あたりはすっかり薄暗くなってしまっていた。足元を見誤らないよう目をこらしつつ、僕は全速力で階段を駆け上がる。
うちは神社だから、とにもかくにも段数が多い。だんだんじれったくなって、一段飛ばし、二段飛ばし、最後はそれすら面倒になって、中央につけられた手すりにしがみついてはずみをつけながら三段飛ばす。そういえばずっと昔に、母さんにこの話をして危ないからだめだと怒られたけど、どうしてかこれだけは直せなかった。他のことなら、何だって聞けたのに。
春の宵。風は少しなまぬるく、境内に植えられた桜の木が、妖しく花弁をこぼしている。
それを横目に見ながら、参拝者の姿のない本殿の間をすり抜けて裏に回り、僕はそこで息を整える。ゆっくりと、でも大股で歩きながらずり落ちた鞄をからげて家に入ると、僕はまっさきに母の部屋へ向かった。コンコン、とドアを軽くノックして、返事を待つ。この一瞬、妙にどきりとするのはなんでだろう。
「はあい」
いつもと変わらない、柔らかな母の声。安心して僕は部屋へ入り、ベッドの脇に腰を下ろした。
「随分早かったのね」
部活や生徒会で、僕の帰りはどうしても七時を過ぎてしまう。今日はまだ六時を少し回ったくらいだから、たしかに普段よりは早い。
「うん、だって今日は満月だから」
今夜僕は、人ならざるものへと変化と遂げるのだ。眼は金色で髪は銀色。頭のてっぺんには犬のような耳が生え、爪も牙も、まるで刃物のように長く尖るのだ。感覚も鋭くなるし、身体能力も上がる。
そうだったわねと僕に向き直り、おっとりとした調子で母は言う。
「おかえりなさい、りょうくん」
「――ただいま」
満月
僕は小さなころから、不満に思っていることが三つある。
一つ目は満月の日だけは、母や祖母が僕を絶対に家から外に出さなかったこと。これは、僕が変化するのは当たり前のことではない、と解ってからは納得した。
二つ目は、母が一切、父に関することを教えてくれなかったこと。
どんなに「どうして僕にはお父さんがいないの」と泣きじゃくろうと、母はごめんね、としか云わないのだ。『その日』が来るまで、待ってちょうだい、とも。
重ねて、僕は問う。どうして今じゃいけないの。だって、『その日』と言われたってそれががいつなのかわからないのだ。
りょうくんが、もっとおおきくなったら。ママとおんなじになったらよ。
そんなの、わかんない。だってママはママなのに。
そうね、でもだめよ。
ママはぼくのこときらいなの?
ううん、そんなことないわ。
いちばん、いちばんだいすきよ。りょうくん、わたしの、だいじなたからもの――。
そう、三つ目がこれ。
母は絶対に僕を本名で呼ばない。どんなにせがんでも、りょうくん、と愛称でしか呼んではくれなかった。
それも、どうして、と訊いたら、やはりごめんね、と困ったように謝るばかりだった。何度泣いて頼んだかしれないのに。
――あなたにあげられるものは、それしかないから。
ねだると必ず、母はそう言って僕を抱きしめていた。そのたびに違う、と言いたかった。小さいころは何がなんだかわからないけれど、とにかくさみしくて、涙がでて、そうしてまた、母は透き通ったかなしい顔で笑うのだ。
物心がついてからは、僕はなんとか口をつぐむ方法を覚えた。でも、それでは今僕が感じているぬくもりは、僕のものではないのかと、何度問いただしそうになったことだろう。けれどその頃にはもう、そのほうが辛いような気がしていた。口に出せばまた、切なげな顔でわらうことを知っていたから。
敢えて言うなら、そのたたずまいは、桜のそれによく似ていた。あえかにかそけく、なれど潔い薄紅色のあの花弁に。
「お夕飯がすんだら、今日はお散歩しましょう」
見せてあげたいものがあるの、と母は何でもないように口にした。
絶句する。それでは今日、早く帰ってきた意味がなくなってしまう。
「この前りょうくん、十五歳のお誕生日だったでしょう?それから数えて最初の満月。今日が『その日』よ」
