……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす……。
桜の時節。柔らかく振り落ちる陽光を其の侭溶かし込んで、幾分か丸みを帯びた空気が駆け行く。追随する薄桃の花弁は空を舞い、其の度に微かに甘さを含んだ名香が薫った。
生きとし生ける者が焦がれ待つ季節の全ては美しく力強く、それでいて桜紙に包まれたかの如く何処までも漠然として居る。
その曖昧さに人は狂うのだろうか、そんな事を今を盛りと咲き誇る桜木の一つに背を預けて瞬間まどろんだ少年は、柄にも無く考えて仕舞った。優しげな凹凸を待つ濃い茶の表皮は其の内に秘めし力を、燃える様な色をした衣ごしに伝えてくるが、其れでさえ少年の表情から憂いを拭い去れはしなかった。
何処からか飛んで来た舞姫が、少年の掌に降りた。空いた手をそ、と被せた途端、思い出した様に風が髪を撫でる。何の気無しに視線を送った先は一面の鴉色。降り掛かる花弁が映え、何とも言えぬ心地がした。
もう慣れた筈だがと苦笑しながらも既に癖に成って仕舞ったのか、指先を見ては其処に鋼の無い事を、舌を動かしては牙の無い事を確かめる。流石に耳や瞳がどうとは思わぬが、水鏡でも覗けば、人耳と黒の眼が映るのは疑い様も無い。…そう、少年は人間に成ったのだった。
何が起こったのか其の事実だけを述べるとするならば、地獄の名を持つ半妖は滅び、巫女は逝
った…という処だろう。
巫女は死魂を繋ぎ止める為に己を偽って少年を憎む振りをしていたに過ぎず、少年と少女が幸せを掴む事のみを冀【こいねが】って居た。五十年前、裏切りと云う名の火種で燃え上がった激情に任せて少年を自らの手で射抜いておきながら、最期の時に巫女の視界を彩ったのは銀と緋だった。
結局は少年を信じ抜けなかった己だ、怨まれようと憎まれようと構わない、今度は自由な心で少年を愛したい、そう祈った結果が少女だ。
――だから、『お前は私』なのだよ――少女と同じ曇りの無い瞳で巫女は言って微笑んで…そして逝った。
少年が人間に成ると決めるのにそう時間はかからなかった。巫女の願いを無駄にせぬ為、己の幸せを手にする為、其れより何より少女の想いに応える為に、何を迷う事が有っただろう。
穏やかな生活の中、常に少女の笑顔が在るという其の事は、己の選択が正しかったと思わせるに充分な力を持って居た。けれども、其の至福の時は刹那の物でしか、無かったのである。
「あたし、高校に受かったの。」
老巫女の家へ戻るなり、少女が瞳や言葉の端々に笑みを残した侭、けれど力無く何処か残念そう
に告げた其の時、少年は自身の内で何物かが崩れて行く音を確かに聞いた気がする。
少女はこれからずっと此処に留まって、己と共に生きてくれるとばかり思って居た。揺るぐ事の無い居場所を手に入れ、少女の居場所に成れたのだと、そう信じて居た、けれど。
其れは自惚れだったのか、少女は今までの居場所を棄てようとはして居ない。休みの間は此方で過ごすとは言って居たが、どちらにしても己にとっては同じ事だ。
それでも少女が残念そうにして居た事だけは僅かな救いに成るには成ったが、其れ以上に少年の心を悩ませる。
此れ迄幾度、少女に触れて仕舞いたいと願ったろう。今まではそう考えたと同時に、巫女の姿が脳裏を霞め、すんでの処で踏みとどまって来たが、己と少女を遮る物など今は有りはしない。少女の
方も、己の傍に居られない事を残念に思って居るのは間違い無いのだ、受け入れぬ道理は無かった。
ほんの少し手を伸ばせば届く其の距離が縮まらぬ、否、少年が縮める事を避ける所以は情
けない程子供染みて居る。たった一度でも少女に触れれば己は間違い無く少女を手放せなく成る。此れでもし少女が生家へ帰ると言い出せば、井戸を破壊しかね無かった。
というよりも、井戸を壊して仕舞おうと本気で考えたのは一度や二度では無い。そうなれば少女の居場所は己の傍以外有り得ぬ。しかし、家族や友との別れに泣きじゃくる少女を腕の中に留め置いたとて、なにが幸せだろうか。
