――これは、あたしだけの秘密。









声にならない叫びをいつまでも聞いている
I've heard his voiceless cry forever...



















 そういう時の犬夜叉はたいてい、昼過ぎぐらいから様子がおかしい。視線がそわそわしていて、なんとなく苛立って見える。そしていつもなら、日没が近くなっても中々足をとめようとしないくせに、夕暮れ前にはどこかに腰を落ち着けてしまう。それから獣よけと、あたしが暖をとれるように焚き火を熾してくれたあと、何もいわずに姿を消すのだ。
 あたしは独り取り残されて夜を迎える。真っ暗な闇のなか、数え切れないくらいたくさんの星をぼんやり眺めながら、静かに眠りに就くのだ。はじめのころは何が出るともわからないような森の中で無防備に寝ることを怖いとも思ったけれど、じきに慣れた。それに、犬夜叉も単に顔を見せないだけで、流石にあたしをほっぽり出して遠出するようなことがないのだけは確かだから――あたしがいなくなったら四魂の欠片は探せないし、彼にしたって少しはきまりが悪いだろう――そういう心配をするくらいなら、少しでも体を休めておく方がいい。風邪でもひこうものなら、あとあと面倒になるのは分かりきっている。看病してくれる誰かがいるわけじゃなし。
 ともかくそうして一晩ぐっすり眠ったあたしは、いつものように犬夜叉が怒鳴りあげる声で目を覚ます。いつまでとろとろ寝てやがる、と悪態を吐くその調子は普段と何一つ変わりなく、まるで昨日の夜のことなどなかったようだ。だからあたしも、そんなに叫ばなくったっていいじゃないの、と半ば喧嘩腰に云い返す。 お互い思ったことを遠慮なしに口に出すから、たいてい小競り合いになってしまうけど、それがあたしたちのありかただ。そして犬夜叉は、決して悪い奴じゃないけど短気でわがままで思いやりがなくて、怖いものなんて何一つない男の子だった。少なくともあたしにとっては。
 ――怖いものなんて、何一つない男の子。

















 縋りつくような、懇願するような手があることに気づいたのは、一体いつのことだっただろう。夢うつつ、というにはあまりにも曖昧な、深い眠りと紙一重の中で感じた、震える掌に。
 そっと、そうっと、細心の注意を払って、その手は近づいてくる。こわごわと頬に触れて、指の腹をゆっくりと滑らせる。口元を覆うように手のひらをかざして、その指先があたたかく湿るのを確かめる。
 体温でぬくもった首まわりの髪を絡まないように引き抜いて、空に散らす。力の抜けたあたしの手を取って、両腕で抱え込む。
 時折繰り返される一連の動作は、どうかすると頼りないくらいに穏やかだった。たとえば病気で寝込んでいるとき、具合を確かめているのに、とても似ていた。熱に浮かされた体が、頭が、ここちよいと感じるような、そんな印象さえあたえる触れ方…だけどそんなのおかしい。あたしは今、一人で眠っているはずなのだ。誰もいないから、風邪なんかひかないように。
 ――これは、誰の手。
 そう考えて初めて、あたしは致命的な勘違いに気づいた。
 触れてくる手は優しいんじゃない、胸の奥に巣食った感情を押し殺しているんだと。それをあたしに悟られないために、ぎりぎりの選択をしているだけ…ねえ、あなたはひょっとして。
 これは秘密だ。あの手の持ち主があの男の子であることも、怖いものなしの彼に云えずにいることがあることも。
 ――そうしてまた、あの夜が来る。

















