狂おしいまでに、焦がれ惹かれてやまなかったもの。持て余すほどに膨れ上がった渇望は、到底無くなりはしなかったけれど。










 逢瀬あふせ










 女妖を乗せた白い羽根が、頼りなく揺らめきながら大地を目指す。半ば墜落するような形で、妖――神楽はその場へしゃがみ込んだ。そこらいったいに、可憐な花の咲く野原。なんとも不釣合いなことだ、と神楽は思う。
 ひどく憂鬱な気分だった。どうにもうすら寒く、吐き気までする。ああ、あの忌々しい我が主の触手が腹を突き破って、その直前に欲しくてならなかったものを託されて、それで…。
 (動いてる… あたしの心臓。)
 とくとくと、鼓動はたしかに神楽の中で刻まれていた。呼気を整え耳を澄ますと、どこかでそれが響いているのが判る。一心にそれを伝えてくる、慣れない感覚。
 さっきの続きを思い出した。そうだあたしは、心臓を取り戻したんだった。
 (これからどこへ行く?)
 ぱたぱたと小気味良い小鳥の羽ばたきを遠くに聞きながら、ぼんやりと神楽は自問する。ええと答えは…いや、考えるまでもないか。
 (どこにでも行ける。 あたしは自由だ。)
 どこへだって、好きなように。するりと紡ぎ出された旋律が、不思議にくすぐったい。もうこの言葉を使うのに、何の遠慮も躊躇【ちゅうちょ】も要らないのだ、それだけでたまらない。
 あたしは自由だ。どこにでも行ける。神楽はもう一度繰り返した。でも、でも――。
 (ちくしょう。 体がいうことをきかねえ。)
 ふいに、ずれていた思考がはめ直された。痛みで朦朧とする意識をつなぎとめようと、神楽は必死に手を握り込む。まだ死にたくはない、抗わないわけにはいかない。けれど、あまりにも無造作に噴きだす血に、そう長くない未来を思い知らされるのだ。ざあざあと、背中で奈落の瘴気が猛り狂う――。
 (静かだな。 誰もいねえ。)
 心臓が戻ってきたからといって、結局どこへも行けはしなかった。未知の扉の向こうには、めくるめく新たな世界など広がっていない。あるのはただ、これからのたれ死ぬのだという深い絶望と、寸刻みに襲いくる激しい苦痛。
 (ここで終わるのか。 たったひとりで――)
 焦点の合わない瞳に映る、無数の野花【のか】。もう、自嘲の笑みさえ浮かんではこない。
 (これが… あたしの求めていた自由――)
 途方もない無力感に、眩暈がした。望んで望んで望みつづけて、ようやく叶った願い。かき集めた命を引き換えにしてまで得た解放が、これほどまでに虚しいものだったなんて。だったらあたしは一体、なんの為に――。
 さく、と小さく草を踏みしだく沓音【くつおと】がした。微かに風がわたる。
 (殺生…丸…?)
 頭をあげるなり目に飛び込んできた情景に、神楽は戸惑う。恐ろしいまでに冷徹で、強大な力を秘めた妖の顔がそこにあった。いつものとおり無機質で、感情の読み取れない静謐な面差し。知らぬうち胸を高鳴らせる神楽を前に、やはり淡々と、彼は云った。
 「奈落の瘴気の匂いを追ってきた。」
 「ふっ…」
 なんだ、やっぱりそういうことか。鼻で笑ってみせながら、女妖は小さく口の端を歪めた。…そう、こいつがどうしてあたしの許【もと】へ赴く必要があるだろう。最初からわかりきっていた筈だ。それを今更、どうして期待など。
 「がっかりしたかい。 奈落じゃなくてよ。」
 莫迦らしいにも程がある。顔をあげているのも億劫で、神楽は首の力を抜いた。斜に構えた物言いがやけに皮肉っぽく響き、僅かな沈黙がおちる。
 「…」
 「おまえだとわかっていた。」
 抑揚のない殺生丸の声に一瞬息が止まる。驚愕に顔を染め、神楽はもう一度面【おもて】を起こした。どす黒い靄を垂れ流す体、揺れる大気。言葉は自然と、神楽の口を衝く。