何でもないように母が告げた。まるきり年頃の娘のようなあどけない――というかこのひとは、十六で僕を産んでから、ほとんど
齢を重ねていないように見える――顔で、ふうわり笑う。
「車椅子、取ってきてくれるかしら」
母には両足がない。そのほかにも、背中にも一面に火傷のひき攣れがあったり、壮絶といっていいだけの怪我の痕が残っている。満身創痍と言って差し支えない。傷そのものはすでに癒えているようだが、この華奢な身体には相当に堪えたことだろう。
そんな身体であったから、僕は実質祖母に育てられたといっても過言ではない。けれど毎日家に帰ってきては、あんなことがあった、こんなことがあった、と母がにこにこしながら聞いてくれるだけで、僕は満足だった。
うん、と首肯して、僕は車椅子を取りに走り、母を抱きかかえる。ふわふわと甘く、優しい匂いがした。
冷えるといけないから、と祖母からブランケットを受け取り、母の膝にかけてやる。ありがとう、と母は微笑んだ。それだけで不思議なほど心のどこかがむずがゆくなる。
できるだけ振動のないように、僕は静かにハンドルを押し進めた。
ここでいいわ、と母が言ったのは、これも「決して近づいてはならない」ときつく言い含められていた、我が家の井戸。
いぶかしげな顔をしていたのだろう、その中を覗き込めば、すべて井戸が教えてくれるわ、と母は言葉を重ねる。
その笑みは、相変わらずほころびかけた花のようだったけれど、少し影があるように感じたのは気のせいだろうか。
そうして祠の扉を開いて階段を下り、僕は井戸の底を見つめた。
制服姿の少女がいた。緋色の着物――あれは水干かもしくは唐衣というのだろうか――に銀髪、金色の瞳の少年がいた。弓矢を持った巫女さんがいた。紫の袈裟をまとった青年がいた。大きなブーメランを担いだ、黒服の女性がいた。ふさふさとした尻尾の、小さな子供がいた。二つの尾をもつ、大きな猫又がいた。
優美な姿をした、片腕のない男性がいた。うねるような長い髪、
昏い瞳の妖怪がいた。
ほかにもたくさん、現代ではみたことのない姿をした人びとがいた。
彼らはときに笑い、泣き、怒り、戦っては傷つき、それでもなお立ち上がって走り続けた。
最後に残ったのは、セーラー服の少女と、妖怪だけだった。
二人がどうなったのかはわからない。ただ、まっしろに光があふれて、僕は気が付いたら元の井戸端に戻っていた。
あいしているわ、と最後に少女がささやいた声が、まだ耳の底で揺れている。
祠から出て、僕は母のもとへ戻る。桜は相変わらずちらちらとこぼれつづける。月の動きをみるかぎり、時間はさして経っていないようだった。
「見てきたよ」
そう、と母は頷いた。
「…あのひとが、僕の父さん?」
母はどこか遠い目をする。
「犬夜叉って、いうんだね」
「うん、犬夜叉」
母は何もいわなかったけれど、父の名から一文字、とっていることだけはわかった。
父は、不器用だけれどあたたかな
男だった。勇猛果敢に敵に立ち向かってゆく姿は、どこまでも誇り高かった。あのひとの息子なのだと思うと、少し胸が熱くなる。
僕はそうっと、聞いたばかりの父の名を口の中に転がしてみる。そのとっぴな名前は、母の口から聞くとあんなにも僕の心にしっくり馴染んだのに、なぜだろう、自分でやるとあまりにもよそよそしい。
そんな僕にかまいもせずに、母は呟く。
「犬夜叉をね、愛してるの」
「あいしてるのよ」
その響きには、ひどく特別な何かが含まれていた。
何に似ているだろう、と僕は考える。母が僕を呼ぶ、その声もまた僕にとっては特別だけれど、それとも違う。あれは自分の手の中の、宝物――なにせ、母がくりかえし僕に云って聞かせた通り、彼女にとっての僕は宝なのだから――に対するものではない。
けれどそうだとしたら、あんなふうにひびいたりしない。自分の手の中に確かにあるのだから、あんな風にこころもとなさげな感じになったりはしない。
