火点し【ひともし】頃なぞ疾うに過ぎ、天を藍の色【いろ】が支配する刻限だと言うに、戦国の森に揺れる影が一【ひい】、ニ【ふう】、三【みい】……。かと思えば、三つではどうも多過ぎる様だ。
豊かな雪白の髪を括りもせずに緋の衣に流した少年と、すうすうと寝息を立てる口先の達者な仔狐を胸に抱いて、此処では見られぬ奇怪な着物を纏った少女は、先程塒【ねぐら】に目を付けた洞穴へ一目散に歩を進めて居た。
つい半時前まで少女が湯浴みし、一騒動あった其処から洞窟までは、ほんのニ町も無かろう。だが此の時代、陽が落ちてからの身動きは自殺行為で有り、たかだかニ町であれどやはりかなりの危険を伴うものだ。
其れを骨の髄まで知り尽くして居る少年は、常時以上に眉を吊り上げ、周囲に気配の糸を張り巡らせて居るのだが、育ちの異なりは致し方無くは有るが、それでも些か呑気過ぎるとさえ言える少女は、心地良さそうに熱を帯びた頬を夜風に晒す。
木々のざわめきは其の奥に妖の気配を覆い隠して直余り有る様で、影が影を生む大地は歩きにくい事夥【おびただ】しい。いつ何時何処から何が涌いて出ても何ら不可解な事は有るまいと云わんばかりである。
それでも幸いにして何事の起こる事も無く、目的の処へたどり着くも、夜の移動には随分と時間を食った。漸く転がり込んだ洞穴からは、既に十三月が巳の方へ見て取れる。
藍を含んだ鴉色の天鵞絨【ビロード】に置かれた硝子玉の様な星々は、もうじき望月を迎えようかという月に負けじと輝いて居る。
現代では決して目にすることの出来ぬ空に仔狐を抱えた寝袋の中から見惚れる少女の身体から、湯船から連れて来た熱は飛燕となって舞い離れ、少女を身震いさせた。
慣れた手付きで火を起こし、かがり火を拵えた其の場で眼を伏せて居た筈の少年は、其れにちらと目を遣り、無言の侭に直垂を少女へ投げやる。
ばさりという音に共に、少女の視界は一面の緋色景色へと移り変わった。其の緋色に滲む少年の優しさに、少女は素直にありがとうを言う。
礼を述べられた少年が思わずうろたえてしまう程嬉しそうな其の声の主は薫物【たきもの】をしたかに沁み付いた少年の匂いに包まれ、すとんと眠りに付いた。
少年は腕を組んで眼を閉じては居るが、其の姿からは眠って居るのか起きて居るのか区別の付け様も無い。事実、少年自身、現と幻の何処に居るのか認識出来ぬ程、其の意識はゆるゆると漂って居た。
裏陶という名の鬼婆の手により、少女の魂を元として巫女が土と骨の紛いの身体に甦り、そして恐らく死の国へ還って行ったのは、ついニ・三日前の事である。
少女の笑顔で平生を取り戻しはしたが、其れ以来、幼い仔狐にも一目で判る程、少年が考え込む回数は増えて居る。少女はと言えば、己の動作を気に留める様子では有るが其れだけと言えば其れだけで、其れは己に有り難いのか否かどうにも図りかねた。
――少女に伝えたい言葉が、伝えねばならぬ言葉が、有る。
其れに気付かせたのは無論の事少女で有り、もう随分と前の事だ。其れなのに未だ伝え得られぬのはやはり、無意識の内にいつかいつかと先延ばしにしようとする不甲斐無い己の性が邪魔をして居るからであろうが、巫女の魂の行く末――即ち少女の事で有るが――を知った今、その様な戯言をぬかして居ては不甲斐無い処の話では無かろう。
其の割に、其の事に気付いてはくれまいかとどう考えても他力本願な思いを抱きつつ、ついつい少女に目を遣る事がとみに増えて居るが、己の動向に敏感な少女が、この時ばかりは其れに気付く事すら無い。
が、それはまあ良い。それよりも、先程は折角仔狐が眠って居たというに、何故か言葉は喉の奥に張り付いた侭、其の先へ流れぬ、其の事が余りにも許し難い。
其の様な己自身への苛立ちがより一層少年を浅い眠りに留まらせた。
少年の衣の温かみ、はたまた匂いに安心した故か、ぐっすりと深く眠り込んだ少女は未だ夜も明けぬ内で有るに関わらず、不意に目を覚ます。