 ――ああでも、云えずにいるっていうのはちょっと違うわね。
 たしかに、あんたは云えない。自分の意志で云わないんだって決めて、そうしてるんじゃ、ない。云いたくて云いたくて、言葉を知っていて、それを耳に入れる相手がいて、条件はきちんと整っているっていうのに。
 ――あたしがいるのに。
 あたしごときに知られるのは厭だと、あんたは云うかもしれない。でも、それなら余計に構わないでしょう。あんたの論法でいけば、あたしなんかに知られたからって、それが何だっていうのよ。それこそ、こんな相手にまだるっこしい真似してるほうがよっぽど莫迦みたいじゃない。
 ねえ、だって犬夜叉。云わなければ、いつまでだって変わらないんだからね。どうしようもなく切なくて、それを抑えきれずに仕方なくこんな風に吐き出して。あんた本当にそれでいいの。いつまでも誤魔化しは効かないの、判ってるでしょう。こんな綱渡り、そう続くものじゃないことくらい。
 だからお願い、話してちょうだい。あたしに云ってしまってよ。
 もしも、云ったら。そしたらどうなるかって、少しだけど道が明るくなるのよ。だって、変わらないことから生まれる重さは、多分それだけで半分になるんだもの。そのままか、そうじゃないかの違い。ひとつはふたつになる。
 変わらないかもしれない、と、変わるかもしれない。前の方は今までどおりだからうっちゃっておくとしても、後の方のこと考えてみなさいよ。これまで自分の姿さえ見ることのできなかったようなまっくらな闇、それが薄れて、自分の手が見える、足が見える。ひょっとしたら少し先の方まで見通せるかもしれないのよ。そしたら行きたい場所に近づけるかもしれない。それだけでもずいぶん違うって、わかるでしょ。
 考えてみて。光の差す世界は、今にくらべたらあったかいはずでしょう。それはひょっとしたら、薄い上かけにも足りないくらいのものかもしれないけど、前よりもほんの少しは生きやすい場所なんじゃないかしら。温もりって名前のついたもの。
 だいたい、あんただって判ってるはずよ。どんなに自分一人で――自由気ままにか、じゃなきゃ孤独に――生きようとしたって、結局それは無理なんだってこと。冷たくなったら人は死ぬ。死ねば暗くなる。だから無意識にあったかいもの、あかるいものを探してしまうように、あたしたちはできてるのよ。どんなにしたって最後には自然と寄り添うようにね。
 だから今のまま居ても、何とかなるなんて思わないで。闇の中にいることに、慣れてしまっちゃだめよ。闇はすごく優しいけど、それと同時に意地悪だから。しいんと静まり返った虚ろな黒は、あんたをゆりかごの中に赤ちゃんみたいにそうっとあやすけど、かわりに容赦なく圧力をかけてくるわ。
 ほら、今日みたいに眠れない夜には、息が苦しくなるでしょう。何だか判らないけどつらくて、どんどん体を縮こめて、脈打つ心音に必死になって耳をすませて、自分が生きていることを確かめたくなるんじゃないの。死んでなんかいないって実感が欲しくなるはずよ。
 闇の中に一人で立ち竦んでいることは、生きながら死んでいることによく似てるわ。どす黒いものが心と体を蝕む感触。でも誰だって、そんなのごめんだと思うものよ。だってまるで拷問だもの。
 それは犬夜叉、あんただっておんなじでしょう。日が落ちる前にどっかへいなくなって、そのまま朝まで帰ってこないはずのあんたがここにいるのはそのためだもの。
 あんたは生きていたいんだわ。生きていたいのよ、何よりもただ。だから生きているあたしに触れて、そのあたしが生きているって感じられる自分も生きているって確かめたいんでしょう。
 でも犬夜叉、あんたのやり方は間違ってる。ただやみくもに足掻いたって、絶対に朝はこないの。夜はもっと深くなる。あんたの怪我も、永遠に治らないまんま。いいかげんに気づかないと、たまった毒素ですぐにでも傷口が膿んで腐っちゃうんだから。
 まったく、あんたいつまで男の子してるつもりなの。怖いものなんて何一つ無いって顔してるのよ。どんなに意地を張ったって、認めなくたって、そんなのてんで無意味なのに。
 ――あんたは静かにくちびるを震わせて、けれどそれはことばにならない。口を開けたら、そういうことは全部なかったことになってしまうのね。あたしのこめかみに、ささやくような息がかかるだけ。
 あんたの想いが、強すぎるからいけないのよ。あんたの心に収まりきらないぶん、空気のなかによく似たものが溶け出してしまってる。
 想いで煮詰まった風が呼吸のたびに体の中へと忍び込んでくる。必死に紡ごうとした言葉を押し戻して、またあんたを黙らせてしまう。まるで過呼吸みたいね。息を吸ったらいいのか吐いたらいいのか判らないから、どっちもやろうとしてわけがわからなくなっちゃう。そのくらいに濃い風。身動きもできない。

















 ――あたしは、あんたが何を云いたいのか知ってるわ。何一つ怖くないはずのあんたが怖いと思うものを。
 だから、どうしたのって尋ねるのも、かわいそうねって慰めるのも、すごく簡単。だけどあたしは、だからこそ絶対にそんなことはしてやらない。絶対にあんたのところまで堕ちてなんてあげないわよ。
 あんたがあんたでしかないように、あたしだって他の誰でもないあたしなの。あんたがそんなやり方でしか生きているってことを確かめられないのと同じように、あたしにはあたしのやり方がある。
 きっとうんと辛いわよね、苦しいわよね。でも、黙ってちゃそんなことわからないわ。ううん、本当は判ってるけど、そこであんたは甘えたらいけないのよ。
 あんたがここにいるのは、生きているのを感じるため、そうよね。じゃあ、生きていることって何よ。嬉しかったり、哀しかったり、楽しかったり、辛かったりすることでしょ。笑って怒って泣いて、そして、考えることじゃないの。自分がどう思うのか、どうしたいのか、自分の口で伝えること。
 だから云って。生きようとするなら、こうしているのは気休めにしかならないわ。あんたはどう思うの、どうしたいの。なんにもないなんて云わせない、云いたいことがあるのは判ってるのよ。
 あんたがこうしている限り、あたしは決して自分から手を差し伸べたりしない。その代わり、あんたの声が一度でも聞こえたなら、かならずあんたをひっぱりあげてみせるわ。だから、だから――

















 ねえ、犬夜叉。あんたどうして「寂しい」って、そのたった一言がいえないんだろうね。