嘗て、何処かで生きて、笑ってくれれば其れで良いと一度は考え、少女を井戸に突き落す真似さえやらかす程に、少年は少女の笑顔に魅せられて居た。其れを失った少女を見る、そう考えるだけでも心が締め付けられる。ましてやその原因が己の我が侭によるのならば、それこそ気でも狂って仕舞おう。
何と愚かしい事かと自身を嘲ってみるも、狂おしいまでの恋着が生んだ願いは膨らむばかりだ。それなのに、少女を傷付けたくない其の想いも本当で、少年は何処まででも堂堂巡りを繰り返す。
何時の間にか、花弁を包んだ両の手が僅かに汗ばんで居た。蓋いをした時以上に静かに手を退けると、舞姫は直ぐ様緩い円を描きながら少年の傍を離れる。
「ざまあねえな・・・。」
間を置いて吹いた強い風が、少年自身でさえ聞き取れぬ小さな呟きを何処かへ薙ぎ払った。
日光に包【くる】まれて一層まろやかさを増した風は、舞姫の宴を楽しむ様に静かに佇む。さらやかに空舞う桜花は、宛ら季節外れの細雪だ。其れは太陽と空と、まだ色薄い藍碧の大地とが創り出した舞台を彩る。
精彩放つ一幕に黒目がちの瞳を綻ばせる少女は、少年の姿を求めて流浪【さすら】う様に歩を進めて居た。
大方、何処ぞの樹上でぼんやりして居るのだろうが、視界を遮られがちな此の状況で、淡紅に混じる緋を見つけ出すはそう容易な事では無い。…などと、常時なら少年の居場所位考えるまでも無く判って仕舞う処を、視界がどうのと言い訳めいた事をしてみては、己の間の鈍った事を誤魔化して居る。が、その由縁自体は拍子抜けする程単純だった。
決して避けては通れぬのに、知らん振りをして逃げて来た其のつけは大きく、どれ程足掻いてみても結局は其処に囚われて仕舞う。戦国と現代と、果たしてどちらが己の居場所なのだろうという二者択一に。
無論の事、愛する少年と離れるなぞ耐え切れはしまい。逆に戦国に留まれば確かにそうしょっちゅう家族や友と会う事は叶わぬが、何も今生の別れに成る訳でも無い。井戸を潜れば直ぐ其処に家族は居るし、今まで培って来た友との絆はそう簡単に消える程脆くは無いのだ。
そう思ってみても少女がどうしても決心し切れぬのは時代と云う名の呪縛に捕われて居るからだろうか。己が居たいと願うのは何処なのかを誰よりも知るのは己なのに、恋情故に中ぶらりんで不安定な状況にしがみ付き続けて、漸く愛しい人が己に、己だけに手を差し伸べてくれたのに。・・・それなのに。
平成の世での新たな居場所へ手を伸ばして仕舞った。どうしようどうしようと悩みながらも、手に入れたもう一つの居場所への希望さえ抱いて仕舞った己の心は、一体何処へ行ったのか理解らない。
其れでも、もう来る処まで来て仕舞って居るのだ、逃げては駄目と己に言い聞かせ、必死に自身と向き合うけれど、其処に広がるのは終わりの見えぬ、いや終わりなど無いかもしれぬ如何し様も無く深い袋小路だ。
答【いら】えが返る筈も無いと判って居るのに、少女は舞姫に呟く。
「ねえ、あたしの居場所はどこだと思う?」
其の侭、暫しの時が流れて、少女は己が些か感傷的に成り過ぎて居ると気付いた。優しく、けれど黙った侭宴を続ける舞姫達を見詰める目頭が熱い。喝を入れようと手で両頬をぱんぱんと打った処でようやっと、そもそも何故此処に居るのかという事に思い当たった少女は、今更の様に辺りを見渡した。
と、何故か釖の鍔鳴を耳にした気がして其方に振り向けば、随分と高い枝の上、絢爛の華の隙間にぽつん、と緋が一つ。
あんな高い所にいちゃ、勘が働いたってみつけられっこないじゃない、とほんの少し毒づきながら少女はゆっくりと体を其方に向けた。
元々、別にとり急ぐ程の事では無い、加えてそう遠くは無いのだからと良い心持で花見をする少女の心に一つ、疑念が涌いたのは先程の感傷を引き摺って居るからなのか。
少年があれ程高い処に居るのは見事が無い。花と花の合間に隠れる様にして居るのは、まるで探してくれるなと云わんばかりでは無いか。少年は、己の心に気付いて居るのか知れぬ。
