独り善がりで、我が儘で。自分がそんなだから、厭な思いをさせてしまったけど。
 怒らせたい訳じゃない。悲しませたい訳でも、ない。
 だから一つ、魔法をかけよう。仲直りするための、それは――。 







テンパリング・キス
tempering-kiss








 蜂蜜色の日光が緩やかな螺旋に降り注ぐ、満ち足りた昼下がり。まどろむような温【ぬく】さを抱いて、春の風がふわふわと舞う。伸びやかな若草の、まだ初々しい新緑がすっきりと目に映え、じっくりと水気を含んだ土壌を所々覗かせる地面は、その先に連なる稜線よりもうんとなだらかな丸みをもって、遥かな空へと続いていた。
 冬の厳しさを脱ぎ捨てたばかりの蒼穹に、ぽっかりと浮かぶ綿雲が緩くたなびく。ふわふわと綻びはじめた桃の薄赤【うすあか】は、その甘やかさによく似ていた。
 時折微かな冷えを肌が囁く以外には、季節はまるきり春である。
 何をするのも億劫で、そのくせ少うし退屈で――それほどに早春の気配は安寧に過ぎて、心地が良い。あちらこちらに咲く花渦【かか】のなか、すっくと立つ土筆の懸命ささえ、やけに微笑ましく思える。 
 だがしかし、眼前の風情がいかに素晴らしかろうと、かの半妖の少年にはどうでもいいことらしかった。
 (あんなとこに居やがる)
 透けるような琥珀の双眸を眇【すが】めて、犬夜叉は一つ大きく舌打ちをした。先ほどから探していた少女を見つけたのだ。
 波が寄せては返すように、さわりと音を立ててしなる草原の浅瀬。のどやかな穏景【おんけい】に溶け込むようにして、かごめは土手に腰を下ろしていた。白磁の肌に、夜絹【よぎぬ】の髪がそよと流れる。
 「こんなとこで何してんだ、かごめ」
 ざざん、と風鳴りとともに姿を見せた彼が背後から声をかけた。しかし彼女はぺったりと座り込んで動こうともしない。
 「返事くらいしろよ」
 「別にいいでしょ」
 逆光が眩しいのか、華奢な手でを顔を庇いながらかごめが振り返った。その愛らしい造詣に似つかわしくないしかめっ面をしたまま、目をそばめて言い捨てる。
 「何怒ってんだよ」
 「――何も?」
 「んな顔で嘘こきゃあ幾ら俺でも判るっての」
 とりつくしま無いかごめの口調に、苛立ちの感情がやおら湧き上がる。しかしそれを必死に抑えて傍まで歩み寄り、犬夜叉はどっかとあぐらをかいた。
 「……」
 無言のままちろりと彼を見て、彼女は無造作にのばした脚から座りなおす。崩した正座に膝が落ちつくと、少年の頭が軽めの所作でのっかった。
 「ばれんなんとか云う菓子じゃねーか、それ」
 「――バレンタイン、よ。しかもそれ、お菓子の名前じゃなくって行事の名前なんだけど」
 何気ない犬夜叉の問いに、かごめの険が深くなる。彼女の説明こそ丁寧だが、その態度は妙にそっけない。
 「んじゃあ、その菓子は何つーんだ」  
 「チョコレート。正しくはスイートチョコレート、って云ったかしら」
 「す、すい…?だー、もっぺん云え」
 「言えなくたって困らないわよ、犬夜叉は」
 にべも無い、というのはこういう物言いを指すのかもしれない――今はどうかと犬夜叉ががそうっと様子を垣間見ると、やはりどこか憮然としている感が拭えなかった。製菓用チョコレート、と書かれたポリエチレンの袋の上から力を入れて塊を小さく割り、その内の一つを舌に乗せている。
 (何だってーんだ)
 もったりと重たげな甘さを漂わせる、その菓子。かごめは確かそういうものを好む筈で、なのにそれを口にしながらの不機嫌そうな顔というのはやはり腑に落ちない。
 (ったく、面倒臭いったらありゃしねえ)
 犬夜叉は困ったようにがしがしと髪をかき回し、という訳にはいかないが――何しろ頭はかごめの膝の上なので――代わりに視線に纏わりつく前髪をうるさげに横へ流した。
 「なら、代わりにお前のそのぶすくれた顔の理由を説明してみろ」
 「だって、食べてるとこの前のこと、思い出すんだもの」
 極力押さえた口調で少年が問うと、少しばかり怒りの感情【いろ】をふくんだ声音で少女が返す。
 「まだ根に持ってたのかよ」
 呆れたように少年が言うと、かごめが口内の欠片をそっと噛み砕いた。ぱきんと澄んだ響きと共に漂いはじめた甘ったるい匂いに、犬夜叉は知らず眉に皺を寄せる。それを見て、また彼女が顔を曇らせ――こういうのを悪循環、というのではなかったか。
 (やっぱ、このままじゃまずいよな)
 直感的に悟ってか、食いもんの好みはどうしようもねえだろうがよ、としどろもどろに彼は云う――多少は罪悪も感じるらしく、けれど納得のゆかない部分もあるらしく。
 言い訳なのか主張なのか分からない彼の態度を、しかしかごめは一言のもとに切り伏せた。
 「怒るわよ、普通」
 う”、と犬夜叉がうめいて、鋭い牙がしおらしく押し黙る。
 

