なみだ







 予定にない姉の帰郷。初めからどうもおかしいとは思っていたが、果たしてそれは正しかった。何気ない風でねえちゃんお帰りと声をかけた瞬間に、僕は悟った。予感のとおり、柔らかくみえるように作られた表情が、ぎりぎりで震えることを止めていた膝が、みるみるうちに力なく崩れてゆく。そのまま姉は、棒のように直立したままの僕に覆い被さった。ああ、かごねえだ、と僕は思う。
 ――小さいころの話だ。
 今の彼女しか知らない人が聞いたらさぞかし驚くだろうが、姉はかつて、僕よりもはるかに気弱だった。何かあるとすぐべそをかく、そういう少女だったのだ。その面影はとうになりを潜め、今はおぼろげな追憶の中にしか存在しないが、それはそれは、本当に。そして姉は、僕のことを草ちゃん、と呼んでいた。僕もまた、姉のことをかごねえ、と呼んでいた。
 くすくすと微笑むような、耳に柔らかな響き。たまらなく甘やかでくすぐったいそれは、僕のとっておきだった。けれど何時からか、僕は名前で呼ばれるようになり、彼女は別人のように強くなった。それまでの姉はよくこんなふうに、立ち尽くした僕にぎゅっと抱きついて泣いていたのに。
 どちらも、一番最後はどちらも父の葬儀の日。その時を境に、ぴたりとなくなった。僕としては自分だけの特別が無くなってしまうということを寂しく思ったりもしたのだが、それは彼女なりの決別だったのだろうと、後になって気付いた。
 姉の泣く原因なんて、大したものじゃなかった。その涙も感情の昂ぶりからくるものというより、単なる生理現象に近かった。とにかく簡潔なものだったのだ。どうしたのと尋ねることにも、何ら躊躇いはなかったし、あまりに傍にいたせいか、殆んどの場合はそうするまでもなく原因は判った。
 ――けれど、今はどうだ。
 今どうして泣いているのか、その涙がどこに向いているのか。しばらく姉と顔を合わせていなかった僕に知る由もないのは当り前だが、多分彼女自身にすらはっきりとは判っていない。突き動かすのはあてどもない衝動、おそらくは悲哀。何があったかなんて、訊けるわけがない。こんなに混乱しているのに。
 姉の心の中を、嵐がかき回す。しゃくりあげしゃくりあげ、肩を震わし、どんどん僕の上着の生地を熱くしめらせてゆく。抱きつく腕が、ますます固くこわばる。そのまま、あの頃だ。感覚が逆回転する。今は今でなく、昔だ。草ちゃん、と、優しい声。僕は――。
 真っ白になった頭、よみがえる対の呼び名。ろくろく考えもせず、僕はそれを反射的に呟いてしまった。姉が寸瞬、息をのむ。泣き叫ぶ声は、更に激しさを増す。
 ――あのころ。
 僕も彼女もそれぞれに成長を遂げ、多くのことが変わった。けれど今だけは全部白紙に戻して、総てなかったことにしよう。例え僕に嘆きそのものを受け止めることはできなくとも、今にも暴発しそうな感情はここで吐き出してくれて構わない。時間はつかのま、巻き戻されて。
 僕よりずうっと大きいのに、僕よりずうっと泣き虫な、僕のおねえちゃん。いつもいつも泣いている。でも、大丈夫だよ。僕はそんなに強くないけど、男の子だから、おねえちゃんを守ってあげる。僕は絶対、一緒にいるよ。だからそんなに泣かないで。


 なかないで。