悩んで居るからそっとしておこうと思ったのか、はたまた独占欲の強い少年にしてみれば、己が現代で過ごす時間を大幅に増やす積りだと言った事が気に食わなかったのかまでは己の預かり知らぬ処では有るが、それなら全ての辻褄が合う…。
其処まで考えると、嘆息が口を突いて出た。常時より高い所に居る、唯其れだけの少年の変化一つに動揺する己はやはり、感傷的に成り過ぎて居る。今度は胸の奥から深く息を吸い込んで、やや大股に歩き出すと、心なしか気分は軽く成った。
豆粒程だった緋色が少しずつ大きく成って来て居る。此処まで来れば気付かぬ事は無かろうと思ったが、少年にしては珍しくちらりとも振り向かなかった。そうこうするうち、表情すら読み取れる所まで近付くが、それでもやはり少年は気付かない。
其れをいぶかしんで少年の横顔を見詰めると、瞳には鈍(にび)が澱んで居る。掛ける筈の言葉は喉の奥へ引っ込んで、あたかも其の代わりの様にして少年の唇が何か言葉を形作った。
聞き取れはしなかったが、やけに自嘲めいた響きを帯びて居ると感じた一瞬後、戸惑う意思とは無関係に、言葉【ことのは】は空に散り行く。
「犬夜叉・・・。」
暗澹たる気分にどっぷりと浸かり込んで居た少年を、少女の声は現世【うつしょ】へと引き戻した。
反射的に樹下に走らせた視線は、少女の瞳に受け止められる。何事か考えあっての動作では無く、一瞬の事でも有ったからか、声を掛けた方も掛けられた方も些か戸惑って仕舞う。それでも、見下ろす視線と見上げる視線の間を薄桃が二片、三片と通り過ぎた処で漸く、少年は我に返ってふいと横を向く。
それを見てやっと、少女も平静を取り戻したらしく、一呼吸ついて何事も無かった風を装って呼び掛けた。
「楓ばあちゃんがね、お昼ごはんできたから呼んでこいって。」
「・・・腹が減ったら帰る。今はいい。」
間髪入れず、目線をやや高めに保った侭に、出会った頃と酷似した身も蓋も無い少年の声には、あの頃少年が漂わせて居た険はもはや無かったが、其れとはまた別の翳りが感じられる。
其の、余りにつっけんどんな言葉に文句の一つも返すのが少女の常だったが、先程の鈍にしろ翳りにしろ、とにかく少年の動作全てが其の気を萎えさせた。
「そう。じゃ、後でね犬夜叉。」
…少年は唇を動かさない。
それほど期待はして居ない、応えの無い事も予測済みだと嘯【うそぶ】いてみても、やはり正直な所は、何か云って――己を引き留めて欲しいのだ、少女は僅かながら悲しく思って、小さく息をついた。
後で、と言って仕舞ったのだから此処に立ち続けて居るのは不自然だと頭では判って居るのだが、何故か少年から目が離せない。
其の様子は、当の少女に自覚は無いが、人の目には何事か祈って居るようにしか映らぬだろう。春めいた眺めに溶け込んで、美麗の絵巻の姫御前を思わせる少女は暫らくして、僅かな動きを見せた。
ずっと見詰めて居たいと抗う瞳を宥めすかして、少年が寄り掛かる枝張りへ視線をはわす。枝を辿ってどっしりとした幹まで着いて初めて、少女は顔【かんばせ】を戻した。
勢いを着けて回れ右をし、歩き出すものの、体に当たる風は強い。文字通り後ろ髪を引かれながら、小女は元来た道を進み出した。
少年の耳元で風が唸る。其の中に少女の靴音が混じるのを確かめると、少年は小さく身じろいだ。
次第に小さく成る少女の後姿に見入っては、一つに成った眼差しに、慈愛に満ち、それでいて蠱惑的でもある少女の瞳に焦がれる己は、既に完全に狂って仕舞ったのだろう。余りにも愛しくて、傍に居る事さえ苦しい。
そしてまた、屈託の無い微笑みを浮かべて、全くの無防備で近付いて来る少女の前にあっては己のちっぽけな自制心など無いも同然だ。故に少女の背へ向けて、決して聞かれぬ様に愛を囁く事で気を紛らわそうと試みるが、其の程度でどうにかなる程甘くは無い。毎回の様に息が詰まり、何が何だか分からなく成って仕舞う。
