その部屋には、甘やかな日暮れの匂いが立ち込めていた。どこか物悲しく、それでいて途方もなく優しい、まじりけのない
朱色のひかり。光にこびりつく強い熱気は、まぎれもなく夏のものだ。ひりつくように、
咽喉が痛む。
硝子窓は大きく開け放たれており、その傍に佇む少年は静かに外を眺めていた。かすかに
埃っぽく、けれどさらさらと肌に柔らかい夕凪が、真珠のような色をした長い髪を風になぶらせる。
節高な指を力なく垂らしたまま、彼はひどく切なげに顔を歪めた。
胸のどこかが、ちりり、と小さく焼き切れる。口の中が、かさかさと乾く。
――まだ、帰ってこねえのか。
苦しくないと云えば、嘘になるだろう。時折、掴まれたように心が
竦みあがる。それでもこの感覚は、どうしてか慕わしくてならないのだった。眩暈のように、頭の中身がかき回される。
くらくらと酔うにまかせたまま、少年はゆっくりと溜め息をついた。そして聞こえる、とんとんとん、と軽やかな足音。それは彼の耳朶に、恐ろしいほどよく馴染む。
近づいてくる規則正しいその響きは、不思議なほど少年を安堵させた。ゆるゆると、心に湧きあがるあたたかいもの。これは一体何だろう。ああ、早く――。
きい…、とわずかに戸が軋み、華奢な少女の影が床に伸びる。僅かに湿り気を帯びはじめた涼風に、汗をうかせた白い額が露わになった。とく、と少年の想いがひとつ
爆ぜる。
「っ…。」
ふうわりと頬を染め、彼女は彼へと瞳を据える。そのまま駆け出すように、少女はまっすぐに、少年を目指し――。
「ちょっと、どういう事っ!?」
少女の瑞々しい唇からこぼれる、批難の言葉。今にも掴みかからんばかりに詰め寄られたまま、少年はきょとん、と橙がかった黄金の瞳を見開いた。
――太陽の
残滓漂う、茜色の空。空白の瞬間を埋めるように、蝉時雨が部屋を満たす。
暮 涼
容赦なく照りつける夕陽のせいだろうか、辺りはうんざりするほどむし暑い。首筋にまつわりつく艶やかな黒髪を払いのけ、仁王立ちになったかごめは犬夜叉を睨みつける。だがしかし、厳しい視線に晒された当人にはとんと思い当たる点がないらしく、訝しげな表情で聞き返した。
「何の話だ?」
「とぼけないで」
今さっきじいちゃんから聞いたんだから、と怒ったようなかごめの口調。わけが判らないとばかりに、犬夜叉が首をひねる。
「かごめ、ちょっといい?」
扉を叩く音がして、麦茶を持ってきたんだけど、とかごめの母が顔を覗かせた。透明な器にたっぷり注がれた小麦色の液体がちゃぷりと揺れ、少女がそちらに振り返る。
「どうしたの、二人とも」
「だってママ!」
二人の間に漂う剣呑な雰囲気を読み取っての母の問いに、娘はいかにも不満げに鼻を鳴らした。
「犬夜叉ったら、鳥居の上にいるところを人に見られたっていうのよ!?あんなとこに登れる人なんかいないっていうのに…。ああ、変な噂が立ったりしないといいんだけど」
心なしか膨れっ面で言いながら、かごめが犬夜叉の顔を一瞥する。
「な、おま」
「そういう事なら、大丈夫よ」
穏やかな微笑を湛えたかごめの母にやんわりと制され、犬夜叉は口をつぐんだ。こんな時はやはり、この婦人には敵わないと思う。これといって理由は見つからないのだが、どうにも逆らえない。
「
湊さんは、そんな子じゃないもの」
「その人のこと、知ってるの?」
「ええ。だから、心配しなくていいわ。」
娘の問いに、母はおっとりと――しかしどこか自信ありげに――答える。それを受ける形で、かごめは犬夜叉に向き直った。
「ママがそういうなら、別にいいんだけど…それにしたって、どうしてあんなところに居たの?見晴らしは良さそうだけど、かなり暑いんじゃない?あそこ」
「うっせえな、何でもいいだろ」
話の流れの中で浮かんだ、小さな疑問。別段大したことではないはずなのだが、少年はそれを身も蓋もなく切って捨て、その言い草に少女が些かむっとした。返す声にも、自然と険がこもる。
