美しいものに、人は想いを寄せる。
想いは募り募って魂を生み出す。
愛しさと、憎しみの入り混じった、歪んだ鬼を作り出す。
視界は桜色で埋め尽くされていた。
無数の花弁が乱舞する花霞の中、一組の男女が肩を並べてゆるりと足を運ぶ。
「凄い桜ー、全部満開ね」
見目麗しいセーラー服姿の少女が目を輝かせて溜息さえついているのに、対する少年はといえば、視界に入る景色はまだしも、辺りに充満したきつ過ぎる花の香に目眩がしそうなわけで、当然その面は不機嫌というよりも不快そうに歪められている。
満開の桜を見ると思い出す…過去の自分、愛し合ったはずの巫女。
触れるでもなく、離れるわけでもなかった桔梗とのもどかしい関係は、死して猶、否むしろ今になって激しいばかりに燃え上がった。
それは文字通り、地獄の業火でその身を焦がし尽くすほどに。
互いに憎しみ合い、このような永の別離を迎える事が運命だったというのなら、矛盾だらけの自分たちは何故未だこの世を彷徨い続けているのだろう。
「―――夜叉…ねぇ、犬夜叉」
「あ、あぁ・・・何だ?」
完全に明後日の方へ意識を飛ばしていた犬夜叉は、急に目の前に認識したかごめの視線に迫られ僅かにうろたえた。
「んもう、何ぼーっとしてんのよ。桜に見とれてあたしの顔も見えなかったの?」
桜にヤキモチを妬くなんて、自分でもバカげていると思う。けれども本当は、犬夜叉の心を今一瞬占めていたのは、桜などではなく、己の恋敵であることなど容易に想像がついていた。
「…悪かったな」
追い討ちのような少年の素っ気無い一言に、ますますかごめの表情は沈んでゆく。
「かごめ?」
顔を覗き込まれる前に踵を返したかごめは、犬夜叉の視線から逃れるように距離を取る。
避けられたように感じた犬夜叉は、些かのもどかしさを覚えつつも彼女を追う事はしなかった。
逆に己の心を思い返して、二人きりで居る時に彼の巫女のことを考えてしまった自分を恥じる。
またかごめに悲しい顔をさせてしまった。
言わなければ届かないとわかっていながら、犬夜叉は泣かないでくれと願うのみ。恨むなら、いくらでも俺を恨めばいい。怒りも憎しみも、有り余る感情を全て受け止める覚悟はできているから。
ふとした瞬間に思う。己の命に等しい、ただ一人の少女の存在を。
かごめの笑顔が無ければ不安で、まともな思考など働かなくて、どうしたらいいかわからなくなる。
もう、ずっと前から思い煩っている気持ちに、終わりなど見えないのだ。
「…すまねぇ、かごめ」
言葉は春風に掬い取られ、空へと消えていった。
「え、何か言った?」
「いや…」
少女の笑顔を取り戻す為に一番効果的な方法を、犬夜叉は知識ではなく本能で実行した。
素直に引き寄せられた細い身体は、鮮やかな水干の袖にすっぽりと収まる。
唐突な行為に、かごめは何の反応もできずにいた。溜飲が下がっていく。犬夜叉の腕の中にいると自覚しただけで、顔が火照って胸が粟立つ。それなのに安心して、どんどん柔らかな気持ちが蘇ってくる。
少しの欠点も、恋敵の事も、どうでもよくなってしまえるほどに自分は犬夜叉を愛している。
この瞬間の幸せをこのまま切り取って閉じ込めて、永久に離れることが無ければどんなにいいだろう。
―――クスクス…
フフフ――仲が良いのね…クスクス…。
「誰だ!」
普段ならば聞き取れぬほどに小さな声。揶揄【からか】うようなさざめきには悪意の色が見え隠れする。
姿は見えない。
知らず、犬夜叉は更にかごめを強く抱き寄せていた。
薄紅の花弁が踊る。
二人の髪へ肩へ、舞い降りる。
「や…犬夜叉!」
かごめの焦ったような声が耳朶へ届き、状況を察した犬夜叉は戦慄した。