 




 ことの始まりは半月ほど前の、如月【きさらぎ】の十四日【とおかあまりよか】――今でいうバレンタインデーのこと。うら若き乙女が一世一代の大勝負に出る、恋の聖戦とでも称すべき日だ。
 偶然か、はたまた必然か。これよりさらに数日前、持ち合わせの食料が底をついた。そうなれば無論、渋る犬夜叉を言霊で押し留めてでもかごめが実家へ戻ることになる訳で。
 そして買出しに出かけた先で友人達と鉢合わせれば、時期が時期だけに話題はひとところに集中する。――つまり、バレンタインをどうするか、という。
 今や戦国での生活に完全に馴染みきってはいるけれど、かごめも矢張り年頃の娘だ。言いつくろったところで、こういったイベントの魅力には抗しがたい。
 「結局男って、みぃ〜んな『手作り』って言葉に弱いのよ。その――たとえ、不良でもね。だから、ここらであんたがイイトコ見せれば、二股の彼だってきっとあんた一筋になるわよ!!」
 何だかんだで彼女達にすっかり唆【そそのか】され、少年の性格についての危惧――ただでさえ鈍【どん】な彼が色恋沙汰の機微、ましてや時代も違うというのに、その趣旨を理解できる訳があろうか――も忘れ、気付けばかごめは材料からギフトボックスから、予定外に買い込んで帰宅していた。
 そして一晩かかって慣れないお菓子作りに挑戦し、意気揚揚と当日を迎えたのだが…。
 何が気に障ったのやら、犬夜叉はその日はやたらに不機嫌で、そんなものは要らないの一点張り。加えて間が悪いことに、いつもなら難なく彼を宥めすかすかごめも、今回の傍若無人な振る舞いにはかちんときてしまって。
 まるで出会ってすぐの頃を思い起こさせる口喧嘩と、そののちに繰り広げられる光景は云わずもがな。おすわりを連発され、さんざん地べたに叩きつけられた彼も哀れといえば哀れだが――用なしとなったケーキを一人で平らげた彼女の心情はといえば、惨め以外のなにものでもなかったろう。
 努力のかいも空しく、結果は惨敗。しかし気の抜けない路往【みちゆき】にあっては、彼らの中で誰より旅なれないかごめに、しょげかえるだけの余裕などある筈がなかった。
 だからこれまで、心に潜んだもやもやしたものの正体を気にせずにいられた。けれどそれは、間が空いたからとて解決するものではないのだ。…けっして、そのまま消えてなくなったりしない。
 



 


 「だいたい、美味いのか?そんなもん」
 「――弥勒さまは美味しいって…喜んで食べてくれた、って珊瑚ちゃんが言ってたもん」
 「……」
 犬夜叉が畳み掛けるように訊くと、拗ねた物言いをして、かごめの頬が心なしか膨れた。と同時に犬夜叉の脳裏には、甘ったるくてかなわん、と胸元をさすっていた法師のげんなりした顔が浮かぶ。が、
 (黙ってた方が良さそうだな)
 ――とまあ、そういう事にしておく。
 「けど、今までは興味なかったみたいなのに、何で今更」
 「え、や、その――それはだな」
 突然彼女に話の矛先を向けられて、しどろもどろに彼が答える。その慌てぶりに何を思ったか、かごめはくすりと唇の端を持ち上げた。
 「気になるんなら…試してみる?」
 「あん?――うぐっ」
 「食わず嫌いしてないで、ちょっとくらい食べてみなさいよ」
 云うが早いか、かごめは半開きになっていた少年の口の中にチョコレートをひとかけ放り込む。犬夜叉は眼の黄金【きん】色を白黒させ――彼に使うにはこの慣用句、矛盾を含んでいるのだがそれでも云い得て妙なのはどうしてか――どうにか飲み込んで、ぽつりと答えた。
 「甘い」
 「……そ」







