直ぐ目の前を流れては落ちる幾筋もの銀糸。もう半時は過ぎたであろうか。降り止まぬ雨に、少年と少女は随分と長い足止めを食っていた。
二人が雨露をしのぐそこは、あばら家の濡れ縁。あばら家、と言っても屋根は有 る。まだ戦国に慣れ切っておらぬ少女は当初、そこで雨の過ぎるのを待とうと考えた。
しかし、屋根には所々穴が空き、戸は閉め切られ、光も風も入らずに雨水 にのみ晒されていた為だろう、床は腐り切って居る。その割に濡れ縁は屋根も床 もしっかりしており、そこに留まるより他ならなかった。
妙なのは、そのさして広くも無い濡れ縁に、どういう訳か少年と少女が極力離れて座って居る事であろう。何の変哲も無い風景――と言うには些か其の空気は冷た過ぎた。
何、半刻もすれば失せる通り雨だと高を括って居たが、銀糸は増す一方だ。暫くは荷の整理や何やで暇を潰して居た少女も流石に手持ち無沙汰の感が有る。
折角の己一人の銀糸の小部屋、考え事には最適なこの場を無為にするは余りにもにも勿体無い、と少女は脚を組み直す。
偶然とは云え、戦国に来て十日程。そして、嘗【かつ】て少年が封印され、老巫女の守る村を出て二日経つ。この二日の間に玉の気配は一切無く、そういった意味で肝を冷やす思いはして居らぬが、連れの少年は気遣い一つせず、己を置き去りにしようかと言う勢いで動き回るのだ。
それに付いて行くには、今まで鍛錬の一つも経験の無い己には些か荷が重過ぎる。それより前は、少女の心は命を危険に晒され、生国に帰れるか否かという不安で目まぐるしく動いていたのだ、ゆったり物を考えるなど久方振りだった。
といってもその実、少女の関心は全て傍らの少年へと向けられていた。
封印の睡【ねむり】に付いた侭の少年の獣耳に純粋な驚きを覚え、思わず其れに触れた己とは違い、封印を解かれて暴れ回る少年を見る村人の眼は明らかに蔑みと侮蔑の彩【いろ】を湛えて居た。それは少年の異母兄や彼に仕える、己とそう力の差の無い小者妖怪、恐らくは少年と初見の鬼女【おにめ】でさえもそうだった。
彼らは少年をこう評したのだ、「おぞましい存在【もの】。卑しい人間【いきもの】を母に持つ存在【もの】。」と。それが実の兄の言葉であろうか、少年を知らぬ者の言葉であろうか。
少年に遠く及ばぬ矮小な力しか持たぬ雑魚妖怪にさえ蔑まれる、強大な力を持つ唯一つの特徴、半妖。 想像の域は越えられぬが、此の世に産み落とされたその瞬間から、少年は蔑みと侮蔑の内に置かれて居たのだろう。少年の決して何者も信じまいという頑なさも納得が行く。
……ならば、初対面の己を問答無用で手にかけようとした事も、老巫女にその姉の死を告げられて、せいせいしたと嘲笑【わら】った事も、果ては妖鴉に捕えらえられた童を引き裂こうとした事も、その延長であろうか?……否。
それは少年の張って居る虚勢に過ぎぬ。現に少年は、いとも簡単に殺すと言い放つが実の処、少女にも童にも掠【かす】り傷一つ負わせておらず、巫女の死を嘲笑ったその表情【かお】には無理が見て取れ
た。
何よりも鬼女の元へ向う時、初めて少年の見せた優しさ――そのお陰で己は命を永らえられたのだから――それと、羽織った緋の衣に染み付いた陽だまりの温かい匂いがそれを己に伝えてやまなかった。あの匂いを持つ少年が人を傷つける、ましてや殺すことなどどうして有り得るか。
付き合いの浅い己に少年の過去を知る術は無い。が、人間に、妖に。心も身体も痛め付けられた少年は、元々は真直ぐな――余りにも真直ぐな――彼自身を覆い隠す事でしか自身を保てなかったのだろう。
半妖という立場の少年の味方なぞ存在【い】る訳も無く、故に常に独りで生きて来たそれが少年の心を頑なな物へ変化させてしまって居る。そう感じられた。
そうなのよ、と少女は続ける。――ひねくれてて、乱暴で、短気で……だけど結構良い奴なのよね、と。だがそこには、同情や哀感は微塵も無い。只、少年に対する好奇の心だけがあった。
――色々大変かもしれないけど、こいつと旅するのは結構面白いかもしれない――そう思うと、この沈黙もさして気に成らなくなった少女は、つと顔を上げて、雨【あま】降りしきる山々へ目をやった。