決して離れまいとしがみ付いているにもかかわらず、少女の身体が離れていく。
否が応にも無理矢理引き離されると感じて思わず犬夜叉も手を伸ばしたが、込めた力とは裏腹に、あっさりとかごめの腕は抜けてしまった。
「かごめっ!」
泣きそうに歪んだ少女の顔は、彼の呼びかけに答える前に無数の花弁に覆われて消えた。
それはまるで、幻のような悪夢。あまりにも現実感の無い現実だった。
いつか見た…否、常に恐れていた出来事が今、目の前で起こったのだ。
どれほど願っても、想いは叶わないのではないかと、いつか自分一人を残して消えてしまうのではないかと…それを。
「く…そっ!どこのどいつだ、出て来いッ!!」
激昂する犬夜叉を嘲笑うかのように、桜はくるくると舞い、はらはらと降り注ぐ。
「かごめを返しやがれッ!」
―――クスクス…フフフ、ヒヒヒッ
おなごは何も 見えぬぞよ
愛しい者こそ 見えぬぞよ
その身に抱けば つゆと消えぬる
我は桜鬼 霞の司
幻よりも 奇なるもの
くけけけけっ
はやし立てるような声は遠ざかり、犬夜叉はその声を追って駆け出した。
しかし、走れども走れども桜の林が切れることは無く、やがてその強過ぎる香気に鼻が効かなくなってくる。
渋面で舌打ちをした犬夜叉は、もう一度愛しい少女の名を呼んだ。
「かごめ、どこだッ!どこにいる!?」
するとまた微かな笑い声。
(桜が笑っているのか?)
犬夜叉は幻覚でも見ているような気分になってしまう。
何とかこの状況を脱さなければ、この桜の中から二度と抜け出せなくなってしまうかもしれない。
腰に収まった鉄砕牙を、鞘ごと僅かに持ち上げる。
空間が歪められているのなら、鉄砕牙で切る事も可能なはずだ。
柄を握り込み、一息に抜刀した瞬間に、刀身は既に赤く染まっていた。
「くらえっ、風の傷!」
妖気の風が空を裂き、隔絶されていた空間があるべき姿へと戻る。
ザァと視界が開けた。
刹那、目に飛び込んできたのは赤だった。
そこにあったのは、樹齢数百年を越える桜の大木。
だが、その花は全て紅に染まっている。それも朱を帯びるなどと言う生易しいものではなく、毒々しい血の色そのものであった。
さざめいているのは周りの桜達かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
この老木一本が空間を操り、幻を見せていたのだろう。
何本もの枝がかごめの身体に絡められ、太い幹へと縛り付けている。
その身は半ばまで、幹にめり込んでいた。
「かごめっ!」
―――美しき娘 我となり
遺されし者 我を愛し 我を恨むべし
花の赤さは 愛しき者のため
命儚し つはもの共のもの
朗々と歌うような抑揚。
その歌の意味を理解して、犬夜叉は歯を食いしばった。
この桜の妖木は、恋するものを食らうのだ。
女を己の中へ取り込み、それを取り返そうと向かってくる男の想いさえ食らい、殺して土へ転がし、養分とする。
「かごめをてめぇなんぞと一緒にされてたまるか!」
怒鳴った犬夜叉は鉄砕牙を構え、襲いくる根や枝を薙ぎ払い、切り飛ばしていく。
だがその間にかごめの身体は幹の中へ沈み、もはやセーラー服の一部が僅かに覗くのみとなる。
「かごめーっ!!」
常に無いほどの剣幕で再び呼ばれたその名。
(―――犬夜叉…?)
微かに意識が浮上した。だが、直ぐに途方も無い眠気が緞帳【どんちょう】を下ろす。
(そんなワケない…例え生きていようと死んでいようと、犬夜叉は桔梗が好きなのよ。本当に愛されてるのは、あたしじゃない…)
覚めぬ悪夢へと、墜ちてゆく。
寄り添う朱がある。
『桔梗』
『犬夜叉、私と共に来るか?』
『ああ、もう二度と離れねぇところへ…』
―――待って、犬夜叉!
