終焉の足音
「愛しているわ」
私はあらんかぎりの思いを込めて、艶やかな銀髪の男の遺体に囁いた。銀髪の男は、その両腕と、顔の半分をなくしていた。ゆえに、私は私を庇うことでなくならざるをえなかった、もうそこにあるはずのない彼の腕を握り、何をも映すことのない残された目玉ではなく、最期まで戦いに挑みつづけたつよい瞳を見つめた。それには理由があった。私はまだ、今の情景を受け入れては、ならないのである。
銀髪の男の姿は、見るも無残なものである。男は私を護るために命を落としたが、私もまた多々の手傷を負っていた。こと、足と後半身は、眼もあてられぬ。
ぐだぐだになった脚の骨が肉片に食い込み、或いは血の中に散りつつあるのを、私は感じていた。下半身は、途方もなく熱く、感覚はろくろく残ってはいない。しかし、それはそれで都合が良かった。これで痛みなど感じ取っていたら、私はまともにものを考えることすらできないのだ。なれどいくばくか、意識は朦朧とする。おそらくは背中の火傷のためであった。
私は制服を身に纏い、この場へと立った。しかし、それはもうその痕跡すらも認めてはいないのである。肩より下の髪は
制服は下着と、下着は背中の皮と、それぞれがべったりと張り付き、三枚で一枚の皮膚のようになっているのであった。おそらくは、まともな皮膚をうしなった背中の肉から
しかし皆死に絶えたこの場において私は生きており、体の部位は何ひとつとして欠けていないのである。私こそ、最も死に遠い者であった。
私以外に生あるものはない――少なくとも私はこの時まで、そう考えていた。しかし、斜に構えた低い女の声がそれが誤りであることを私に告げた。
「死んだのか?」
「――生きていたの」
「てっきりあたしも、くたばったもんだとばっかり思ってたんだがな」
こういう悪運だけは強いらしい、と唐輪髷の女は笑った。
「それで」
何度も云うが、唐輪髷の女の体には上半身しかありはしない。ゆえにうまく首が回らないのである。女はしきりにこちらを――銀髪の男の方を見ようとしながら、二たび尋ねる。さきほどの答えであった。
「ええ」
些か苛立たしげに、はん、と唐輪髷の女は声を上げた。どうやら私が何の
「惚れた男がくたばったってのに、お前は泣いてもやらねえのか。奴も不憫なもんだぜ」
「そうね、泣けたらいいわ」
そうね、と私はもう一度呟き、そして瞬きをした。抑えているはずのものは微塵も感じられず、むしろ眼球はぱさぱさと乾いている。私を取り巻いているものが、皆目判らなくなりそうだ、と私は思った。けれど、そうなるわけにはゆかぬのである。私は
「でも、私にはまだやらなければならないことがある」
「おい、まさか」
私は静かに彼の腰から、牙の愛刀を抜きとり、握り締めた。かち、と鍔がいかにも厳粛に鳴り、そこでようやく唐輪髷の女ははじめて狼狽したような声をあげるのであった。
「決まっているでしょう」
恐ろしく冷徹な、声。こんな声音は、私自身、聞いたことがなかった。それは尤もかもしれぬ。かほどに哀しかったことも、かほどに憤ったことも、初めてである。あまりに哀しく、あまりに憎く。
肥大する負の感情に、私はかえって何も感じることができずにいた。超音波と呼ばれる、それに良く似ていた。確かに存在するのに、人の耳が聞き取れる範囲を越えてしまっている。聞き取ることができぬのだから、音はせぬ。けれども、
「あれを、殺さないと」
そう云うと、私は尚のこと神経が張り詰めるのを感じた。すうと、冷たいものがはしる感触。これが、覚悟である。
ゆえに、私はまだ涙を流さないのであった。泣くわけにはゆかぬ。それは私がなくしてしまったことを認めてしまったことと等しい。そうなれば、私はもう動けなくなる。その前に、私にはすべきことがあった。それまでの寸刻ならば、どうとでもできよう。私はおそろしく「強くできる」ようになっていたのであった。「強くなった」ようにふるまうことが、できるように。
「――殺す?」
女が、静かに問うた。私はふたたび、覚悟を噛み締める。
今まで、自分との間に直接の因果はなかった。自分の大切な人々の大切なものを奪った「敵」として、彼らの眼を通し、私は憎んでいた。けれど今は、本来の意味での、紛うことなき「仇」である。私はこうなって初めて、彼らの強さを知った。どんなに憎いか、哀しいかしれぬのに、それでも殺すとは云わなかったのが彼らである。倒す、ただそう云っていたのであった。
けれど私は弱い。強くはできるけれど、それは決して本物の強さではないのである。ゆえに私は殺すのであった。
「――殺してやる」
倒すのではではない、殺すのだ。私の心に、一片たりとも迷いはなかった。