少女が荷を整頓する間、何時【いつも】の仏頂面の侭瞑目して居た少年も、少女の動きが無くなったのを耳で捕らえ、その金色【こんじき】に景色を映す。
――何も、変わっておらぬ。唯一つ、己の傍らに佇むのが巫女では無く少女である以外は。
己の記憶は巫女に心の臓を貫かれて終わり、少女に封印を解かれた処から再び流れて居る。幾ら五十年経ったとて、深い睡の中に居た己には今一つ実感が涌かぬ。
辛うじて時の流れを読み取り得るのは、巫女の妹の小娘の姿が老巫女のそれへと移って居た程度であろうか。しかしそれも、童【わらは】と老【ろう】ではその面影を追い様も無い。
つまる処、少年の五十年は未だ過ぎておらぬのだ。
姿を変えてまで巫女の傍で生きる事を選んだ己。生まれてこの方何者も信じた事の無い己を変え、幸せに導こうとした巫女を心から愛し、信じたと言うに。
――結局あいつは、俺を油断させて殺すのが目的だったんだ――
末期の瞬【とき】は今も彩【あざや】かに蘇える。憎しみの篭った声で己の名を紡ぎ、違わず破魔の矢を己に打ち込んだ、愛しい愛しい――そして誰より憎い女の顔。憎【ぞう】の焔【ほむら】はどこまでも激しく燃え、冷め遣る事など知らぬ。
――誰がこんな小娘、信用するものか。
確かに少女には破魔の矢の霊力【ちから】も、四魂の気配を視る能力【ちから】も、首無き死骸相手で涙一つ見せずに弓矢を拝借して見せる心根の力も在る。少女を全く認めておらぬ訳では無いが、相手はあの巫女の転生せし姿。信を置ける筈も無い。何か魂胆があるに違いねえと心の中で吐き棄てるが、そこではたと動きが止まる。
――本当に、そうであろうか?
よくよく考えてみると、少女が戦国に居る利点は無い。破魔の矢で玉を四散させた責にしては、一度は躊躇わず戦国から還ろうとしたのだから、罪悪感で以って此処に留まって居るというには些か不十分過ぎる。 ならば何故、と思考を巡らすも皆目見当がつかぬ。変な奴だ、と少女の横顔に目を遣る。
――目が離せぬ。少女の美しいのは承知しており、見惚れたなどと下らぬ事では無い。
……少年が忘れて居た或る事実。
少女は、面【おもて】を上げて一心不乱に景色に見入って居る。巫女に良く似た面影。しかし、巫女とは全く異なる其の瞳。
巫女はいつも、憂いを含んだ瞳で、どこか遠い処に眼をやっていた。そこに在るのは只、此処以外の何処かに逃げて仕舞いたいという、諦めの光。しかし少女の其れは只真直ぐに遠くの"未来"を見詰めて居る。 未だ見ぬそれに胸躍らせる期待の光は巫女と明らかに違う。
――あたしはかごめ。桔梗じゃないの。
先日の少女の言葉が僅かずつ現実味を帯びてくる。己から見れば温室育ちの少女の思考は計り知れぬ。普通の人間ならば誰にでも見受けられる己への侮蔑と蔑みの眼は、少女には無い。巫女の姉妹も、事実そうなのだが、彼女等は妖【あやかし】なぞとうに見慣れて居る、その為だろう。
しかし、少女は違う。初めて目にする妖に驚きの色を露わにしては居たが、その存在を認識した今、己を見る眼は普通の人間に向けるそれだ。
何をせずとも恐れられ、ましてや少女の場合、殺されかけたというに、全く何を考えて居るのかほとほと見当もつかぬ。
ふ、と息を吐いて少女から視線を外す。銀【しろがね】の髪が揺れ、肩に抱く釖【かたな】に触れて小さく鍔鳴りがする。
手にしたばかりの父の遺刀は、少女から手渡された瞬間から驚く程己に馴染む。それを手に戦う少年に、少女は真摯な瞳で、しかしあっけらかんと言ってのけた。
――それあんたの刀なんでしょ?あたしは信じてるからね、あんたの力。――
『信じてるからね』か。本当に、妙な奴だ。
……妙な奴だが、少なくとも、憎む必要は無い。
そう結論付けて、少年は金色の瞳を伏す。
銀糸はさらに増え、衰える気配も見せぬ。
いつの間にか、少年も少女も軒端【のきはし】より僅かに離れた処に居た。二人を隔たる空間は、一回り小さく成っている。
……今宵は、雨夜【あまよ】に成るやも知れぬ。