風の唸りが増して来た。其れと時を同じくして耳鳴がし、風と交じり合う。頭が痺れて何一つ考えられぬのに、眼に映る景色は一層くっきりとし、混ざった二つの音よりだんだんと速く成って行く心臓の鼓動が大きく聞こえた。指さえ動かせず、金縛りに遭った如き感覚が少年を支配する。
次の瞬間に、風はぴたりと止んだかと思うと一層激しく地を蹴った。突然に、風の音も、耳鳴もそして心臓の鼓動も消え失せ、完全なまでに無音と成る。少年の時が止まった。
旋【つむじ】風の創り出した花嵐が、日光を浴びた少女の華奢な身体を隠し切る。
――かごめが、居ない。
麻痺した頭がやっとの事で搾り出した恐ろしく残酷な言葉に少年は戦慄を覚える。後はもう何も考えられず、体の硬直も何もかも無視した少年は、躊躇いもせずに地面へ跳んで、土を踏み締め走った。
…何より大切な少女の許【もと】へ。
少女が少年に背を向け歩き出して直ぐ、今度は風は横殴りに吹き付けて来る。流れる髪が邪魔に成らぬ様に手で押さえると、耳周りに風が通って、風鳴とはまた別の音が聞き取れた。
耳慣れた足音と常時より少々荒い息遣いに振り返ると、必死の様相で駆けて来る少年と目が合う。ほんの一瞬、其の黒の眼に豪奢【ごうしゃ】で、驚く程孤独な金の眼が重なった。
己を突き放す様であり、己に縋ろうとする様でもある、矛盾を含んだ金の瞳。瞬きをするともう其処には只黒の瞳があるばかりだ。
反射的に少年の名を呼ぼうとするより速く、少年は走って来た勢いを止めようともせずに少女の腕を掴んで力任せに引き寄せる。其の後先考えぬ動作で、さしもの少年も重心を取り損ね、足を取られたのか、少女の手を握った侭仰向けに倒れ込んだ。自然、少女は少年と向き合う形で其の胸に包まれる事と成る。
衝撃で息が止まり、一瞬思考が途切れた時、少女はあの瞳は見間違いなどでは無い、と強く思った。
倒れ込む時、頭を強【したた】か打ったらしく、少年の意識は朦朧としたが、其れは少しの事だった。
よくよく考えてみると、もし己が重心を崩す事が無ければ、少女を下敷きにして仕舞って居る処だったのだから、己のとった行動はとんでもないと言うに全くもって相応しい。己でさえ少々堪える程の衝撃を少女が受ける事を考えただけで背筋の凍る思いがした。
しかし、記憶の糸を手繰ってみても、あの刹那の事は如何にもはっきりしない。それでも、当り前と言えば当り前の事だが、少女が其処に居る事に心からの安堵を覚える。其の途端に、束の間忘れて居た想いが顔を出した。
慌ててきつく握り締めた少女の腕を離すと、少女は其れを待って居たのか、直ぐに体を起こして少年の横に座り込む。縛められて居た手首は赤く、少女の雪肌を一層際立たせて居た。少年は少年で、ある種の狂気とさえ呼べるだろう其れを抑えようと、少女から目を反らして半身を起こす。少女は黙って、只少年を見詰めて居た。
「悪い…。」
少女に聞こえるか聞こえないかの声で謝罪を述べるも、其処には何の感情も含まれてはいない。少
年の心は何故か違う処で叫んで居た。
精一杯の、少年の想い。
あの時、少女を本当に軽いと感じた。抱き締めれば逃す事など有り得ぬ程に、手を離せばそれこ
そ其の侭風に溶け消えそうな程に。先程の舞姫が脳裏を霞め、少年は訴える。
…俺には、手を離す事しか出来ない、突き放す事など、出来はしないから。・・・だから。
往くのなら、今。
…往ってくれ。
暫らくの間、少年も少女も石像の様に固まって居た。風は先程と打って変わって随分と弱まり、二の上に振り落ちた花弁の数だけが過ぎた時間を物語って居たが、暫しの静寂は少女によって破られる。少女が無造作に少年の頬に手を伸ばすと、少女は身を竦ませて少女の方に振り向いた。
「あんた、ここ怪我してる。一体どうしたの?」
少女が心配そうに見て居る自身の細い指先きは朱色に染まって居る。どうせ樹下へ飛び降りるときにでも切ったのだろう。少女とっては大事の様だったが、少年にとっては取るに足らぬ瑣事【さじ】でしか無かった。