 投げやりな感想と一緒に溜め息を付き、かごめは次のひとかけらに手を伸ばした。今しがた割ったばかりのチョコレートの断面を見つめて、ぼんやりと思う。
 (何してるんだろ、あたし)
 今更彼にこれを食べさせたところで、どうなるというのだろう。今までの事から考えて、少年の気に入ることはまずないというのに。
 (どうしていいか…あたしも判らないのよね、多分)
 ――台無しになってしまった、あの日。心を落ち着かせて、振りかえってみる。
 友人の言葉に、冷静さを失っていた事は認めよう。バレンタイン、という行事に些か気分が舞い上がっていたことも。
 …だから手製の菓子を食べてくれなかったということも、一概に彼が悪いとは云えないことも判っているのだ。普段ならもっと上手く立ち回れる遣り取りに自分が逆上したのも、また事実。
 しかし、いくらなんでもあの態度はないだろう、とも思うのだ。


 少しでも美味しくなるようにと、わざわざ専用のチョコレートまで買って。
 出来るだけ甘さを控えめにと、ブラウニーのナッツの割合には気を使って。
 喜んでもらえるようにと、心をこめて焼き上げて。


 それで結果があれなのだから、思い出すなと云われたところで忘れられない。怒るなという方が無理なのだ。
 (あたし、チョコ大好きなのに…本当は、すっごく美味しい筈なのに)
 めちゃくちゃな形で終わった、イベントの残骸。幾ら好きなものでも、今ばかりは憎々しく感じられてしまう。正直言って、小さく八つ当たりせずにはいられなかった。
 (あーあ、珊瑚ちゃんが羨ましい)
 ちなみに人一倍意地っ張りでおぼこな、退治屋の娘。彼女の方は、自分も彼に渡すからとの言葉に力を得、どうにかこうにか、かごめが用意したウイスキーボンボンを法師に受け取ってもらうことに成功したらしい。
 大切な仲間の成功は、かごめにとっても嬉しいし喜ばしいけれど――それと同時に、正直妬ましい。理屈ではなく、どうしても我が身と引き比べてしまう。自分でも厭なのだけれど、胸がやけて仕方がないのだ。
 何かの拍子にそれを愚痴という形で珊瑚に話すと、彼女はこっそり後日談を教えてくれた。結局は一悶着あったのだというが、それでも受け取ってすらもらえなかった己よりは遥かにましだと、かごめは思う。
 (支離滅裂だわ――考えてることがぐちゃぐちゃ)
 どうして自分の中で整理が付かないのか、心の奥底では判っていたのかもしれない。これは、間違いなく――自己嫌悪だ。その感情があるから割り切れず、すっきりと片付かない。
 (誰も、悪くなんてない)
 それは犬夜叉にしろ、珊瑚にしろ。かの少年に至っては、わけも判らずこちらの計画を押し付けられた上、とんでもない目に遭わされている。彼にしてみれば、晴天の霹靂【へきれき】にも等しいだろう。
 (謝らきゃいけないのに。仲直り…したいのに)
 理性では痛いほど判っているのに、感情がついてこない。不発に終わった想いがぶすぶすと燻【くすぶ】っていて――今の自分は、それをどこか当然のように感じている。それが何より厭だった。
 (あたし…凄いヤな感じ)
 また一つ、溜め息を付く。



