弥勒のおかげで退避を済ませ、ひとまず安堵した高明【たかあきら】のもとに、思いもよらない来訪者が姿を見せた。
 「棗!お前、どうしてここへ…」
 高明の問いに棗は答えない。見えない眼でぐるりと辺りを見渡して、わずかに震える声で問う。
 「棘!いるんでしょう…?出てきて」
 言葉に応えて、棘は口許に皮肉な笑みを刻み、二人の前に現れた。その姿は半ば透き通ってうす青く光を放ち、あまりに儚い。携えるのは、少女の幻影にひどく不釣り合いな、ひとふりの短剣。
 気配を察してか、棗の視線が定まった。
 「はじめまして、といえばいいのかしら…。あなたは妹?それとも姉さま?」
 「――妹だ」
 苦々しい口調で、父は云う。
 そう、と姉は呟いた。
 「棘、あなたには…わたくしのせいで、本当につらい思いをさせてごめんなさい」
 黒々とゆたかな髪を肩口から流して、棗は頭を下げる。その謝罪を、棘は鼻先で嗤いとばした。
 「そんな軽々しく謝られたってねえ、あたしがどんなにみじめな思いをしたか、知りもしないくせに!」
 「申し訳ないと、思っているわ…」
 慙愧【ざんき】からか、眉根を寄せる棗の前で、棘の双眸が妖しく濡れる。
 「じゃあ、あたしの願いを聞いてよ、姉さま」
 「なあに?わたくしにできることならなんでも…」
 「――姉さま。今まできれいなおべべをきて、うまい飯もたんと食ったろう?だからさ、その身体、あたしに頂戴な」
 棗が言葉を失った。すかさず棘はたたみかける。
 「それともなに?今まで知りもしなかった女に身体を差し出すのはお嫌?それとも…そうだね、さしあたってそこの男の命でも貰えば、その気になるのかしら?」
 「やめて!」
 にや、と棘は哂った。息を乱し、顔面蒼白になりながら、それでも棗は棘に呼びかける。
 「違うわ…、違うの、聞いて」
 「何をさ?」
 棘が嘲【あざけ】る。
 「本当は…知っていたの、あなたのこと。見たのよ、目が見えなくなる少し前に。父上が泣きながらちいさな形代を抱いていたのを。形代の長い髪を何度もなでて、いばら、いばらって、押し殺したような声で、呼んでいた」
 棘の手が、小さくこぶしを握る。棗は続けた。
 「わたくしは、ずっと不思議でならなかったの。幼いころから、父上はずっとわたくしに、誰かの面影を重ねていたわ…それが誰だったのか、その時やっと解ったの」
 うそだ、と震える声で、棘は呟く。
 「わたくしには、血を分けた、対の名をもつ、姉妹【はらから】がいるのだと」
 棗の瞳から、一掬【いっきく】の涙がこぼれる。
 「あなたがこんな目にあったのは、父上のせいではないわ。だからお願い、父上を恨まないであげて。わたくしの体ならあげますから、どうか父上だけは――」
 「うるさい、うるさい、うるさい!」
 短剣を握りしめ、棘は二人に向かって駆け出した。高明はとっさに、棗を突き離す。そうして生まれた空間で、高明は棘の体を、腕を広げて迎えいれた。少女の手の中、刃【やいば】に伝わる、固い感触。
 「ああ――」
 うわごとのように、高明が声を漏らした。いとおしげに、父は娘の髪を撫ぜる。
 「やっとだ…やっと、こうしてお前を抱き締めてやることができた。悪いのはわたしだ、この父だ。長い間、あのような場所にお前を閉じこめたのはこの父だ。棘よ、さぞかしわたしが憎かろう、怨めしかろう。だから、お前がそれで心安らげるというのなら、この命などいくらでも差し出そう。棘…、本当に、ほんとうにすまなかった――」
 棗の耳に、どしゃり、と重いものが崩れ落ちる音がひびいた。









 倒れ伏した高明を前に、棘は無言だった。人ならざる紺碧の輝きに包まれたまま、きつく唇を引き結んでいる。
 ふらり、と棗は立ち上がった。そのまなこには光こそ宿らぬものの、確固とした意志が宿っている。
 「これで…満足ですか、棘」
 「なれなれしく――、呼ばないで」
 棘の声から、既に先ほどまでの勢いは失われている。
 「父上を殺して、わたくしの身体を乗っ取って!それで本当に嬉しいのですか!」
 「あたりまえだろ」
 「違う!」
 棗が絶叫した。
 「違う…あなたが真実欲しかったのは、家族です」
 震えまじりに向けられた言の葉に、棘の瞳がかすかに揺らぐ。
 「確かに滴【しずく】は、あなたに誠心誠意仕えたでしょう。けれどそれは母上の遺言があってことのこそ。あなたたちの間にはどうしても主と従の関係があったはずです――だから何の打算もない、家族の無償の愛が欲しかったのではないですか」
 「そ…んなことあるもんか、だってあたしはあんたたちが憎い!」
 己に言い聞かせるように声を荒げる妹に、姉は静かに反駁【はんばく】する。
 「だからこそなのです!憎まねばやりきれぬほど、あなたは孤独だったのではないですか…、棘」
 いばら、と棗が声を重ねる。
 棘は、絶句した。









 「つうっ…」
 姉妹の間を疾【はし】り抜ける緊張を打ち壊したのは、低い男の呻きだった。よたよたとした躰さばきで、ゆっくりと高明が身を起こす。
 「父上!お怪我は…!?」
 「いや――、大事ない」
 ごほ、といちど急き込んで見せたのち、高明は懐に手を入れる。
 「これのおかげで、わたしは助かったのだ」
 ずいぶんと人の手が触れたのだろう、ずいぶんと古びて見えるそれは――。
 「お前の形代だよ、棘…」
 心から嬉しげに、棗がほほ笑んだ。
 「ねえ、棘。あなたが、ほかでもないあなたが、父上を助けたのですよ!父上が助かったのなら、もうわたくしに思い残すことはありません。どうぞこの身体、あなたの好きにお使いなさい。そうして父上と、幸せにお暮しなさい――」
 棘を探して、棗の手が空をさまよう。
 (こころが、ゆれる――)
 (あたしは、父が、何より姉が憎かったはずだ)
 (そうして、望んだはずのものは今すべて、手に入ろうとしているのに、どうしてこんなにやりきれないんだろう…)
 「あたしは、」
 かくん、と棘がその場に膝を追った。短剣が、その手からこぼれて落ちる。
 「生きている間、滴はそばにいてくれたけど、それでもずっと寂しかった。外に出ることもできなくて、楽しいことなんてひとつもなかった」
 か細い声を頼りに、棗がふらふらと歩みだす。その手を引いて、高明が進む。
 「死ぬときも、お腹が空いて、汚くて、苦しくてしかたなかった」
 妹の前には、姉と父。
 「なのに…」
 棘は、そっと顔を覆う。
 「なのにどうして、涙がとまらないんだ…!」
 声もなく涙をこぼす棘を、高明と棗は強く強く、ふたりかき抱いた。