『誰だ、お前?』
―――何言ってるの、あたしはかごめよ。
『知らねぇな』
―――嘘。
『俺はかごめなんて知らねぇ』
―――嘘よ、だって、一緒に旅してきたじゃない。四魂の欠片を探して、ずっと傍にいるって約束も……
『そんな事、俺がするはずがねぇ。俺は昔も今も、桔梗と一緒にいる』
―――駄目っ、行かないで。あたしを置いて行かないでよ!
『煩ぇ女だな…ぶっ殺してやろうか。なァ、桔梗』
『そうだな、お前の傍にいる女は、私だけで良い』
―――そんな…。
―――恨めしかろう 憎かろう
愚かしく脆き 人の想い
妖艶なるは 恨みと嫉妬に塗れた魂
美しきものは 激しき情念の焔
食らおうぞ 食らおうぞ
『散魂…』
―――犬夜叉…あたしがいるから、あんたは苦しんでいたのよね…。
『かごめよ、お前にもう用は無い』
―――もしかしたら、桔梗と一緒に死ねた方が幸せだったのかもしれないけど。
『鉄爪!』
―――ごめんね、犬夜叉。でもあんたがどんなに変わっていったって、あたしはもう、犬夜叉を嫌いになんてなれないから…。
―――この娘、魂を掴めぬ…。
「この化け桜がッ!」
父の形見である鉄砕牙が、唸った。
半妖の身を貫こうとする枝々を掻い潜り、万花へ通ずる幹の分かれ目を横に両断した。
満開であった桜は一瞬にして枯れ、乾いて風に流されて行く。
―――おのれ おのれ
このままでは済まさぬぞ
おなごは見えぬ 見えぬぞよ
我は桜鬼 霞の司
幻よりも 奇なるもの
「かごめ、大丈夫か?」
残った幹を縦に割り、中からかごめを助け出したが、かごめの反応は無い。
「おい、かごめっ」
薄っすらと目を開けてはいるのだが、犬夜叉の顔がよく見えていないのか。
「…犬、夜叉?」
漸く名を呼んでくれた事で、ほっと息を吐き出そうとした犬夜叉だったが。
「どこにいるの?」
問われた内容に愕然とした。
「どこって、ここにいるだろ。目の前に」
「ウソ、いないじゃない。何言って…あれ?でも犬夜叉の腕、あたしを支えてくれてる」
まさかと思うが。
(―――俺の姿だけ見えてないのか?)
かごめも悟ったようだった。
「居るの?犬夜叉」
心許ない声で尋ねてくる。実際、どれほど不安な思いを抱いていることだろう。
安心させるように、犬夜叉はかごめをしっかりと抱きしめる。
「ああ、だから心配すんな」
直に温もりに触れられ、相手の顔形は見えないものの、伝わる感触から犬夜叉の想いを感じとって、かごめは頬を緩めた。
「うん」
「しかし、犬夜叉の姿だけ見えぬとは、妙な呪いをかけられたものですな」
「あたし達のことはちゃんと見えてるんだろ?」
「うん、それは全然問題無いの。ただ犬夜叉が透明人間になったみたいな感じで、今も湯呑だけが浮いてるように見える」
さしあたって、それほど重大な問題でもないように思えるが、戦闘になると少々厄介だ。
弓矢を武器とするかごめが、やたら飛び回る犬夜叉を誤って打ち落としてしまう可能性があるのである。
「仕方ありません、我々で、何とか呪いを解く方法を探してみます。その間、かごめ様はご実家へ戻られた方が良いでしょう」
「ごめんね、皆」
「かごめが謝る事は無いぞ。傍についていながらむざむざと呪いをかけられた犬夜叉が悪いのじゃ」
大人ぶった七宝の発言が的を射ているだけに言い返せない犬夜叉は、その脳天に拳骨を落とすことで仕返しをする。
「行くぞ、かごめ。帰るんだろ」
シュル、と衣擦れの音がして、かごめは犬夜叉が立ち上がったのだとわかった。
次いで自分も立ち上がったのを見て、仲間たちはかごめの目が犬夜叉の姿を映していないという違和感など殆ど感じなかったに違いない。
もう、随分と長く付き合っているのだから。