心のざわめきは確かに大きく成って来て居る。知ってか知らずか、少女はもう一度手を伸ばして傷口の周りの血を拭い、見上げた瞳で少年の眼を射貫いた。
「ねえ犬夜叉、だいじょ――」
みなまで云わせず、少年は少女の背に手を回す。少年の腕【かいな】の中の少女は抗おうともせず、静かに身を任せて居た。繊細な曲線【ライン】を描く白い顎に手を掛け、僅かに上向かせると少女は頬を春色に染め、目を瞑る。
長い睫【まつげ】に縁取られた双眸の黒さと滑らかで艶っぽい唇の朱さに酔いしれながら、其の触感が分かる程まで顔を近付けるが、もう一つの想いが歯止めを掛けた。
傷付けても良いのか、と頭の中で声がする。答えは初めから決まって居た。
「…昼飯はいらねえ。」
口付けようとした其の体勢の侭そう告げて、少年は少女の瞳が見開かれるより先に勢い良く駆け出す。後には唯、泣き出しそうな表情をした少女が一人残された。
昼餉どころか、舂【うすず】いて空に夜色の帳が降りる時刻を過ぎても、あれきり姿を見せぬ少年を見つけ出そうと、少女は二度目の外歩きに老巫女の家を後にする。
少女を取り巻く群青はもう随分と其の濃度を増して居たが、たとい夜とは云えど、未だ温かさを失わぬ風は澄んで居て、一里先まで見通せそうだった。今宵は、中秋に何らひけを取らぬ程の良夜である。
月影と闇の境は妙にくっきりとして、何やら幻想的な紋様を一面に刻んで居た。月読【つくよみ】の遺した跡を追って足任せに進むと、どういう訳かあの神木の近くまで来て居る。
少年が駆け行ったのは寧ろ真逆の方であった筈だが、不思議と其方に居るとは思えない。思い悩むかどうかで随分と変わるものだと半ば呆れ返りつつ、少女は一歩一歩大地を踏み締めて歩いた。
空に浮かんだ硝子珠が目にとまると、金の眼が思い出される。また、泣きたくなった。
――あの瞳が全てを物語る。少年は、己が一筋の迷いも無く結論を見出す事が出来る様に、触れる事無く遠ざかったのだろう。寸前に見た瞳も唇も震えて居た。
己惚れるなと自身を叱咤する心とは裏腹に、少年の全身から注がれた溢れる程の愛情が嬉し過ぎて頬を濡らした露の温かかった事を忘れられない。
其れは少年の想いが己の中に納まりきらぬ程大きくて、毀【こぼ】れ落ちたのかと本気で思えた。
この考えが間違っていなければ、いや例え間違いだったにしろ己の出来る事は、想いのたけを伝え、許されるならば己の手で少年を幸福へ導く、其れだと信じたい。
葉擦れの中に草木を踏み分ける音が混じって、少女の来訪が伝えられる。過去の封印を示す裂け目の下に片膝立てて座り込んで居た少年は、少女の現れるであろう地点から視線を外した。
そうする位なら、今からでも立ち去る方がまだましだと思わぬ訳でも無いし、現に本能はそう告げて居るのだが、心は其れを拒み続ける。妙なものだが原因は知れた。今日だけでなく、少年は心の奥底でずっと、少女を待ち続けていたのである。
背けた目は最後のささやかな抵抗。けれども其れも長くは保たないだろう。月光が森の中をぬけて来た少女の姿を浮かび上がらせる。
「犬夜叉。」
凛とした声音が響く。いつもと少し違った。
「…何でえ。」
間に合わせの応答を聞いて居るのか居ないのか、少女は滑る様に歩いて来て、少年の眼前に腰を下ろした。伸ばされた両手【もろて】は頬を捉え、少年の顔は少女と向き合う。
そして、少女の果てし無く真っ直ぐな瞳に貫かれ、少年の眼は釘付けになった。指先きが甘く痺れる。
「あたしは今、ここにいる。今、あんたの傍にいる。そうでしょう?」
「あ…ああ。」
噛んで含めるが如くゆっくりと発された言葉の耳触りは思わず恍惚とするほど美しいのだが、いかんせん其の意図する処が掴めない。
其れを訊ねる代わりに少女を見詰め返すと、添えられた手がふっと離れた。強い光を放つ瞳は其の侭に、少女は微笑んで先の言葉を紡ぐ。