洞窟特有のぬるりとした湿り気を含んだ空気で、少女のやや曲【くせ】の有る髪はしんなりとしなだれ、常に少年が着て居る筈であるのに不思議に褻れてはおらぬ其の衣も、何時もの張りを失って居た。
そういえば肌に触れる制服もどこか己に纏わり付く様だ。気持ち悪い、と布の肌触りに眉をひそめつつも眺めていた、ちらちらと揺れる炎の光が描き出す、岩壁の複雑でおどろおどろしい姿も又、見ていて気持ちの良い物ではない。
こんな場所はもうたくさんだと言わんばかりに胸の奥がぴんと張り詰めた空気を欲して居るのを感じ、少女は仔狐を寝袋へ押し込み、衣を羽織って外へ出る。極力足音は殺した積りだったが、それでも洞穴の奥の方まで幾度も響いた。
遥か彼方の鴉色はそのままだが、月は申の方へ、硝子玉も、もし例え得るならばききょうの襲【かさね】色目の様な薄紙の向うに霞んで仕舞って居た。少女を包む緋の衣と、美事なまでの対照【コントラスト】を生み出す空の色は衣の僅かな綻びに入り込む。
荷の中に縫い針を入れていたことを思い出した少女は身の寒さも手伝って、少年の向いに、未だ鮮やかな火色を保つかがり火を挟んで腰を下ろした。
――只黙って針を操る少女の心に浮かぶは、己の魂で甦ったという巫女の事ばかりである。
何も知らぬ己が巫女はどうしたか尋ねると、今にも泣き出さんばかりの悲しい顔で終わったんだと告げた少年はそれでも、己の顔を見てくれた。怒ってた方が犬夜叉らしいよ、と冗談めかした己に、何時もの様に怒鳴り返した。
けれどもそれ以来、事ある毎に物思いに耽っている。そんな少年を見て居るのは堪らぬが、己は蚊帳の外なのだ、如何ともし難い。
そうなのだ、例え魂が今は己の物で有れど、嘗ては巫女の物だった事は明白過ぎる真実で有るのだ。其れが故に、己と巫女は全くの別人で有ったとしても少年はどう思って居るか、それは分らぬ。
とは言うものの、もう随分分と前の事では有るが、己の巫女装束姿に滑稽なまでに動揺し、反発してみせた事も有れば、最近などは何とも言えぬ視線を己に投げ掛けてくるのだ、丸わかりと言えば丸わかりである。
其の事に己が腹を立てるのは当然だと、そう言って仕舞えばそれで済む事だが、少年も好きで思って居る訳では無かろうし、遣り切れぬであろう。この件に関して傷付いて居るのは明らかに少年だ。
いやいや、そんな生易しい物では無く、己が少年を苦しめて居るのか知れぬ。
もしもこの推測が真実の物で在ったなら衣の穴を塞ぐ様に、心も塞ぐ事が出来たら良いのにと切に願って仕舞う。其れどころかそうでなければ己が何のために此処に存在るのか、とすら思えてならぬ。
――沈んだ心持の少女の耳に、先程よりは幾分小さくなった炎の中で燃え殻ががらがらと音を立てて崩れるのが入った。
目を覚まして仕舞ったのではないかと少年を伺い見るが、少なくとも眼を開けてはいない。
しかし、憂患そのものと言った表情の、まだどこか幼さの残る少年の輪郭に注がれる炎の筋はあたかも涙痕の様で、少女の心に突き刺さる。
それは同時に動き続けていた手元が狂い、針を指にぶすりと刺した痛みでもあった。朱【あけ】の球はみるみる膨らみ、やがて弾け流れる。心の臓に共鳴する痛みは熱を放ち、少女は口内へと熱を移す。
「何やってんだ、馬鹿じゃねえかおめえ。」
てっきり寝て居るとばかり思って居た少年の声に、思わずぴくんと肩を振るわせた少女は問いには答えず、些か申し訳無さそうに言葉を返した。
「ごめん…起こしちゃった?」
いや…、と何処か戸惑う様に答えた少年は、未だ眼を開いては居ない。それなのに何故、己の所作を知っていたのかといぶかしむ少女の心を見透かしたかにして、少年は続けた。
「お前の血の臭いがしたからな。」
え、と首を傾げた少女が其の意図を汲み取り得るには、しばしの時間を要した様である。
少女の血の臭いがする、其れは取りも直さず、少女に身の危険が迫って居るという事に他ならぬ。例え僅かな休息の時であってさえ少年が己を守っていてくれて居るという事実は、沈んだ侭であった少女の心を温【ぬく】める。