 「そう… か…」
 (わかっていて… 来てくれたのか…)
 不覚にも、心が震えた。
 奥の手として生み出された悟心鬼が、半妖に屠【ほふ】られた。そしてその兄が牙から刀を打ち出し、携えていると聞いた――それがはじまりだった。
 目の前に立ちふさがる敵を倒すのと、その妖気を常に押さえ込むのとでは雲泥の差がある。かの妖はそれを、しかも鍛治師の邪気まで上乗せされたものを、いともたやすくねじ伏せたというのだ。
 殺生丸は強い。その上何の役にも立たないだろう矮小な小鬼や、か弱い人間の娘雛【めびな】を傍に置く、どこか酔狂な野郎だ。上手いことくすぐってやれば、或いは心臓を取り戻す助けとなるかもしれない。初見の印象はおおかたそんなものだったはずだ。
 それからのち、妖狼族の若頭から奪い取った四魂のかけらを餌に取引を持ちかけるも、妖はにべもなく斬り捨てる。そうして神楽を打ちのめすような言葉を投げつけてきた。
 ――ひとりでやる覚悟がないのなら、裏切りなど考えんことだな。
 悔しいほどに羨ましい、と思った。一片の迷いもなく己を貫き通す強さを、絶対的な意志を宿す鋭利なまなざしを。
 自分の在りようを疎ましく感じることで、ただ安っぽいばかりの憧憬だったものは、いつのまにか根を張った。少しずつ形を替え、際限なく心を埋め、神楽はいつしか妥協を忘れた。いつか必ず、この手できっとと、そう。
 人という生き物なら、たぶんこの感情を恋とか何とか呼んだのだろう。けれど、それが本来持つはずの甘ったるさとはまったくもって縁遠いものだった。
 あの、腹が立つほどに迷いのない立ち姿を前にして、そんな不確かすぎる想いを持つなど、とんだお笑い種【ぐさ】だ。隷属の証――鼓動を刻まぬこの胸を灼【や】くのはただ、妖の与えた信念ばかりだった。他者の力をあてにするではなく、おのれで為せと。
 果たしてあたしはその道を選び、殺生丸はあたしを認めた。今こうして奴が目の前に立っていることが、何よりの証だ。
 それを鑑みればこの結果、さほど厭うべきものではないのかもしれない。ずっと嫌悪しつづけていた見苦しい生き方や、それに甘んじてきた自分自身。それでもすべてひっくるめて、受け入れるぐらいは構わないかもしれない。あたしは、風になったのだから。
 あたしは風だ。己が意志で空を翔ける、自由な風だ。
 ――苦しい息の中、それでも生まれてこのかた耳にすることの叶わなかった心音を聴きながら、神楽は思う。今の今まで碌【ろく】なことはなかったし、犬死にと云われれば否定のしようもない。正直なところ、もっと生き延びたいと考えないでもない。
 けれどこの終わりだけなら、決して、悪くはないのだと。
 待ちかまえていたかのように、胎内でとぐろを巻いていた瘴気が一気に腹を喰い破った。ここまで、本当にここまでだ。
 「…いくのか。」
 「ああ… もう いい…」
 殺生丸の問いかけに、どこか恍惚と神楽は答える。たしかに死の淵を覗き込みながら、心は穏やかに凪いでいる。末期の時に、まさかこんなにも満ち足りた気持ちになろうとは。
 あざやかな丹【あか】の双眸が、ゆっくりと細められる。紅の剥げた唇を、神楽は柔らかく微笑ませた。
 (最後に… 会えた。)
 思うことは、一つきりだ。
 あたしは、目の前の妖の心を、ただの一度でも吹き抜けることができたろうか。遺骸のかわりに生み出される風は、あの長い長い銀髪を、ほんの一房でもそよがせることができるだろうか――。










 さらさらと舞い上がった花弁が、視界を淡い紅色に染める。高みへと昇る一陣の風を追い、一枚の薄羽【うすば】が、いずことも知れぬ空へと旅立った。
 (あたしは風だ。 自由な風だ。)
 ――目指すのは、何に縛られることもない、遥か彼方。