子どものような口調。まるで、届かない月をねだるような。
そう考えて、はっとした。
どこかで聞いたことがあるはずだった。だって僕は確かにそれを知っている。
馴染みすぎていて今の今まで気が付かなかった、その事実になんだか呆然とする。だって答えは、僕が母を呼ぶときのそれだったのだから。
月。
どんなときもそこにあって、けれどけして手には入らないもの。焦がれても焦がれても、近づくことさえかなわない、不可侵の――。
たぶんそれは、僕にとっての母そのものだ。母が父を
愛しむのとはまた別の意味で――あるいは同じ意味でもあったかもしれない――僕は確かに、かのひとを
恋うている。
母はずっと昔から、それを知っていたのだろう。
「ごめんね」
今更ながらそれを知ってしまった。
だけど――。
彼女の言う『その時』とは、だからこういうことだったのだ。
僕は気づく。彼女は僕を愛しているとは言わなかったことに。決して。一度だって。
りょうくん、と母の声。僕はゆっくりと振り向いた。
母は相変わらずの
稚い、けれど普段のように少女めいた表情ではなく、文字通りの「母」の顔で、僕の名を、呼んだ。
「
良夜 」
母は僕に、名前しか残していかない。
今ならそれが、わかるような気がした。
僕の名を呼んだそのほほえみのまま、母の体がうすくなってゆく。
そうしてそのまま、霞のように儚く、さらさらと消えていく。影も残さず。
彼女は最初から、ここにはいなかった。徹頭徹尾、父を愛していた。父のいた時代に、母は心を置いてきてしまったから。だからそれは、僕の
許にはない。
けれど、あの優しい微笑みも、ぬくもりも、声も――何もかもがにせものだったと、そういうわけじゃなかった。
歳をとれなくなった母がいままでここに留まっていたのは、畢竟、僕のためだったのだから。
(いちばんだいすき)
(わたしのたからもの)
そう、嘘だったわけじゃない。僕は間違いなく慈しまれていた。だから。
(あいしてるの)
かすかに母の気配ののこる衣服を抱きしめて、願う。
「…どうか、」
遠く彼方、もう二度と会うことの叶わぬかのひとが、幸せに笑っていてくれることを。
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日暮良夜【ひぐらしりょうや】(15)
外見のベースは父親、ただし雰囲気が母親のもの。性格は見た目の剣呑さの割に(父親のせいです/笑)いたって温厚。神経は繊細だが、母親をはじめとする家族の愛情を一心に浴びて育ったせいか、どこぞの誰かのように屈折した部分はナシ。
通常は黒髪黒目ですが、満月の夜だけは父親の血の影響を受けて犬耳に銀髪金目に変化。ただし髪が伸びたりはしません。
本編からもわかるように、非常におかあさん思い。……と書けば聞こえはいいですが、ややエディプス・コンプレックスの傾向が強いのは否定
できませしません。自分を生んだ女性は歳をとることもなく、どんな時もかわらず、優しく抱きしめてくれる。その慈しむ視線に、知らぬうち恋愛感情を錯覚しまうのはまあ仕方ないんじゃないかな、と思いますが。(苦笑)
文中にちらっと書きました部活と生徒会については、おそらくサッカーかバスケあたり、生徒会は書記や副会長あたりのサブポジション。将来は日暮神社を継ぐつもりなので、私立の神学校の推薦狙い…でしょう、たぶん。
とかく人当たりが良いので誰とでもそれなりの人間関係を築いていけるタイプではありますが、強いていうなら年上の女性にもてそうな気がします。やっぱりこれも母親効果なのでしょうかね。
ところで「良夜」という
単語は、【月の明るい夜】という意味を持っています。プロットの段階では「優夜【ゆうや】」にするか迷っていたのですが、「朔=父の妖力が最も弱まる日」ならば、「月の明るい夜→満月=息子の妖力が最も強まる日」ではどうだろうと思い、これが彼の名前の決め手になりました。