「あたしはね、それが一番大事なことだって思うの。犬夜叉が、あたしの意思を尊重してくれるの、すごく嬉しかった。だから、あたしも一生懸命考えたわ、自分の居場所はどこかって。」
一つ息をつく少女に、ゆうらり、と少年の視線が騒いだ。少女の出した答は、訊きたいけれど訊きたくない。困った様な表情で、けれど少女はしっかりと前を見据えて言った。
「でも正直言って…今はどうするのがいいのか全然わかんない。だから、『ずっとここにいる』って言えないわ。ううん、ひょっとしたら、永遠に変わらないものなんて、本当はないのかもしれないから、『ずっと』って言えないかもしれない。でも」
少年の胸が酷く疼く。告げられた事が少年が望んでいた事ではなかった所為なのだろうが、其れが総てでは無い様な気がするのだ。
別離【わかれ】を切り出されているようには、到底思えない。どちらかというと、その逆だ。違う意味で冀【こいねが】い続けたものの輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
「でも、それってつまり、未来は自分でいくらでも変えて行けるって事よね。だったら、今を大事にしなきゃいけない、って思ったの。今より早い時間なんて、どこにもないんだもの。」
向けられた全てはずしりと重く、少年の心の奥の奥まで沈み込んで、光の様に輝いては少年を照ら
し、水の様に流れては鈍色を洗い落とした。
まっさらに成って見た世界は本当に綺麗で、色鮮やかだ。少女がずっと見て居た世界に導かれて、少年は少女の言葉の意味を知る。
全ては移り変わり続けるけれど、其れが、何だと云うのであろう。無常の極こそが今であり、この世
の全てなのだから、未来を愁【うれ】うより、今を生きろ。
其れに気付けなかった己が愚かなのか、知って居た少女が特別だったのか解らぬけれど、もう迷
いはしない。
「お前はすごいな。」
「え、何が?」
言いながら、どちらからともなくごく自然に距離を縮めて行く。不思議な程心は落ち着いて、近付いた体温が心地良かった。
「本当にすごいよ、お前は」
「だから、何がよ・・・。」
唇が重なる。
そう長い時間のことではなかったが、夢見心地の二人には永遠に続くかと錯覚する長さがあった。
離れた唇を惜しむ様に其の寸刻を埋める様に、互いの背に腕を回す。そうして交わすは甘い睦言。
「あのね、大好き。犬夜叉。」
「…れもだ。」
「何て言ったの?もっかい言って。」
「いや、その・・・。」
「言いなさいよ。あたしは言ったのに、言わないなんてずるい。」
「いーだろ別に。」
「よくない!!言って!!」
「…だーっ!!だからっ、俺もかごめが好きだってんだよ!!これで文句あっか!!」
「ううん、充分。」
くすくすと少女が笑う。少年は少し少女を包んだ手に力を篭めた。
二つで一つの影が少し短く成って、闇色の中に瞬く星辰【しんせい】は其の数を増して居る。
さわりと風に撫でられ、微かな甘い薫りが少年の鼻腔を擽【くすぐ】る。桜の香かと思えば、其れにしてはこの辺りに桜樹は無かった筈だ。気を一つに引き絞って、其の泉【もと】を辿ると、行きつく先は己の腕の中。
今更に成って思い出した事実に、独りで眺めた花景色が重なった。あの時は寂しいとしか思えなかったが、少女と見たらどんなにか良いだろうと素直に感じる。
何故か今でなければならぬ気がして、口下手の少年にしては珍しく、躊躇【ためら】う事無く少女の名を呼んだ。
「なあ、かごめ。」
「ん、何?」
少し小さく、くぐもって聞こえる声が、少女を抱擁している事をより一層実感させる。
「桜、見に行かねえか?」
指と指を絡めて繋いだ手が熱い。布と皮膚の間、髪筋一つ一つの間をすり抜ける風も、固く結んだ
二つの手は迂回して進んだ。
辺りは完全に夜へと移り変わり、闇色も深い。だが、朗朗たる名月の造る灯【あかり】のお陰で山道にも足場の心配は無かった。桜狩に赴いて幾らも経たぬ内の事である。
ゆったりとした動作で足を運ぶ少年の横顔に目を遣って、少女は浮かんだばかりの疑問を口にした。
