。薬湯を飲ませて横にならせてはいるが、かごめのことが心配でならないのだろう、中々寝つこうとはしなかった。
 「せっかく法師様が教えてくれたのに、あたしはなんの役にも立たなかった…」
 弥勒は『棗』の顔を上向かせた瞬間、ひどく剣呑な顔をしていた。そして珊瑚に、後ろ手に『行け』と合図を送ったのだ。
 ――かごめが危ない、と。
 熱にうかされていることもあるだろうが、とろりと珊瑚の双眸は潤んでいる。
 「珊瑚のせいではありませんよ…と云ったところで、信じるお前ではないだろうが」
 先ほどまで新しい呪符をしたためていたらしい弥勒も、今はその手を止めていた。
 「ともかく…しっかり休みなさい、珊瑚。お前がそんな様子では、帰ってきたかごめ様が『迷惑をかけた』と気落ちなさるのではないか?」
 「うん…」
 傷の部位を避け、とんとんと背なをやわく叩いてやると、ようやく珊瑚は眠りに就いた。
 完全に寝入ったことを確認して、弥勒は犬夜叉に問いかける。
 「不安か」
 「…たりめーだ」
 椿の手に落ちたかごめが、一体どんな目にあわされているのか――考えれば考えるだけ、犬夜叉の気持ちは焦れる。
 「訊くまでもなかったな」
 ごくごく小さく、弥勒が苦笑した。
 「なればこそ、お前も少しは身体を――いや、心を鎮めておけ」
 もともと半妖の体だ、犬夜叉にしてみれば一晩やそこら夜明かししたくらいではどうということもなかろう。それでも色々考えすぎるなよ、と法師は告げる。
 「さて、わたしも一休みするとしますか」
 ひとつ伸びをして、弥勒も錫杖を片手に目を閉じる。
 かごめを無事に助け出したいからこそ、今は力を蓄えなければならない。
 決戦まで、もうしばし――。








 そうして、宵闇に周囲がくるまれるころ。
 犬夜叉と弥勒、七宝と雲母、そして高明が水脈への入口に立った。
 今度も珊瑚は自分も行くと言い張ったが、とてもではないが動ける体ではない。それを弥勒がようようかきくどき、城内に留まることを承知した。
 足元を脚絆でかためて大小の刀を差した高明は、巫女さまが操られていたという件についてですが、と口火を切る。
 「わたしも気になって古い文書などを調べてみたのですが、巫女さまはおそらく『水の種』を呑まされたのだと思います」
 「なんでい、そりゃ」
 問う犬夜叉。
 「なんでも…水の種とは、蛟の鱗を砕き、その血液を混ぜ込んでつくられたものなのだそうです。蛟は龍の眷属ですので、大なり小なり、霊力を持ち合わせています。その霊力により、水の種を呑んだ者を傀儡【かいらい】と化すのでしょう」
 「なるほど…たしかに椿は『蛟と契約を結んだ』と言っていた。だからこそ、椿はかごめ様を意のままに操ることができる」
 蛟は妖怪に近い部分もありますからな、と顎をさすりさすり、弥勒は云う。
 そして、その呪いをとくには水の種を吐かせ、そののちに『神火【しんか】の滅【めつ】』と呼ばれる儀式が必要らしいのだが――。
 「それがどんな儀式なのかは、どの文献にも書かれていなかったのです…」
 「そんじゃあ、どうすりゃかごめを助けられるのか、わからねえじゃねえか!」
 「落ち着け犬夜叉。具体的な方法はともかく、かごめ様を救う手立てがあるとわかっただけでもよいではないか」
 「…っ!」
 高明に詰め寄る犬夜叉を、弥勒が宥める。不承不承の体【てい】で、犬夜叉は沈黙した。
 「それともう一つ、支配を完璧なものにするためには、水の種の、それも混ぜ込まれた血液を完全に体に馴染ませる必要があるそうです」
 それには丸一昼夜はかかるらしい、と高明は続ける。
 「それで合点がいったぜ。椿のやつ、かごめがいなくなったことをおれたちに気づかれねえように、形代で時間を稼ぎたかったんだろうよ」
 「となれば、今夜中にかたを付けてしまわねばなりませんな」
 そうして一行は、ゆっくりとした足取りで地下水脈を下りてゆく。
 なれどさほどもしないうち、おぼつかない足取りで壁をさぐりさぐり、一行を追う小さな影に気づいたものはない――。








 ぴとり、ぴとり。
 じっとりと湿った空気の中、雫の落ちる音が響く。
 男たちは犬夜叉を先頭に、間に灯篭を携えた高明が続き、しんがりに弥勒に進んでいた。眸【め】の利く犬夜叉がいち早く異変に気づき、かつ高明の安全を考慮しての隊列。七宝と雲母は、その間を縫うように歩いていた。
 「半刻ほど行けば、聖地に辿りつきます」
 声を抑え、高明は告げる。
 歩きやすく整えられた水脈への道は、ゆるやかに弧を描いてその先を闇に閉ざす。
 ともすれば早足になりそうな歩調を、犬夜叉は必死にとどめる。背後の高明もまた、ただならぬ覚悟を抱えているのが伝わるからだ。彼はただひたすらに、棘のことを考えている。それを置きざりにするのは道理に合わない。
 そうとわかっていても、犬夜叉は気が狂いそうな不安に包まれる。
 (かごめ。どうか、無事でいてくれ――)
 じりじりと長いその道が、唐突に開けた。じゅう、と音を立て、明かりの炎がかき消える。
 「これは…」
 光のないはずのその場所は、さらさらとうす蒼【あお】い輝きに包まれ、遥かに水をたたえた湖が広がる。その怜隴【れいろう】な輝きに、一同はしばし言葉を失った。
 「来たか」
 双頭の霊蛇【れいじゃ】と邪【よこしま】の巫女が、その最奥より姿を見せる。