「…ちょっと、そんな言い方ってないんじゃないの?」
あわや先ほどの二の舞か。またもや怪しくなりかけた雲行きだが、困ったように娘を
宥めるかごめの母の一言に周囲に、
蟠る険悪さはいともたやすく
瓦解した。
「だめよ、かごめもそんなこと言わないの。犬夜叉くん、せっかくかごめを待っててくれるんだから」
「えっ!」
「なっ、違…」
言い放たれた事実に、少女の驚きと少年の否定が被さる。それに何ら
頓着することなく、婦人はゆったりと言葉を継いだ。
「あそこからなら、かごめが帰ってくれば遠くからでも判るものねえ」
うふふ、と楽しそうに笑うかごめの母とは裏腹に、二人はお互い言葉もない。犬夜叉はただただ呆然とし、かごめは事態を把握し切れないままにうろたえている。
「あら、言っちゃいけなかったかしら…」
明らかに動揺している少年少女に気付くと、くちもとを小さく抑えてごめんなさいね、と言いながらかごめの母は身を
翻した。
「お夕飯、もうすぐだからね」
背中ごしに振り返って告げ、そのまま部屋を後にする。
何とも言いがたい沈黙が落ちる。気が抜けたのか、かごめがぺたりとその場に座り込んだ。つられるように犬夜叉もまた腰を下ろし――膝を付き合わせた格好になる。顔を赤くしてきまり悪げに
俯く二人。
先に口火をきったのはかごめだった。おそるおそる、といった調子に尋ねられ、犬夜叉はぷいと横を向く。
「ね、さっきの、ほんと…?」
「――悪いかよ」
犬夜叉が言うが早いか、かごめは真剣な面持ちでずいと距離を詰める。息が掛かりそうなほどに近づくと、少女はぎゅ、と少年の緋色の袖を握り締め、ひといきに言った。
「ごめんなさい!」
「…え?」
「本当にごめんね、ごめんなさい…」
透き通るような細い声で、かごめはしきりとそう繰り返す。犬夜叉はすっかり面食らって、しどろもどろに言葉を返した。
「なんでお前が…謝るんだよ」
「だってあたし、勢いまかせで酷いこといっちゃったし、それに」
確かに、帰ってくるなり喰ってかかられたこと自体は気に食わないのだが、自分の行動が軽はずみであったこともまた事実。それを思えば、むしろ謝らなければならないのはこちらなのではないかもしれないのだが――。
「別に、気にしてねえよ」
そういう一切は飲み込んだまま、犬夜叉はただこれだけを口にした。しかし、本気で済まないと思っているのだろう、可憐に整った顔は自責の念で染まっている。おまけに表情豊かな大きな瞳はいつにも増して濡れ濡れと潤み、放っておけば今にも泣き出しそうだ。
がしがしと乱暴な手つきで、犬夜叉は自分の頭をかきむしる。こういう時は、どうしたらいいのだったか。
「あたしね、まさかあんたが待っててくれたなんて考えなくって、それで、」
「だから、いいって」
「でも」
「…っだー、やかましい!」
声を荒げるのと、かごめを引き寄せるのと。
――果たしてどちらが先だったかを考えるのももどかしく、少年は少女の体を加減なしに抱きしめた。
ぴったりと密着した肌が、ひどく熱い。触れ合った部分から何かが流れ込み、めちゃくちゃな速さで心の臓が鼓動を刻む。
深く息をしてから、犬夜叉は囁いた。
「気にしてねえよ、俺は」
「……ん」
だからお前も気に止むな、と言外の意味はきちんと伝わったらしい。ややあってからぽつりと落とされた呟きはすっきりと快い、いつも通りのかごめのものだった。
――宵はまだその片鱗をそこらに散らせたきりで、ぽつぽつと夕暮れの中に紛れて
燻っている。篭もった熱は、しばらくはこのまま、懐かしい気配をふりまきながらたゆたい続けることだろう。
机に置かれた茶の器の表面からは、次々に水滴が浮き上がっていた。生まれた雫は
凹凸のない硝子の面を辿って滑り落ち、小さな泉を作り出す。
窓辺につるされた風鈴が過ぎ行く時を惜しむように、ちりん、と清い音を奏でた。
「――暑いねえ」
「おー…」
「夕ご飯何かなあ」
「んなこと、俺が知るかよ…」