茫然と立ち尽くす高明【たかあきら】の前、あくまで水はおぼろに碧【あお】い。見霽【はる】かす限りの景色は光に揺れ、洞窟に綾な影を落としていた。
「高明さま、この場所はいつもこのように明るいのですか?」
法師の問いに意識を引き戻し、高明は答える。
「いいえ…このような光景は、初めて見ます」
「さようで。こちらとしては、暗闇で戦うよりはよいのですが…」
相対する蛟の瞳は、薄い灰の色に染まって感情を読ませない。きろり、と対のこうべが二人へ向いた。
「法師様。蛟は長いこと暗い洞窟にいたせいで、おそらく目は退化してしまっていることでしょう。その分は、何か別の器官で補っているはずですが…」
「目に見えるものだけを頼りにすると、思いもよらぬ攻撃が来るかもしれないということですな」
それだけでも重畳、と弥勒は不敵に笑んで見せる。
「高明さまは、お下がりください。わたしも戦いながらどこまで庇えるか、皆目わかりませんので――」
高明が素直にその言葉に従おうとした瞬間――攻撃はいきなり、足元から来た。
「…ちっ!」
変化した雲母が間一髪、二人を背に乗せ宙に舞った。途端、蛟の顔がうろうろと彷徨い始める。
瞳まで皓【しろ】い、ちいさな蛇――あるいは、水を束ねたらこのようになるのではないか――だ。牙からはぬらりと毒々しい紫をしたたらせている。その正体はおそらく、毒と瘴気。
「探していますね、わたしたちを」
声を潜め、高明。
(地に足を付けていなければ、居場所を把握することができない…とすれば)
「おそらく――この土にしみ込んだ『水』を媒介に我らの位置を把握していたのでしょうな。さすがに水の眷属なだけはある」
しかし種さえ割れてしまえば、竜蛇を叩くのは容易い。縦横無尽に飛び回る猫又の背から、呪符、錫杖、雲母の牙――あらゆる手段を用いて、法師は確実に蛟の力を削いでゆく。
蛟竜【こうりゅう】の鱗はざらざらと剥がれ落ち、傷のそこかしこからは、けして少なくはない量の血液が流れ落ちている。ぎゃおうぎゃおうと、我を忘れたような絶叫が洞窟の裡を反響で満たす。
なれど――。
じゅうっ、と嫌な音がして、前触れなく雲母の体が縮んだ。子猫の姿の猫又は、みい、と小さく鳴き声を上げて悶えている。
それは、弥勒達の情勢が一気に悪化したことを示していた。
すんでのところで高明を水気のない場所へ逃がすと、どこからともかく仕掛けられる地面からの攻撃を、法師は勘を頼りに避けつづける。しかし水で湿った足場では、思うように踏ん張りがきかない。足がもつれた。
「くっ!」
ついに、かわしきれない一撃が弥勒を襲う――。
弓を携えた巫女姿のかごめは、犬夜叉と対峙する。そのかごめを先頭に、無数の妖怪たちが椿を護るような形で取り囲んでいた。
(ちっと厄介だな…)
あまり派手な技を使っては、洞窟そのものが崩壊しかねない。
(面倒だが、一匹ずつ相手するしかないか)
「言っておくが、今度はわたしを倒したところで、かごめの支配は解けぬぞ」
「わかってんだよ、んなこたあ」
黒巫女の口許に浮かぶ、うすい笑み。
「ただ…お前が知ってるだろう『神火【しんか】の滅【めつ】』についちゃあ、きっちり吐いてもらうぜ!」
ぴくり、とかすかに椿の眉が跳ねたが、次の瞬間にはその顔に余裕の色が刷かれている。
「行け」
命が下った。相変わらず薄紅色の唇から言葉をこぼさぬまま、かごめは矢をつがえる。常日頃くるくると表情を変えるその瞳は、今はくすんで何者をも映していない。
戦国へ来て三年あまり、かごめの弓捌きは見違えるほどに磨かれている。それこそ、かの巫女をも凌ぐほどに。その霊力、その伎倆【ぎりょう】。彼女はもはや、油断できる相手ではなくなっていた。
(つっても、お前に負けるわけにゃいかねえんだよ!)
次々に放たれる矢をひたすら躱しながらも、犬夜叉は確実に椿の敷いた妖怪たちの布陣を狭【せば】めてゆく。
(あと少しで椿へ届く――!)
「かごめ!」
そう思ったところへ、響き渡る椿の声。
瞬間、犬夜叉は身が削がれるような感覚に襲われる。びいん、と余韻を残して消えていくその音は、まぎれもない鳴弓【めいげん】だ。
物の怪を祓うために行う、巫女の弦【つる】打ち。ぱたり、と七宝が気を失って倒れこみ、弥勒とともにあるはずの雲母もまた、その巨体を沈められていた。
(くそっ…順番を間違った!)
かごめの浄化能力は並外れたものだ。単純に矢に込められた霊力だけを警戒するだけでは到底足りない。想定すべき事態だった。
(先に、こっちをどうにかしてからだな)
ひとまず七宝を安全な場所へ避難させる。その間も絶え間なく撃ち込まれる矢を、鳴弦で力の入らない体を叱咤してどうにか避けつづけ、犬夜叉はかごめの懐へ入り込んだ。
すまないと思いつつも、顎をかすめるように拳を放つ。途端、かくりと糸が切れたように清らの巫女は倒れ伏した。いかに意識を操られていようとも、脳震盪【のうしんとう】をおこしていてはしばらくは動けようはずもない。
その間に犬夜叉はかごめの背を叩き、水の種を吐き出させる。
「無駄だ。それではかごめは助からぬ」
高らかに謳【うた】うがごとく、椿が宣言する。
「わかっている、と云った!」
雑魚妖怪を愛刀の錆に変え、犬夜叉は椿のもとへたどり着く。巧みに背後を取り、犬夜叉は椿を羽交い絞めにした。
「教えろ。『神火の滅』ってやつがなんなのかを」
「さあて…」
鉄砕牙の刃先を首元に食【は】ませた犬夜叉がすごむも、椿はさらりと空とぼけてみせた。
「かごめ。今度こそ、わたしの勝ちだ」
恍惚とした口調でかごめに語りかけながら、椿の気配は霧散してゆく。
「これも、傀儡【くぐつ】か!?」
(だとすれば、本体はどこに?)
半妖の耳朶【じだ】に響くのは、声をたてる事すらできずに苦悶する、巫女の細い息遣いばかり――。