犬夜叉のものなら、足音も、ほんの微かな衣擦れの音だって聞き分けられる。
でも、やはり姿は見えない。井戸への道を歩きながら、かごめは不安になる。本当にそこにいるのか、もしかして、自分は何も無いところを一人出歩いているのではないかと。
思い余って名を呼んだ。
「犬夜叉っ」
「何だ?」
答えた犬夜叉の声。直ぐに足音が近付いてきて肩に触れられる。
優しい眼差しが向けられているのがわかる。
ただそれだけの事で安堵できた。
「手を、繋いでて。見えないから、犬夜叉がどこにいるかわからないの」
「わかった」
表情もわからない所為なのか、何時にも増して無防備な目が自分を見上げてくる。また同時に、照れて真っ赤になった表情を見られることもないのが幸いであった。
「犬夜叉の顔、見たいな…」
「え…」
思った事を見透かされてしまったのかと、犬夜叉は身を強張らせる。
しかしそんな疑念も理性も全て、次の瞬間にはきれいさっぱり吹き飛ばされていた。
ぽろぽろと、大粒の涙が少女自身の頬を濡らす。
「逢いたいよ…犬夜叉」
皆の前でどれほど平静を装ってみても、感情に嘘はつけない。
鮮やかな緋色、その上に流れる銀の絹糸。
姿が見えなければその分、確かに犬夜叉の優しさが身に沁みるほど伝わってくるけれど、それだけでは満足できない自分がいる。
自分を見つめる琥珀色の眼を、感じる事はできても、こちらから返すことはできない。
確かめたい。その存在を。
手探りで犬夜叉の頬に触れ、目鼻、唇の位置を辿っていく。
不安を補いたくて、もっと触れて欲しいとその逞しい首にしがみついた。
応えるように背へ回された腕にきつく力を込められ、その形を確かめるようにかごめは犬夜叉に身を預ける。
―――どんな顔で今、あたしの事を見てるの?
ほんの少し、犬夜叉が身動ぎしただけでかごめはびくりと肩を震わせた。
犬夜叉が何をしようとしているのかわからないから、次の行動が予測できないのだ。
彼が自分に危害を加えるわけが無い事はわかっているけれど、否だからこそ期待と不安の混じった妙な感覚を抱いてしまう。
「…犬夜…っ!」
柔らかいものに、唇を塞がれた。
それが犬夜叉の唇だとわかるまでに数秒要したが、背に回された腕の強さとは裏腹の優しい口付けに、思考は徐々に蕩かされていった。
二度と離れまいとするかのように、互いを求める。
夕暮れ迫る骨喰いの井戸の前、咲き誇る桜の見守るその下で、二人は折り重なって愛を紡いだ。
―――あたしの目に映るのは、犬夜叉だけでいい。
他に何も見えなくなってもいい。
…犬夜叉さえ、いてくれたら。
かごめの心は犬夜叉だけを見ていた。今も、今までもずっと。
最後の瞬間、泣きそうな彼の顔が見えたような気がしたのは、幻だったのだろうか。
「あった、これです!」
神社の堂内に収めてあった古文書をひっくり返していた弥勒が声を上げた。
「おぉ見つけたか。何と書いてあるんじゃ?」
「えーと、何々?桜鬼の呪いを解く方法…二人の愛が本物であるならば、その日のうちに桜の下で情を交わすこと」
「な…っ」
途端に珊瑚が微かに頬を染める。
だが、弥勒はその表情に渋面を刻んでいた。
「これでは、手遅れです」
時刻は既に、深夜を過ぎている。
「じゃあ、かごめはもう…」
犬夜叉の姿を二度と目にすることは…。
「おいっ、何だよ、いねえのか?」
楓の小屋の方で、犬夜叉の声が聞こえた。
「犬夜叉、戻って来たのか?」
七宝が遠くを見るように首を伸ばす。
「もしかして皆まだ呪いを解く方法調べてくれてるんじゃ…」
「ったく、しょーがねーな。呼んでくっからここで待ってろよ」
「うん、わかった」
再会を果たした二人への、仲間たちの祝辞はもうすぐ聞こえてくるだろう。