 「おい、溶けかけてんぞ」
 犬夜叉の声ではっとすると、つまみあげたチョコレートの表面が指の熱で溶け始めていた。それほど長い間考え込んでいたのか、と今更ながらに気付いて――意味もなく下げた目線が、膝の上の少年と双眸とまともに鉢合わせる。どうやら犬夜叉は、先ほどからずっと自分を見ていたようだ。彼は自分の利己的で汚い内心に気付かなかっただろうかと、そればかりが気にかかる。
 「何よ」
 とりあえず、どう言葉をかえしていいか判らなくて、さっきのままの態度を装いながら居丈高に問うが、彼はさして気にするでもなく言葉を投げてきた。
 「喰わねーのか?」
 「あ」
 今聞かされたばかりなのにもう忘れている。それだけ動揺しているのだろうかと頭の隅で考えながら、かごめは慌てて口の中に欠片を滑り込ませた。次いで指の表面にへばりついた残りを舐めとろうとすると、ごそり、と彼の頭が動く気配がした。途端に頭の中が真っ白になる――首根っこに手を掛けられ、唇に噛み付かれた。
 少女がほとんど反射的に身を竦めると、何故だか少年の腕の力が強くなった。どうやら抵抗しているのだと勘違いされたらしい。が、そうではないと告げようにも口が塞がっていては手立てもなく、とりあえずは瞼【まぶた】を伏せる。
 「…っ」
 視界が暗くなったぶん、口内の感触が妙に生々しく迫ってくるような気がした。すり、と柔らかな彼の指の腹が擦れるように髪を掻き分け、訳も無くぞくりとする。
 髪ごしでなく、自分の首筋を直につらまえる少年の掌はひどく熱い。彼が今、何を考えているのか――ひょっとしたら、それは自分と同じなのかもしれないと、強く思う。
 …ただ、仲直りがしたいと。







 無骨な仕草で、押さえ込んだ項【うなじ】につつと指を這わせる。わなないた細い腰をがむしゃらに抱きしめて、少年は唐突に泣きたくなった。合わせた唇が、何故だか切ない。
 (てめえの都合で振り回して――まるでガキみたいだ)
 確か、この前の時もそうだった。絶対にこちらには来るなと念を押されたものの、我慢しきれずにこっそりと時越えの井戸をくぐり――その先で見たのは、数人の娘たちの中で屈託なく笑う、かごめの姿。
 (あんな顔は、知らねえ)
 自分に惜しげもなく向けられる、包み込むような柔らかい微笑とは全く違う。どこかはしゃいだようにも取れるきらきらした表情は、彼女が彼に見せたことのないものだった。
 (それが厭だった)
 だから、不機嫌を装って困らせた。少なくともそうしていれば、かごめは自分のことだけ気に掛けていてくれるから。単なる独占欲――いや、むしろそれ以下だった。 
 (俺は、あいつにとって大事なもんを台無しにしちまったんだ)
 そっぽを向いて要らないと告げると、ほんの一瞬、少女はくしゃりと顔を歪めた。その後すぐに怒り出してしまったけれど、彼女はあの時泣きたかったのではないだろうか。…それほどに、かごめは悲しんでいた。自分が悲しませたのだ。
 息苦しさを憶えたか、引き結ばれていた少女の唇が僅かに開く。それを合図に、彼の舌は静かに彼女の口内に滑り込んだ。逃げ場をなくした歯の裏を一撫でしてやると、かごめはおずおずながらも犬夜叉に応える。
 (謝らねえと、な)
 ――そう、痛切に思う。想いを、伝えたい、と。


 
 絡まる舌の間で、甘い固体が所在なげにぬるんでゆく。うん、と小さく囁くような吐息が落ちたが――いったいどちらのものだったろう。
 ひとしきり唇をむさぼったところで、彼はとろりとした液体を根こそぎ奪いとった。かごめの唾液までまとめて嚥下【えんか】し、犬夜叉の咽喉がこくりと鳴る。
 「かごめ」
 いつもと逆さまに並んだ両の瞳を覗き込むと――少女はうっすら頬を染めて、微笑【わら】っていた。ふわり、と洋菓子の残滓が匂いたつ。
 「その――この前は、悪かった」
 「…うん!」







 恋は、チョコレートによく似ている。
 とても甘くて美味しいけれど、欲張りすぎると胸焼けがする。おまけに、熱に弱くてべたべたと汚れやすい。
 てんでに扱いづらくて、放っておくと後が大変で。だから今すぐ、仲直りの魔法をかけよう。 
 テンパリングのような――とっておきのキスを、二人で。






 「でもな――」
 「何よ」
 「……やっぱ甘すぎる」
 「ああもう――今度はいっそのこと、ビターチョコでも買ってこよっか?」 
 「何だ、それ」
 「これの甘くないやつ」
 「そりゃいい」