「どうしたのよ、突然桜見ようなんて。」
少年がぴくん、と小さく身を竦ませたのに、果たして少女は気付いたかどうか。怪しまれる事の無い内に、と些か慌て気味に少年は言葉を返す。
「別にどうもしねえよ。桜の匂いとお前の匂いが似てるって思った、それだけだ。」
「ふーん…。わあっ、凄い!!」
気の無いとも、やや釈然としないとも取れる返答に続いたのは、目の前に広がる光景への驚嘆の言葉。唯々見とれるばかりで、この様子では先程の疑念など、最早少女の頭から消え去って居るだろう。しかし、其処は夜桜など別に珍しいとも思わぬ少年でさえ、目を見張る神々しさを持って居た。
大きな黄玉【トパーズ】が発する光は晧晧として、在る物全ての明暗を分ける。昼間より白みが強い様に見受けられる花々の一つ一つが、浴びた輝きを弾き、目もあやな眺めを生み出した。
時々に走る舞姫だけが、微かな音を立てる。大地も、新雪が覆った如くに、敷き詰められた欠片の花明りに満ちて居た。
呆然と立ち竦む少女は、真横に佇む少年の声で漸く我に返る。
「何突っ立ってんだよ。ほら、行くぞ。」
「あっ、ちょっと待って。靴で踏んじゃうの嫌だから。」
言うが早いか、少女はずっと繋いで居た手を解いて履物二つを脱ぎ、手近な木の根元に揃え置く。
桜の捺染された更紗【サラサ】にそろそろと素足を伸ばすと、柔かいものが足を掠めた。心の昂揚が快くて、少女は跳ねる様に駆けて行く。
あっけに取られて居た少年も、やがて足を向けた。きゃらきゃらとはしゃぐ少女の声が、暫しの間響き続ける。
けれど、穏やかな顔で桜と戯れる少女を見守る少年は一人考えて居た。少女は桜によく似て居る、と。
心ゆくまで楽しんだらしい少女は、何時しか万朶【ばんだ】の桜の真下で、満開の桜を見上げて居た。傍へ寄って来た少年に気付いたのか、ぽつりと言葉を漏らす。
「きれいだね、桜」
「ああ――でも、儚いな」
少年はもう、桜花に少女をだぶらせて物言うのだけれど、無論其れは少女の知る処では無い。それなのに、少女は少年の心を見透かして居る様な言葉を述べた。
「そんなことないわ。桜もきっと精一杯咲いて、そして散っていくの。だからこそ、綺麗なのよ。一生懸
命生きた後だもの、儚くなんてないわ。あたしはむしろ、力強いって思うけど。」
――徒桜【あだざくら】でさえ、力強いと言える少女が余りにも愛しくて、如何しても手に入れたくて。
少年は其の細い躰を抱き寄せて深く口付ける。少女は、突然の行為に驚きはしたが、頭の芯が痺れて何も出来ない。只、温かいものが口内をなぞるのだけが感じられた。
「んっ…。」
漸く息を吐くけれど、一つに成った吐息の甘さにくらくらとする。身体の力が抜けて行って、少女は唇を合わせた侭其の場にくずおれた。
一瞬意識が途切れて、次には、少女は白く光る褥に横たわって居るのが解る。名残惜しげに唇が離れた処でうっすら目を開けると、直ぐ前に緋色が見える。
少年の頭が少女の首元に埋められた途端、小さな痛みが二度、三度と走って、其の数だけ桜の花が咲いた。少年の名を紡ごうにも、舌縺れがする。けれど胸布が抜かれる音が聞こえた時、搾り出す様にして声を出した。
「い、犬夜…叉…。」
小年の動きがぴたりと止まる。腕を突っ張って半身を起こし、少女の瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「厭、か?」
少女は心の中で狡い、と呟く。捨てられた仔犬の様な瞳で見詰めておいて、己が否と云えると思って居るのだろうか。
先程の焦りも何処へやら、少女は胸が一杯に成って行くのを感じながら、少年の首に手を回した。そして、そっと囁く。
「莫迦言ってんじゃないの。」
交じり合ったぬばたまの黒の上を、花弁が一ひら、滑って行った。
……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす……。
其れが、何だと云うのであろう?