「…ありがと。」
考えるより先に口が動いていた。言って仕舞った後でやけに気恥ずかしい気分になった少女が上目遣いに少年を垣間見ると、やはりと言うか何と言うか、其の双眸は伏せられた侭だった。頬が幾分赤く見えるのは長い事炎の傍を離れて居らぬからであろうか。
本当に分り易いんだから、と口の端を緩めた少女は、指先の朱を拭い直すと再び手元に目を落とす。瞬く間に綻びが消え失せたのは、少年に声をかけられた辺りから手を止まったままだったが、其れより前に穴をほぼ塞ぎ終えていたのだから当然といえば当然だった。
仕上げに糸の攣りを直して結い止め、歯で器用に噛み切る。が、ぷつりという威勢の良い音は矢鱈【やたら】と遠く感じられた。
今の今まで気付きもしなかったが、一時前まではあれ程冴え冴えとして居た頭が、今は妙にぼんやりとして居る。
其れでも一応、針を戻しに荷の方へと向かい、窟の出入り口に幾分近い其処から首だけ伸ばして見た空の色は辛うじてほの暗さが漂って居たが、少女が一寝入りするより先に薄れて仕舞うのは確実だった。
寝袋へ出戻る事は無かろうと考えた少女は、繕い終えた衣を肩から掛けて目を瞑る。衣は風を遮り、今にも消えそうな小さな炎がかえって快い。其の侭眠って仕舞えばどれ程心地良いだろうと思いながら、しかし少女に耳にはっきりと届く炎の爆ぜる音が途切れる事は無かった。
糸と衣の擦れる音が唐突に止み、代わりに少女の穏やかな吐息が炎越しに少年の耳に届く。
己は只、事実を述べただけだというに、その何事かが少女にとっては嬉しい事で有ったらしい。
何を考えて口にしたのかは己の知り得ぬ事では有るが、衣を貸してやった時とは何処かが違う、「ありがとう」の言葉が、驚く程耳に残って居る。自身を嘲笑う如く疼く心を、繰り返し繰り返し蘇る少女の声が宥めて行った。
癒されて行く感覚に身を任せて居た少年は、ここの処いつも早く早くと自身で急かして来た、其の事さえ忘れて居る事に気付く。
あの雨の日、漸く理解した事は、随分と長い間伝えられずに居たのだが、今ならば。――今ならば、伝えられるやも、知れぬ。
「かごめ。…お前はお前、桔梗は桔梗だって事、ちゃんと解ってっから。」
「……うん。」
恐らく聞いて居ないだろうが、それでも…と分の悪い賭けをした積りが、少女は一言一句漏らさず聞いていたらしい。先程までの神妙な顔は何処へやら、いつもの仏頂面に戻った少年は、何故か己の心の暖かくなって行くのを感じつつ、少女に食ってかかった。
「かごめてめえ、寝たふりしてやがったのか!!」
「何言ってんの、あんたさっき同じ事したじゃない。これでおあいこよっ。」
立ち上がって衣を放り、悪戯めいた表情をしてみせた少女もまた同様に、暖かいものを感じて居た。
一瞬、二人の間を鮮やかな緋色が埋めた。少女の手から少年へと移った衣には少女の匂いが、少女の胸元の赤には少年の匂いが微かに残って居る。……心臓が、とくんと脈打つ。
其れが互いへの淡い想いである事に、そういった事にてんで疎い少年も少女も気付く筈は無かった。が、未だ自覚せずとも、薄紙を剥ぐ様に其の存在を現して居るのは確かだ。
「…さてと。そろそろ七宝ちゃん起こして支度しないと。」
まだ何か言いたげだが、図星を突かれて苦虫を噛み潰した様な少年を横目に見つつ、少女は誰に言うでもないかを装って呟いた。
「けっ、さっさとしろよっ。」
言い捨てて外へ出ようとする少年の背中に、いつもなら悪態の一つも突く処、何故か可笑しくてふふっと少女は微笑む。
其のどこまでも澄んだ、そして清艶な笑みに見惚れない者は無いというに、其れを向けられた少年が目にする事は無く、心の軽さと暖かさに清清しいものを感じつつ前を見据え、滅多とは無い穏やかな顔も又、少女が目にする事は無かったが、互いの香は暫く消えはしなかった。
――今やっと、長い長い、夜が明ける。