無二の仲間。総てを捧げ、捧げられても飽き足らぬひと。誰も彼も、命を失ってしまった。それは、私たちみなが敵とみなし、追いつづけてきた男によってもたらされたものであった。
「莫迦なことを」
唐輪髷の女が嘲った。それは私への侮蔑というよりは、女自身へ向けられたものであった。無理もなかろう、と私は思う。
唐輪髷の女は、かの男に従属することをよしとせず、なれど命惜しさに明白な背徳を犯すことも出来ず、最期にはこのありさまである。
されども、唐輪髷の女の考えは、私を縛ることはなかった。私には覚悟があり、切り札がある。それが、この化け
「いいえ、そうでもないわ」
「お前に扱えるのか?」
私が
「おそらくは」
「なぜ」
「私のなかには、彼の血が流れている」
私は目を閉じると、無言で化け釖へと語りかけた。目では決して
一つは同士たちがあらゆるものを
唐輪髷の女は刹那、その言葉の意図するところを考えたようであったが、真意に思い当たるや否や、再び口を開いた。
「それなら、どうしてむざむざ殺されにいく?あれだけ力が暴走すれば、あいつだって無事ではすまねえ。自滅するのもじきだろうに」
どうやら唐輪髷の女は、惚れた男の忘れ形見が可愛くないのかと問うているらしかった。遺された子を育てて生きる、そういう道もあるだろうに、と女は私に言うのである。
違うわ、と私は答えた。無論、唐輪髷の女の言は、誤りではない。しかし僅かな違いならば、そこに含まれているのであった。
「違う?」
「そう。ここで私が逃げ出せば、この子を哀れな
この子の父は、激しくも厳しい生を最期の最期まで戦い抜いた勇猛果敢な男である。けれど裏腹に、母はその父に護られるだけ護られて、仲間達の、そして夫の無念を知りながらもそれを果たそうとはしなかった、ということになるのであった。そのような私が、腹の子に、父のことをどう語って聞かせるというのだろう。それが出来ぬのなら、父は始めからいないも同然である。
卑怯で矮小な、私の子。あの銀髪の男の血を引きながら、子を私だけの子にしてしまうことは、どうにも忍びなかったのである。
「まったく、無謀なことを」
人間の考えることはわからんとばかりに唐輪髷の女はつぶやき、十中八苦、いや、ほぼ確実に死ぬだろう、と掠れた声で続けた。
「そうね、多分無事に帰ってくるなんてありえないわ」
私が同意すると、唐輪髷の女は口を開きかけた。しかし何を云うものやら迷ったのであろう、しばしの逡巡ののちに、きまり悪げによそを向いて見せるのである。そこを見計らい、私は付け足した。
「おかしな話だけど、死ぬんだって気は全然しないの」
だから生きて帰ってくる、というと、唐輪髷の女の赤い瞳がめいいっぱい見開かれる。驚愕に染まっていた顔に、どこか不敵な表情が浮かび上がったように、私は思った。
「なあ」
どこか楽しげな調子で呼びかける唐輪髷の女の声を、私は淡々と耳に落とした。女自身も命の
「風を、貸してやろうか」
今度は私があっけにとられる番であった。まさかそんな申し出があるなどと、思いもよらなかったのである。
「そんな状態でそんなことをしたって、寿命が縮むだけよ」
「どうにせよ、もう死ぬさ。それなら最期くらいは自分で決める」
「まあ、それはそうね」
私が笑うと、お前が云うんじゃねえよと唐輪髷の女が眼を
「なら、ありがたく」
私はよろよろとみっともなく、銀髪の男の遺刀をを支えにし、膝立ちになった。下半身の骨はおおかた砕かれてしまっていたが、それでも上脚だけはどうにかまともに動くのである。
「本当に助かるわ」
私が両足とも使い物にならない事実を告げると、唐輪髷の女はぽかんと口をあけ、私を見つめた。
「もしあたしが黙ってたら、お前どうするつもりだったんだ?」
「這ってでも行けないことはないわ」
「はっ!」
そうでしょう、と是の含みを持たせて私が答えると、唐輪髷の女は高らかに笑った。もっとも、死相の濃くでた顔、まともに出ないしわがれ声ではあったが、けれど、私が知る中では女は今、最も生き生きとしているように思えるのであった。当人に云えばすぐさま否定されるのであろうが、唐輪髷の女は下手な人間よりも人間くさい
「たいした女だよ」
最初で最後である唐輪髷の女の賛辞に、私は無言の笑みを返す。女が髪の羽根かざりを空に放すのが、ちらりと見えた。
風が舞い、私は勢い良く上空に浮き上がる。かしゃん、と軽い音が真下から聞こえたが、私は振り向きもしなかった。おそらく、そこには血塗れの着物と、壊れた扇が転がっているきりであろう。私は大きく息を吸い込むのであった。
因果に狂った数多の魂の供宴。その幕を下ろすべきは、今である。そののち私は、なんとしてでも生きて帰らねばならない。
――私は無言で、戦いの場を目指した。